第7話 女優 前編
「あの、ここは記憶堂書店で合っていますか?」
龍臣が本棚をハタキで叩いていると、店の扉が開いた。
記憶堂の前に一台のワゴン車が止り、中からスーツ姿の一人の男性が降りてきてた。
そして店のなかに入ると、辺りをキョロキョロとしながら不安げにそう聞いてきたのだ。
見たところ、30代半ばの痩せ型の気の弱そうなタイプの人だ。龍臣と目が合うと、掛けていた眼鏡をクイッと上げた。
「はい、記憶堂書店です。いらっしゃいませ」
記憶堂の書物を探しに来たという感じにしては、やや挙動不審だ。
龍臣は内心、怪しく思いつつも笑顔で対応した。
男性はおどおどしながら一歩龍臣に近寄る。
「あの、あなたはここの店長さんですか?」
「はい。ここの店主で柊(ひいらぎ)木(き)と申します。お客様は何をお探しですか?」
男性の前に立つと、龍臣の方が上背もあり体格的にもその差は歴然だ。もし怪しい人物だとしても、これならなんとかなるかもしれないと頭の隅で考える。
やはり店を構える以上、時々不審な人物が来るのは想定内だ。
ましてやここはそこそこ値段のする書物が置いてある。重厚なセキュリティはないが、出入りする人が少ない分、龍臣は相手をよく観察し、何かあったときに対応できるようにしていたのだ。
しかし、龍臣の構えとは裏腹に男性はオロオロとするばかりだ。
「あの、あの……本を探しておりまして」
「どのような本でしょうか?」
「記憶の本を……」
男性の呟きにおやっ? と内心、首を傾げる。
最近、棚から記憶の本は落ちていない。つまり、記憶の本に導かれて探しに来る人はいないはずだ。
しかし、この男性は記憶の本のことを知っている。
漠然とした感じで探しに来ているのではなく、自信なさげだが明確に記憶の本を探していると言うのだ。
何者だ?
時々、どこからか噂を聞きつけてやって来る人もいる。ライターや記者などだったら厄介だなと思うが、どうみてもそうは見えない。
ただ噂を聞いて来てみた、そういった類いだろうかと考えた。
さて、どうするか。
しかし、本が落ちていない以上、こちらも記憶の本について話すわけにはいかない。
「申し訳ありません、お客様。当店にはそのような本はございませんが……」
龍臣が丁寧にそう返すと、男性は眼鏡がずり落ちそうなほど目を見開いて驚いている。
「え、しかし……」
焦った様子を見せながら、チラッと車の方を振り返った。
男性が振り返った車はスモークが貼っており、中が見えない。
誰かいるのだろうか。
そう思っていると、車の後部座席が開いてひとりの女性が降りて店に入ってきた。
つばの広い白い帽子に、大きなサングラスをかけている。服は花柄の夏らしいワンピースを着ていた。
サラサラの長い黒髪を後ろに払い、女性は腕を組んで男性に冷たく言い放った。
「井原! いつまで待たせるのよ」
「あ、すみません。あの、本なんですけど……」
井原と呼ばれた男性はペコペコと頭を下げながら口ごもった。それだけで、女性は何かを察したようで今度は龍臣に顔を向けた。
そして、バッとサングラスを取って見せる。
小顔で色白、目がパッチリとした美人だ。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶をされたので、普通に返すと女性は綺麗な形の眉を潜めて首を傾げた。
「あなた、私を知らないの?」
赤い口紅をつけたぷっくりとした形の良い唇が不満そうに尖る。
知らないのと言われても……。
こんな美人、知り合いにいただろうか?
女っ気のない龍臣の思い当たる女性にはどれも当てはまらない。
昔の知り合いか? 大学の時とか? それにしても年上のようだし。
龍臣は少し考えた。
よく見ると確かにどこかで見たような気もするが、それがどこなのか、ハッキリと思い出せない。
歳は龍臣より少し上の40代といったところか。
真剣に考える龍臣に、業を煮やしたのか女性は「嘘でしょ?」と信じられないとでも言うように更に不快そうな表情を作った。
女性の反応に、井原は慌てて鞄から名刺を取り出す。
「あの、こちらは、女優の西原(さいばら)里佳子(りかこ)さんです。私はそのマネージャーで井原と申します」
「女優さん……、ああ!」
そういえばこの前駅前の化粧品のポスターで見たような顔だ。
ような、というだけあって正直ポスターの人と目の前の女性が同一人物かどうかは自信がないが、きっとそうなのだろう。
龍臣はあまりテレビを見ない。そもそも芸能人に興味がないため、実物を目の前にしてもミーハーな反応は返せないでいた。
それが西原には面白くなさそうだが。
しかし、その女優がなぜこんな下町の古本屋に来るのだろうか。
とりあえずは知らない女優でも芸能人が目の前にいるのだから、何かしら反応した方が失礼に当たらないのだろう。
そう思って龍臣は「女優さんでしたか。凄いですね」と少し驚いた様子を見せると、西原はため息をついた。
「あなた、演技は向かなそうね」
龍臣がわざと反応したことを見破られ、呆れた様子だ。そこは素直に謝っておく。
「すみません。えっと、それで女優さんがどうしてこんなところへ?」
こんな下町の商店街。
特別なテレビの撮影でない限り女優さんがうろつくような場所には思えない。かといって、近くで撮影している様子もない。
先日の寄り合いでも、そんな話は出なかった。
つまりは撮影ではなく、プライベートで来たということだろうか。
そうなると、龍臣にはおおよその見当はついていた。
特に、先ほどの井原の言葉を思い出せば尚更だ。こんな所に意味ありげに来る理由なんて一つしかない。
「ここに記憶の本があると聞いたのだけれど」
やはり。
龍臣は表情にこそ出さなかったが、自分の予想通りだと思った。
井原ではない。西原の方が記憶の本を目当てにここに来たのだ。
さて、どうしようかと少しだけ考え、龍臣は営業用の笑顔を見せた。
「記憶の本というのは、どういった内容の書物でしょうか?」
「え?」
龍臣の返した言葉に二人は怪訝そうに眉を潜めたり、驚いたように目を見開いた。
龍臣は、知らないふりをすることにした。
実際、記憶の本が棚から落ちていたら別だが、本は落ちていない。つまりは、この人たちが求めようにも案内する物がないのだ。
記憶の本があってこそ、その案内や話が出来る。
ないのにむやみにこの記憶堂の秘密を話すわけにはいかなかった。
龍臣がシラを切ると、西原は唖然とした表情からハッとした顔になる。
「な、何言っているのよ! 記憶の本は記憶の本よ!」
西原はやや声を高めに、龍臣を睨んでくる。
やはり、どこからか漠然とした噂話を聞いてやってきたようだ。
「しかしお客様。うちにはそのような本は取り扱っておりませんが」
「そんなはずないわ!」
西原はややヒステリックに叫んだ。
すると、西原をなだめていた井原がこちらを向いた。
「あの、この記憶堂書店はやり直したい過去を変えられるんですよね?」
井原は慌てたように聞いてくる。
正しくは見るだけだ。過去は変えることは出来ない。しかし、龍臣は二人にそれを説明するつもりはなかった。
「なんですか、それ?」
キョトンとした表情で聞き返す。すると、二人は今度はオロオロとしだしたのだ。
「どういうことよ、井原! 聞いていた話と違うじゃないの!」
「いえ、しかし噂によると確かにここは……」
西原に問い詰められて井原は益々オロオロとしている。やはりどこかしらかの噂を聞いてやって来たようだ。しかも、西原の望みで。
この西原理香子にどんなやり直したいと考える過去があるのかしらないが、本が落ちていない以上、龍臣は本について話すつもりは一切ない。
本は強く求めた人のみが手にできるもの。噂などで我も我もと来られてもいい迷惑だ。
特に、西原が女優ならなおさら影響力はあるのだからさらに余計な噂を立てられては困る。
「何かの間違いではないでしょうか? うちはただの古本屋ですよ」
龍臣は苦笑しながら、入り口の方をサッと手で指す。言外に「お引き取りを」と言っているのだ。
店内をキョロキョロと見回していた二人は気まずそうにおずおずと入り口に体を向けた。
「あの、本当にないのでしょうか?」
井原は諦めきれないように再度聞いてきた。
しかし、いくら聞かれても龍臣は答える気はない。
「ございません」
そう微笑んで言い切って、店の扉を開けた。
ちょうど通りかかった学校帰りの女子高生たちが西原に気がついたらしく、「えっ?」「本物?」と驚いて遠巻きに見ている。
さすがにこれ以上は長居出来ないと思ったのか、西原はさっさと車に乗り込んで行った。
「あの、お騒がせしました」
井原はマネージャーらしく、丁寧に謝罪をした。突然の非礼を詫びているのだろう。
結構礼儀正しい人のようだ。
「いいえ。あの、井原さん?」
龍臣は井原を呼び止めた。後で‘あの音’が聞こえたからだ。
「またのお越しを、お待ちしております」
井原にだけ、意味ありげに微笑んだ。
店の中から、遠ざかっていく車を見つめていると後ろから「なにあれ~」と不満げな声が聞こえた。
夕方だ。あずみが起きてくる時間だった。
「聞いていたのか?」
「途中からね。女優だかなんだか知らないけど、感じ悪ーい」
姿は見えないが、少し後で文句を言っているのがわかる。
龍臣は笑いながら、先ほど音がした場所へ行った。どうやらあずみもそこにいるようだ。
「落ちたよ、本」
「そうみたいだね、聞こえた」
「いいの? 嘘ついたりして」
床に落ちていた記憶の本を取り上げると、あぁやっぱり、と思った。
「別に嘘は言っていないよ。記憶の本を求めていたのはあの西原って女優みたいだけど、ここには西原への本はなかった。ない本は僕にもわからない」
手のなかの記憶の本はなかなかずっしりと重たい。
西原は記憶堂の噂を聞いてマネージャーである井原とここを訪れた。どんな噂か知らないが、ここへ来れば過去がやり直せるといった類いだろう。
実際は選択しなかったもう一つの過去を視るだけだが、西原にはそれほどの過去があるということだ。
しかし、実際に本が落ちたのは……。
「それは誰の?」
「たぶん、マネージャーの方だ」
西原よりも強い思いを持っていたのは、マネージャーの井原の方だったのだ。
あれから、3日後。
その日は朝から小雨が降り続いていた。
夕方を過ぎ、さっきまで遊びに来ていた修也が帰って行ったため、あずみと雑談をしながら龍臣が閉店の準備を始めた。
すると、ガラガラとゆっくり店の扉が開いた。
「あの、ごめんください……」
小さな声で呟きながらおずおずと店内に入ってくる人がいた。
「いらっしゃいませ。すみません、もうすぐ閉店なのですが……」
そう言って振り返ると、先日やってきた西原のマネージャーの井原が立っていた。
やはりきたか、思ったよりも来るのが早かったな。
そう思った。
龍臣にはすぐにどんな用事できたのかがわかったが、こちらからは何も言わずにいつもの営業スマイルを浮かべた。
「先日はどうも。今日はどうされましたか」
そう穏やかに聞くと、井原はゴクッと唾を飲み込み、覚悟したように顔を向けてきた。
「こんな時間にすみません。でもあの……、私の本がこちらにあると思うのですが」
井原は確信したような言い方に、龍臣は頷いた。
「それはこちらの本ですか?」
「そうです! これです!」
井原は飛び付かんばかりに、龍臣から本を奪おうとした。しかし、龍臣はそれをサッと上に取り上げる。
「何を……!」
「こちらの本はお売りできません」
「私の本なのに?」
井原は眼鏡をクイッと持ち上げて、悲しそうに眉を八の字にした。
「この記憶の本はどなた様にもお売りすることは出来ないのです」
実際には店から出たとたんに消えてしまうのだが、そこは省く。龍臣のキッパリとした言い方に井原はシュンと項垂れた。
「店長さんは意地悪ですね。この前は記憶の本なんて知らないとおっしゃった」
恨みごとのように呟かれ、龍臣は苦笑した。
「ええ。知りませんよ、西原さんの記憶の本なんてものは」
「……そういうことか」
井原は呆れたように苦笑した。
「あの後、あなたの記憶の本が出てきたのです。あなたはいずれ来るだろうと思っていました」
「西原ではなく?」
「ええ。どうやら、過去にこだわっているのはあなたのようですから」
そう言って龍臣は手で奥のソファーを指して、座るよう促す。
井原は大人しくソファーに腰かけた。
「この本はお売りすることは出来ませんが、ここで見ることは出来ます」
「見る……? やり直すではなく?」
「残念ながら、過去はやり直せません。記憶堂の本はやり直したい過去へ行き、選ばなかったもう一つの選択肢である過去を見ることだけが出来ます」
龍臣の説明に井原はただポカンと口を空いている。
求めて来たくせに、記憶の本については詳しく知らなかったようだ。ただ、過去がやり直せる記憶の本という物があるらしいということしか聞いていないのだろう。
大抵の人は鼻で笑うファンタジックな噂だと相手にしないのであろうが。
「見るだけ……。ただ見るだけですか」
「ええ、見るだけです。あなたの通ってきたその過去は何一つ変えることは出来ません。ただ、選択しなかった道を見るだけなんです。それでも構いませんか?」
「つまり、過去は変えられないんですね?」
井原はスーツのスラックスズボンをギュッと拳で握りしめた。微かに震えているようにも見える。
「無理に見なくても結構ですよ。そういう選択をした人も今までいらっしゃいました」
記憶の本を求めて来たのに、実際を目の前にすると怖気づいてしまうのか悩んだあげくに本は開かずに帰る人もいる。
そうすると本はいつのまにか自然と消えてしまうのだ。
見るか見ないかは本人の自由だ。龍臣は案内役なだけで、そこは強制はできない。
数十秒待ってから、井原は覚悟をしたように顔を上げた。
「それでもいいです。選ばなかったもう一つの過去がどんななのか、見てみたい」
「わかりました。それでは、こちらをどうぞ」
龍臣はソファーに座る井原に記憶の本を手渡す。井原はその表紙を優しく撫でたあと、ゆっくりと開いた。
「いってらっしゃい。気が済むまで見てくるといい」
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