第9話 司書
最近は夏の日射しが厳しくなってきた。
龍臣は朝から暑さで目覚ましが鳴る前に目を覚ました。一階からは味噌汁のいい匂いがしてくる。
匂いにつられてお腹が微かに鳴った。
大きく伸びをして時計を見ると9時。
記憶堂は10時開店でしかも徒歩10分程度の距離にあるため余裕だ。
まだ眠気が残るまま階段を降りると、龍臣の母がキッチンから顔を出した。
龍臣を見てフフッと笑う。
「あら、タイミング良く起きてきたわね。腹時計でも鳴ったのかしら」
「おはよう。……なんでお前が居るんだ」
母に挨拶をしてからリビングへ行くと、テーブルに出された朝食を何故か修也が席について食べていた。
あまりの違和感のなさに、一瞬見逃しそうになったくらいだ。
「おはよう、龍臣君」
「おはよう。いや、質問に答えろよ。というか、学校は? 遅刻だろ」
そう言いながら席につくと母が目の前に味噌汁を置いた。
そして、朝食を食べ終えた修也が首を傾げた。
「龍臣君、夏休みって知ってる?」
「……遠い昔に聞いたことがある。そうか、もうそんな季節か」
夏休みか。
外を見るとセミがうるさく鳴いている。
社会人になれば夏休みなんてほとんどない。制服ではないTシャツ姿の修也は気楽そうだ。
羨ましいね、と言いながら朝食を食べていると母が龍臣の隣に座ってニッコリ笑顔を向けてきた。
「今ね、修ちゃんと話していたのよ。良い歳した息子を実家から追い出す方法を」
龍臣はその視線から逃れるように目の前の朝食を黙々と平らげる。
これは面倒くさい話になりそうだという予感がして、少しうんざりした。
「30歳、よくわからない古本屋勤務、休みの日は1日家にいるような実家暮らしの男なんて今どきモテるのかしら?」
母の言葉に若干傷つきながらも、相手にしたところで負けるとわかっている。ここはサラッとかわすのが一番だと龍臣は心得ていた。
「偏見だよ。そんな男は世の中にたくさんいる」
「もちろん、それが悪いわけではないわ。でもね、お母さんもお父さんももういい歳でしょう? 孫、いえ、せめて彼女くらいは……」
「ごちそうさま。出勤前にシャワー浴びてくる」
母の小言から逃げるように立ち上がった。修也はニヤニヤしており、それが腹が立つ。
つまりはさっさと結婚しろと言いたいらしい。
最近はそういった話が増えてきた。
お見合い話が出るのも時間の問題かもしれない。そうなるとやっかいだ。
親の言い分も分かるが、しかし世の中そんなに上手くはいかないものなのだということはわかって欲しいところだが、それを言った所で負けるに決まっている。
しかも、よく分からない古本屋って……、継げと言って来た親の言うことではないだろうに。
朝から疲れた気分でシャワーを浴び、身支度を整えて玄関へ行くと修也が靴を履いて待っていた。
「何してるんだ」
「一緒に行こうかと思って」
笑顔を見せる修也にため息が出た。
夏休みを謳歌するのはいいことだが、修也にはその前にやることがあったはずだ。
「お前、来年受験だろう? 塾とか補習とか受けて勉強しろよ」
「まだ受験するとは決めていないよ。それに仮にそうなったとしても来年の夏に頑張ればいい話であって、今年は遊ぶって決めたんだ」
そんな悠長でいいのか?
必死に勉強をしなくてもそこそこ成績が良かった龍臣にとって、そういったことはあまりよくわからなかった。
「うちの職場は遊び場じゃないんだぞ」
ほぼ毎日学校帰りに寄る修也にとって、それは今さらなのだが。
今朝の龍臣は少し機嫌が悪く、言わずにはいられなかった。しかし修也にとってはどこ吹く風だ。
今更そんなことを言われても響くわけがない。
「それに龍臣君、今日うちの高校に来る予定だろ?」
「なんで知っているんだよ?」
実は今日はこのあと修也が通う高校に行く予定があった。そこの歴史の先生から記憶堂にあった歴史書を図書室に納品してほしいと依頼があったのだ。
一度、記憶堂へ寄ってから、店を閉めて学校へ向かう予定だった。
「だって、依頼してた歴史の先生は俺の担任だし」
「ほほう。じゃぁ、その先生からお前の授業態度もろもろ聞けるってことか」
着いてくる気満々の修也に龍臣がにやりとすると、逆に悪い笑みを修也が浮かべた。
「その担任が、今日は急きょ休みになったから代わりに俺が校内を案内する役割を得た」
「……生徒に任せるなんて」
龍臣が少し呆れるが、実際歴史の先生が居たところでお金はすでに学校名義の前払いで受け取っているし、実際は図書室までの案内しか必要ない。
後は図書室司書に任されているはずだ。
だから、正直案内なんて誰でも良かった。
だから朝から家にいたのか。まぁ、修也なら気を遣わずに済むしまあいいかと諦める。
修也は近隣の私立高校に通っている。
第一希望は公立高校だったが、学力が足りずに私立高校に変更した。それもあって、大学進学を渋っているのだろうと龍臣は予想している。
修也の通う桃乃塚学院はスポーツが強い高校で、勉学よりはそちらに力を入れているようだった。
生徒のほとんどは部活に入っており、修也のように帰宅部は少数派らしい。
ある意味、勉強も苦手な修也には合っている高校だったのだろう。
本を持って学校に到着してから、玄関で来訪者受付をする。
修也は昇降口から先に校内へ入っていた。スリッパを履いて昇降口へ行くと修也がジャージーを着た男の先生となにやら話をしていた。
背は龍臣よりは小柄だが、短髪でガッチリとした体格の先生だ。いかにも体育教師といった雰囲気だが、修也はどこか逃げ腰だ。
近づいて来た龍臣に気がつくと、まるで『良いタイミング』とでも言いたそうな表情でこちらへ駆け寄ってくる。
「じゃぁ先生、俺やることがあるからこれで」
「あ、おい!」
ジャージー姿の先生はもの言いたげに修也を見るが、龍臣に気が付くと軽く会釈して去っていった。
「先生と話さなくて良かったのか?」
「別に。あの先生、体育教師なんだけど俺に会うたびに部活に入れってうるさいんだ。でも今からやりたい部活もないし、一年ならともかく二年になってからだと入りにくいし今更でしょう」
どこかうんざりしたように話す修也に苦笑した。
先生としてはスポーツが盛んな高校で帰宅部にしておくのはもったいないと考えているのかもしれない。
こう見えて修也は勉強は苦手だが、スポーツはそれなりに出来たはずだ。
だからこそ言わずにはいられないのだろう。
修也に案内されて、本校舎の隣にある二階建ての建物に案内される。
そこには科学室や理科室、美術室、視聴覚室などのいわゆる移動教室が入っており、そこの一角に図書室があるのだという。
夏休みということもあってか、生徒の姿はなく遠くから部活をしている声が届くくらいに静かだった。
龍臣は注文された本を二冊抱えて、修也の後について図書室へ向かった。
「加賀先生。記憶堂の店主さんを案内してきましたー」
修也は図書室の扉を開けて中に声をかけると、本棚の間から「はぁーい」とのんびりした声が聞こえてきた。
「ありがとう、修也君」
現れた女性は40代前半くらいで、背が高く、ストレートの黒髪が良く似合う可愛らしい女性だった。
加賀先生と呼ばれたその女性は龍臣を見て軽く会釈する。
「暑い中、わざわざすみません。司書の加賀です」
「こんにちは。記憶堂書店の柊木です。これ、ご注文の歴史書です」
「はい、伺っています。お預かりしますね」
龍臣が歴史書が入った紙袋を掲げた時、「あっ」と思わず声が出てしまった。
「どうしたの、龍臣君?」
「あ、いや……」
不思議そうに振り返ってきた修也に笑ってごまかす。
しまった。
つい反応して声を出してしまった。
しかし、龍臣にははっきりと聞こえたのだ。記憶堂で記憶の本が落ちる音が……。
もちろん、その持ち主は龍臣でも修也でもない。
ということは、目の前にいる加賀先生の物なのだろう。
本が落ちて持ち主が近くにいるとその予測が付くこの感覚は、どこにいてもわかってしまう。
それが記憶堂の血筋なのだろうということはわかっているが、龍臣としては「またか」という気でしかない。
本を渡して、受領書に印鑑を押してもらう。
「それにしても、修也君にこんな素敵な友達がいたとはね。担任の先生に聞いてびっくりしたよ」
加賀先生曰く、担任の先生から修也の友達が記憶堂の店主だから、修也に案内させると話していたらしい。
「友達っていうのかな? 近所の幼馴染ではあるけど」
確かに友達というにはやや歳が離れているし、友達らしく外で遊んだりはしない。
龍臣にとって、修也は弟みたいなものだ。
龍臣が学校保存用の受領証を書いていると、修也は貸し出し受付のカウンターに寄りかかりながら加賀先生と親し気に話していた。
それを見て、龍臣はピンッと来た。
「修也、ここで授業をさぼっているだろう」
突然の龍臣の発言に修也はビクッと身体を震わせた。加賀先生も目を丸くする。
正解か……。
龍臣は自分の予想が当たったことに少し肩を落とし、修也に呆れたような目線を送った。
あからさまに二人は目線をさまよわせている。
不自然すぎて、正解だと言っているようにしか思えなかった。
カマをかけたつもりだったが、どうやら当たっていたようだ。
「やっぱりな」
修也が放課後、図書室に通うとは思えない。
それなのに司書である加賀先生とどこか親し気な雰囲気があるのは、そういうことなのだと気が付いてしまったのだ。
授業をここでさぼっている間に親しくなったのだろう。
不登校やいじめにあっている生徒が保健室や図書室に通うのは聞いたことがあるし、そういった事例には容認して良いと思うが、修也の場合はただのさぼりだ。
そこはちゃんと授業に出るよう、諭してほしい所ではある。
「加賀先生、こいつを甘やかせては駄目ですよ」
呆れてため息をつくと加賀先生は気まずそうに俯いた。
「はい……、すみません」
「違うんだ、俺が勝手にさぼっているだけで。ごめんなさい、先生」
指摘されてシュンとしながら、あっさりと認めた加賀先生を修也は慌てて庇い、謝った。
加賀先生は苦笑して「いいのよ」と首を横に振る。
「むしろ、私は先生なのに……。ごめんね、修也君」
その笑みにホッとしたように修也も照れくさそうにつられて笑みを浮かべた。
「笑う所じゃないだろ、修也。祖父さんにチクられたくなかったらちゃんと授業には出なさい」
「はぁい」
龍臣に注意されて、肩をすくませて返事をする。本当に響いているのか疑わしい所ではあるが。
そして、「これ本棚に仕舞ってくるよ」とカウンターに積み上げられた返却済みの図書を数冊持って逃げるように離れて行った。
「修也君、授業はきちんと出ているんですよ。本当にたまにこうしてここへ来て手伝ってくれるんです」
まるで怒らないで上げてという口ぶりだ。
龍臣ももちろんさぼりの常習ではないことくらいわかっているから、怒るつもりなど毛頭ない。
時々のさぼりくらい龍臣にも身に覚えはある。
「でも、修也君には甘くなっちゃうな」
「どうしてですか?」
ふふっと笑う加賀先生に顔を向けて首を傾げる。
修也にだけ甘くなるのはひいきと言われてしまうのではないか。さすがにそれはまずいだろう。
すると、加賀先生は声を潜めて言った。
「私、修也君の母親の花江と同級生なんですよ」
「え……」
まさかの名前に龍臣は目を丸くする。
「修也の母親ですか?」
「そう。でも今は行方が分からないそうですね。蒸発したって」
それに対して龍臣は黙って返答はしなかったが、加賀先生は事情を把握しているようだった。
「私が最後に花江に会ったのは、修也君を妊娠している時かな。街中で偶然再会して……。あの時は元気そうだったけど」
「それから連絡は取っていないんですか?」
「ええ。花江、連絡先変えてしまったようで電話もメールもつながらないの」
「そのこと、修也には?」
「言ってあります」
そうだったのか、と龍臣は一瞬天井を見上げた。
修也が図書室に来る理由はさぼりだけではなかったのかもしれない。加賀先生に母親の話を聞きに来ていたのだろう。
「だから、大目に見てくださいね」
龍臣が修也が来る理由に気が付いたのを加賀先生は優しく微笑んでそう言った。
帰り道。
龍臣が無言で歩いていると、修也は気まずそうに顔を覗き込んできた。
「サボりのこと、怒ってるの?」
「いや? 別に怒ってないよ」
「そう? なんかムスッとしているからさ」
少しホッとした様子を見せながら、痛いところを突いてくる。
別にむすっとしていたわけではないが、修也にはそう見えたのだろう。しかし、あんな話を聞いてニコニコとはしていられない。
龍臣は「それは……」と口ごもってから、修也を見た。
これは本人に聞くのが一番だろう。
「……加賀先生に母親の事、聞きに行ってたんだろ?」
龍臣の言葉に一瞬目を丸くしたが、すぐに照れ臭そうに微笑んだ。
「やっぱりバレた? 聞いたんだね。 実は加賀先生、お母さんと同級生だっていうから何か知っているかなって思ってさ」
そう話す声は明るい。
「で、何か聞けたのか?」
そう聞くが、修也は首を横に振った。
「大人になってからは会ってなかったらしいから……。でも、学生時代の話は聞けたよ。お母さん、美人でモテたって」
ヘヘッと笑う修也に、静かに「そうか」と返事をした。
自分を置いて行方のわからない母親の事でも、何か知ることが出来るのは嬉しいのだろう。
修也はあまり自分の両親について、話したりしない。
付き合いの長い龍臣でも、修也が心でどう思っていたのかなんてわからないのだ。
記憶堂に着いて、開店準備を始めると二階からカタンと音がした。
「あれ? あずみさん。もう起きたの? 早いね」
修也が二階へ繋がる階段を見上げた。
どうやらあずみが起きて来たらしい。しかしまだ時間は午前中である。
「あずみ、どうした。まだ早いぞ?」
あずみはいつも夕方になると現れる。
しかし、最近たまにこうして昼間に出てくることがあった。
いや、正確には昼間に出てくることが増えたと言える。その理由はわからないが。
「目が……覚めたのよ」
あずみがポツリと呟くと、龍臣の胴体が暖かくなった。
あずみが抱きついているのだ。
「あずみ」
龍臣があずみが居るであろう場所を見下ろして諭すが離れる気配はない。
「さっき、本が落ちたわ。記憶の本が……。誰のかしら」
あずみの言う記憶の本は、きっとさっきの加賀先生の物だろう。
本の音で目が覚めたのか? 今まではそんなことで起きなかったのに。
「あぁ、きっともう少ししたら来ると思うよ」
「女……?」
あずみは呟いて、しがみつくようにさらにきつく抱き着いてきた。
思いがけず強い力で顔をしかめる。
「あずみ、ちょっと痛いから」
「あずみさん! 龍臣君が苦しそうだよ」
二人に同時に言われ、あずみはハッとしたように龍臣から離れた。
「あ、ごめんなさい。何してるのかしら、私……」
「寝ぼけてるの?」
修也はしかたないなぁと言うように苦笑する。
「そうかも」とあずみも微笑むが、龍臣は無言であずみがいるであろう場所を眺めていた。
寝ぼけていた?
それにしては寝ぼけて抱きつく力とは思えないくらいに、力は強かった。
男である自分が苦しく痛いと感じるほどに。
「修ちゃん、学校は?」
「夏休みだよ」
また聞かれた、と呆れる修也を横目に龍臣はあずみにどこか違和感を感じていた。
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