第8話 女優 後編

井原が目を開けると、そこは薬品の匂いが漂う古い病院だった。

小さな古い個人病院のようで、時間的に夜なのだろうか。辺りは薄暗い。

シンッと静まり返っており、待合い室にも受け付けにも人は誰も居なかった。井原が立っているのは待合い室の診察室とかかれた扉の前だ。


「ここが貴方が来たかった過去ですか?」


穏やかな落ち着いた声に振り返ると、龍臣が数歩離れた場所に立って井原に問いかけていた。

井原は青白い顔で神妙に頷く。


「5年前のちょうど今くらいの季節でした」


井原がボソッと呟くと、後ろの病院の扉が開いた。


「待ってください、理香子さん!」


聞こえた声に振り向くと、今よりも少し髪の短い西原理香子と今よりも少しふっくらとしている井原が入ってきた。


「なんなの? ここに来て止める気? もう決めたことでしょう」

「そう……なんですが……。でも……」


井原が西原の腕を掴んだまま俯くと、西原はため息をついてそれを振り払った。


「せっかく診察外にこうして手術してくれるのよ? ここならマスコミにも口は堅いし、ばれることはないわ」

「ですが……」


グズグズと煮え切らない様子の井原を冷たく一瞥して、西原は診察室へと入っていった。


「理香子さんっ!」


バタンと閉められた扉の前には項垂れた今と昔の井原がいる。


「5年前、西原理香子は妊娠をしました。そしてここで中絶手術を受けたのです」

「……理由は?」


井原は深くため息をついた。


「あの頃は、ちょうど人気絶頂だったんです。西原は下積みが長く、やっと人気を手に入れた頃でした。これからだったんです。だから……、妊娠は望んでいなかった。ここの病院は訳ありの人を診てくれるところなので、ここならマスコミにバレることはありません。実際、今までマスコミにばれたことは一度もありませんでした」


そう話す井原は、待合い室で頭を抱える5年前の自分を見つめていた。


「相手は誰だか聞いても?」

「私です」


予想もしなかった相手に龍臣は静かに驚愕する。驚いた声を出さなかっただけ誉めてほしいくらいだった。


「お付き合いをされていたんですか?」


詮索をするつもりはないのだが、そう聞かざるを得ないくらいに意外な組み合わせだ。


「いいえ……。別に恋人だったとか、そんなんじゃないです。ただ、ちょっとした過ちで……。結果、子どもが出来てしまいました……」

「それで西原さんは降ろそうと決めた?」


龍臣の言葉に井原は悲しそうに頷く。


「西原にとっては望まない妊娠。しかも相手は私なら尚更です。私なんかの子供なんて欲しくなかったでしょう……。しかし、私はずっとこれで良かったのかと考えていました」


井原は目に涙を浮かべている。


「最近の西原は、はっきり言って落ち目です。だから、話題作りとして記憶堂で過去を見たがっていたのです」


なるほど、と龍臣は納得した。

話題作りでは記憶の本は現れない。強く過去を思い、願わなければ難しい。

それでも、誰にでも現れるようなものではないが。


「記憶の本は、本当に心からあの時に戻りたいと願っている人のみに現れます。西原さんのように、話題作りの人の所には現れません」


龍臣がそう話すと、井原は大きく頷いた。


「そうです。本当に後悔しているのは私だけなんです……。もしあの時、西原の子供が生まれていたら……。いえ、私の子供が生まれていたらって、ずっと考えていたんです」


井原はその場に膝をついて崩れ落ちた。

嗚咽を押さえながらも、涙が床にポトポトと落ちている。


「安易に中絶などするべきではなかった。西原のお腹には私の子どもが……、命があったのに……。もちろん、お腹で育て、産むのは私ではなく彼女だ。あの人気絶頂の中で、妊娠を発表したら彼女はとっくの昔にこの世界から消えていただろう。でも、でもやはり、私は小さな命を消してしまったことをずっと後悔していたんです」


井原は今までの思いを吐き出し、悔やむように床を叩いた。

龍臣は井原の前に立つと、優しく声をかけた。


「記憶の本は、選ばなかったもう一つの過去を見ることが出来ます。どうしますか? 見ますか?」


井原の姿が痛々しく、そう聞いてしまった。

見ることでさらに辛くなるかもしれない。それなら見ないという選択肢も出来るのだ。

しかし、井原は首を振った。


「見たいです。もし、西原が子供を生んでいたらどうなっていたか……。私の子どもが産まれていたらどうなっていたか……。子どもの顔が……見たいんです」


井原は龍臣にすがり付くような目を向ける。

龍臣は頷いた。止める権利は龍臣にはない。


「わかりました。それでは」


そう言って、パチンと指を鳴らした。


次に井原が目を開けると、目の前では、先ほどと同じように西原と井原が言い合っていた。

井原の腕を振り払い、一瞥して診察室へ入ろうとする西原。

そこまでは同じだった。

しかし、次の瞬間、井原が意を決したように、開きかけた診察室のドアを押して閉じたのだ。

開きかけた扉はバタンと音を立てて閉まる。

それに西原は目を剥いた。


「ちょっと! 何するのよ!」

「やっぱりだめだ! 理香子さん、産んでください!」

「はぁ!?」


西原は井原の言葉に目を丸くして驚く。

よほど思いがけない言葉だったのだろう。さっきの勢いはどこへ行ったのか、西原はそのまま唖然とした様子で固まってしまった。


「貴女は産みたくないかも知れない。貴女にとっては私の子供なんて欲しくはないと思っているのでしょう。当然だ。こんな冴えない男とたった一晩の過ちで出来た子供なんて、望んでいないし欲しくはないでしょう。人気だって落ちてしまうのは必須だ。それでも……、私はやっぱり産んでほしい!」

「か、勝手なこと言わないで。それについては散々話し合ったじゃない。話し合って、結果降ろすって決めたでしょう!」


西原の声は微かに震えている。怒りではなく戸惑いといった様子だ。何を今さらという感じだろう。


「確かに勝手だ。妊娠や出産で大変な思いをするのはあなただし、何の痛みもない苦しさもない私は貴女から見れば勝手なことを言っている」


井原は大きく息を吸って西原を見つめた。


「子供が産まれたら私が育てます。だから、産んでほしい。その命を消さないでほしい」


井原の剣幕に押されつつも、西原は「なんで……」と聞き返した。


「命だから! 貴女のお腹にはもう命が宿っているから! そして何より、貴女と私の子供だから!」

「そんなこと、今更……」

「結婚してほしいなんて言いません。でも、やっぱりそのお腹の中の子は大切にしたいんです」


井原の必死さに西原はその場にへたりこんだ。

西原は俯きながら何度も首を横に振っている。


「勝手よ。あんたは勝手なことを言っているわ……。今ここで妊娠を発表したらどうなるかなんて、マネージャーのあんたが一番分かっていることでしょう? この先に決まっているドラマも映画も舞台もCMも、全て降りなきゃいけなくなるのよ? 違約金だって発生するかもしれないでしょう?」

「もちろん、わかっています。わかっている上で、言いました」


西原は息を飲んだ。

井原はそれを覚悟で今こうして言っているのだろう。

いつも気弱でおどおどとしている井原が初めて声を荒げながら自分の意見を言っているのだ。

西原は肩を震わせた。


「……産むのが怖い。産むことで今の地位をなくすかもしれない。だって、やっとここまで来れたんだもの! 苦労してやっと人気女優の地位を手に入れたのに、それを手放すのが怖い!」


西原は顔を覆って泣き出してしまった。

人気絶頂の今、西原を起用したい仕事は山のようにあるのだろう。もしここで妊娠を発表したら、これまでのように仕事は出来なくなる。

もしかしたら産休後、完全に世間に忘れられてしまうかもしれないのだ。

西原にはそれが一番怖かった。

そんな西原の思いを井原が一番分かっている。

井原は床に伏せるようにして泣き出している西原の肩を擦った。


「そしたら、私がもう一度貴女をこの地位まで押し上げます。端役しか貰えなかった貴女をここまで押し上げた私にならそれが出来る。……それとも、心の底から私の子供を産むのは嫌?」


井原が最後の台詞を恐る恐る聞くと、西原は首を横に振った。


「嫌じゃない。本当はあんたとの子供は嫌じゃないの。出来たって知ったとき、本当は少し嬉しかった……」


そう告げる西原の手を井原がしっかりと握った。


「理香子さん、もう一度話し合おう」


小さく頷く西原の肩を支えるように二人揃って病院を出ていく。

その後ろ姿を龍臣を見届けるが、現在の井原は床に突っ伏して泣きじゃくっていた。

嗚咽がもれて、微かに小さな声で謝罪が聞こえていた。

何度も「ごめん、ごめん」と……。

それは今は亡き、生まれるはずだった我が子への謝罪なのだろう。

あの時、自分がもっと強く意見を言えていたなら。西原を止めていたなら、消さなくてよい命が救えたのに。自分の弱さを子に詫びているのだ。


「井原さん。今はここまでしか見れません。この過去のあなた方がこのあとどうなったのかはわかりません」


二人は話し合うと言っていた。

もしかしたら子供を産んでいたかもしれないが、話し合った結果、やはり中絶してしまったかもしれない。

今はこれ以上は知ることが出来ないのだ。


「はい。それでも、いいんてす。理香子さんの本音を知れて、この時は思い留めることが出来たのですから。きっと、この世界では子供を産んでくれたと信じています」


井原は泣きはらした顔をあげた。龍臣と目が合うと、小さく頬笑む。


「この私が歩んだ過去は変えられないのですよね? でも、もうひとつの選ばなかった過去は私が心から望んでいたものでした。それが、今の私の救いです」

「そうですか」


救いとなったのか。それならこれで良かったのだろう。

龍臣は井原に手を差し出し、立ち上がる手伝いをする。


「私はずっと後悔していました。そんな私に西原はさらにイライラを募らせていました。戻ったら、一度西原と話してみようかと思います」

「そうですね」


気の効いたことも言えない龍臣だったが、気遣いは伝わったのか、井原は穏やかな表情を見せて一礼した。


「ありがとうございました」

「いいえ。……それでは、戻りましょうか」


井原の笑みを見て、龍臣は指をパチンと鳴らしたのだった。

井原が目を覚ますと、今度は薬品の匂いではなく古びた本の匂いが鼻についた。

薄暗い本屋のソファーに座っている。

井原の心はどこかすっきりした気分になっていた。


「気分はいかがですか?」


龍臣はソファーまで歩み寄り、ぼんやりとしている井原に問いかけた。

井原は天井を見上げたまま呟いた。


「現実ですね」


どうやら井原は今見てきたことを覚えているようだった。しかし、龍臣は何も言わない。

しばらく夢うつつの様に天井を見上げていた井原だったが、急にパッと体を起こした。


「店長さん、ありがとうございました」


井原は立ち上がって、龍臣を深々と頭を下げた。

落ち着いたのか、表情は良い。


「ここに来れて良かったです」


どこか気弱そうな様子だった井原が、今は少し背中がしゃんとしている。

どこか決意のようなものも感じられた。


「あの、どうかお気を落とさず」


かける言葉が見つからず、変な慰めかたになってしまったなと思ったが、井原は微笑んで頷いてくれた。

気落ちしている様子は見られなかったが、あんなに泣きじゃくっていた井原にどう声をかけていいのかわからなかったのだ。


「大丈夫です。ちゃんと西原と向き合って話し合います」

「そうですか」


そうして何度も頭を下げる井原を見送って、今度こそ閉店しようと入り口に鍵をかけた。

カーテンを閉めたところで、手を止める。

なんだかとても重たい過去を見てしまったせいで、気分も滅入ってしまった。

井原はすっきりとしたようだけれど、案内役の龍臣にとっては心に響く内容だったのだ。


「大丈夫?」


ため息をついている龍臣に、気遣わしげに後ろから声をかけられた。


「あずみ……。男と女はなんて難しい生き物なんたろうね」


龍臣の言葉に、あずみは首をかしげたように思えた。

西原は井原が嫌いではなかった。

だから、本当は子供も産みたかったのかもしれない。しかし、それ以上に何よりも、今の人気女優という地位を捨てたくなかった。失いたくなかったのだ。

その思いが強すぎて、今のこの世界の井原には止めることが出来なかった。

龍臣は再び重いため息をつく。

命を扱う記憶は、現実に戻って来ても結構疲れるものだ。

妊娠をしたからといって、中絶をしてはいけないなど言えない。人にはそれぞれ、他の人にはわからない事情や想いを抱えているのだから。

そのことで、辛い思いをする人だっている。

だから、産まないと決めた西原の気持ちも、全てを捨ててまで産んでほしいと思う井原の気持ちもどちらも非難することなんて出来なかった。

結果、産まれてくるはずだった命を諦めた西原を責めることは誰にもできないのだ。

西原の人生であって、他人には口出しできない。西原だって人知れず苦しんだはずだ。

もうひとつの過去の世界で、西原と井原と生まれてくる子供が幸せでありますようにと願わずにはいられなかった。

龍臣が疲労感を感じていると、あずみが心配そうな声を出した。


「龍臣、顔色が悪いわ。少し休んで」


腕に温もりを感じ、あずみがソファーへ引っ張って行こうとするのを感じる。


「ありがとう、あずみ」


龍臣に感謝されて、あずみは「えへへ」と照れ笑いした。


「あずみは、どんな過去があるんだろうね」


龍臣がポツリと呟くと、ソファーの隣側が微かに軋む。あずみが隣に座ったのだろう。

隣を見つめるが、龍臣にはやはりその姿は見えなかった。


「さぁね。何も覚えていないからわからないわ」


その声はあっけらかんとしている。

無理しているようでも、悲しんでいるようでもない。

本当にわからないのだろう。


「本当に何も?」

「いつもいつもそう言っているでしょう? 本当に昔から疑り深い人ね」


あずみはクスクスと笑う。

それに対して、龍臣は悲しげに微笑んだ。


『いつもいつも』


あずみはそう言ったが、これを聞くのはまだ数回しか書いたことがない。『いつもいつも』と言われるほど聞いたことがなかった。

そして、『昔から疑り深い』とは誰のことだろう。

自分はそう言われるほど疑り深い性格はしていないはずだ。しかも昔から、だなんて。

他の誰かと間違えているのではないだろうか。

あずみと話していると、よくそう感じることがある。

あずみは時々、覚えていないはずの記憶が今と混同するようだった。






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