第10話 花江 前編

翌日。

昼前に本日三人目の本購入者である歴史コレクターの男性を店先で見送り、ふと横を見ると加賀先生が遠慮がちにこちらに会釈をしていた。

龍臣は来たか、と思った。


「加賀先生。こんにちは、どうかされましたか?」


加賀先生が来た理由は検討がついていたが、そ知らぬ顔で挨拶をして相手の反応を見る。


「あ、あの。こんなことを言うのもおかしいと思われるかも知れませんが、私の本がそちらにあるような気がして……」


戸惑う様子を見せながらも、その目は確信を持っているのかこちらをしっかりと見つめてくる。

龍臣は大きく頷いた。


「わかりました。中へどうぞ」


龍臣は穏やかに微笑み、店の中へと促した。

そして、奥のソファーへ座ってもらったあと、カウンターから一冊の本を取り出した。


「こちらの本ですか?」


タイトルのない、茶色の革表紙。

それを見せると、加賀先生は泣きそうな表情で「それです」と答えた。


「こちらの本は売ることは出来ません。しかし、ここで読むことなら出来ます」

「それで構いません。私にはそれを持っている自信はありませんので……」


加賀先生はスカートの裾をギュッと握りしめ、俯いた。


「かしこまりました。それでは、どうぞ」


龍臣から本を受け取った加賀先生は、優しくその表紙を数回撫でた。

そして、ゆっくりと表紙を捲る。


「いってらっしゃい。気が済むまで視てくるといい」


龍臣が指をパチンと鳴らすと、加賀先生はゆっくり目を閉じた。


――――


加賀先生が目を開けると、見覚えのある商店街が並んでいた。

勤務する高校に行く途中にある場所だ。

魚屋や肉屋本屋、八百屋……。いつもよく見る風景。

その中で違うのは、店先に立つ店主の顔が今よりも若かったり、先代たちであるということだった。


「ここは昔……?」


加賀先生は不安げに周りをキョロキョロと見渡した。

どこか今の町並みとは少し違う。古さを感じる。

まさか本当に……、と加賀先生は口元を押さえた。


「ここは、先生が後悔してやり直したいと思う過去です」


突然聞こえた声にハッと振り返るとそこには記憶堂の店主、龍臣が立っていた。


「柊木さん?」

「あなたがやり直したいと強く思い、後悔している過去は、記憶の本としてあの本屋に現れます。ここは、あなたが願う場所です」

「じゃぁ、やり直せるの?」


加賀先生は戸惑いの表情にうっすらと希望の笑みを浮かべたが、龍臣は静かに首を振った。


「いいえ。過去は変えることは出来ません。今のあなたの人生はやり直すことは出来ないのです」

「そんな……」

「しかし、選ばなかったもうひとつの過去を見ることはできます」


龍臣の言葉に加賀先生は訝しげに眉を潜めた。


「どういうこと?」

「あなたが選択に迷い、選ばなかったもうひとつの過去を見れるのです。しかし、できるのは見ることだけですが」

「本当に? 本当にそんなことが出来るの!?」


加賀先生は目の前の龍臣の腕を掴んだ。

龍臣はその勢いに驚きながらも、頷いた。


「言っておきますけど、ここは過去であっても別の世界。手出しは出来ませんよ。触れることも出来ない。ただ見ているだけしかできません。それでもご覧になりますか?」

「はい!」


食いぎみに返事を返され、その勢いに若干押されつつも「わかりました」と承諾した。

すると、龍臣は奥に目線を向けた。

それを加賀先生が辿る。


「あれは昔の加賀先生ですか?」


路地の奥から若い女性が歩いてきた。歳の頃は20代半ばだろうか。背の高いストレートの髪を後ろに一つに束ねている。着ているスーツがまだ初々しい。

女性が近くに来て、それが加賀先生の若い頃だとわかった。


「これは……。そうね私……。でも本当にここはあの日なのね。私の後悔しているあの日なんだわ」


若い加賀先生は腕時計を気にしながら足早に商店街を歩いている。

待ちあわせなのだろうか、少し焦っている様子だ。

すると、目の前から小さな赤ん坊を抱いた女性が歩いてきた。

見たところ、加賀先生と同じくらいの年代。その女性はうつむき加減で、疲れているのか足元がややおぼつかない。


「あの人は……」


龍臣はその女性にどこか見覚えがあった。

この記憶は今から13年くらい前の、龍臣も良く知っている町だ。当時、中学生だった龍臣の頃の記憶をよみがえらせ、ハッと息を飲んだ。

その女性はフラフラしたまま急ぐ加賀先生と肩が軽くぶつかった。


「すみません! 大丈夫ですか!?」


加賀先生はとっさによろけた女性の腕を掴み、謝った。


「いえ……、こちらこそ」


女性も謝罪すると、加賀先生は「あっ」と声を出した。


「もしかして、花江?」


そう呼ばれた女性はハッと顔を上げた。

そしてその顔が驚きに代わる。


「綾子?」

「やっぱり花江だぁ」


加賀綾子先生は満面の笑顔を浮かべると、花江と呼ばれた女性も笑顔を見せる。

加賀先生と修也の母親は「花江」「綾子」と名前で呼び合うほど、当時は親しかったのだろう。


「びっくりしたー! こんな所で会えるなんて嬉しいよ。久しぶりだね。元気だった? この子、花江の子?」

「そうなの。結婚したんだ」


花江は腕の中で眠る赤ん坊の顔を綾子に見せる。

二人が最後に会ったのは2年前の同窓会以来だった。花江は控えめな性格で友達は多くなかったが、綾子とは学生時代からよく遊んでいた中だった。

親しくはしていたが、高校を卒業して進路が別々になると自然と連絡をあまり取らなくなってしまっていた。

久々の再開にお互い嬉しそうにはしゃいでいる。


「かわいいー! 男の子? 花江に似てるね」

「そうかな」

「うん!この鼻筋と口元なんてよく似てる。格好良く育ちそう」


まだ一歳に満たないような赤ん坊は、ほんのり母親の花江に似ていた。

すると、花江が加賀先生をジッと見つめて、何かを考えるような表情を見せた。そして、恐る恐るといった様子で切り出した。


「……あのさ、綾子。この後時間ある? ちょっとお茶しない? 話したいことあって……」


最後の台詞はほとんど声になっていないくらいに小さかった。


「今? あ~、ごめん……。急いで行かなきゃいけないところがあって。また今度でもいい?」


綾子は慌てて時計を確認し、ほんとうに時間がないのか顔をしかめて今にも走り出しそうな雰囲気だ。

花江は一瞬、顔を曇らせるが再び笑顔を作った。


「うん、わかった。ごめんね、急いでいるのに引き留めちゃって」

「ううん。会えて良かった。またね」


そう言って綾子は手を振って足早に商店街を抜けて駅へと急いでいった。

花江はその後ろ姿をしばらく見つめ、またうつむき加減で歩きだして、見えなくなった。

その背中を見送り、龍臣は今の加賀先生に尋ねた。


「あれが、加賀先生のやり直したい過去ですか?」


龍臣は静かに聞くと、加賀先生は黙って頷いた。

切なげに眉を寄せている。


「彼女は……、花江は修也君の母親です」

「はい」


龍臣もすぐにあれが修也の母親であることはわかった。ということは、抱いていた赤ん坊は産まれたばかりの修也だろう。

龍臣は修也が祖父母に預けられてから交流があった。

祖父母に連れられてよく記憶堂に来ていたのだ。

しかし、当時もう大きくなってきていた龍臣は、修也の両親とは面識がこそないが、母親は失踪する前、何度かこの商店街で見かけたことがあったのだ。

当時はその女性が修也の母親だとは思いもしなかった。

今こうして人の記憶を通して、見覚えのある人だということくらいでしか思い出せなかったのだから。

加賀先生は呟くように言った。


「花江が……、修也君の両親が蒸発したのはこれから1か月後のことらしいんです」

「1か月後……」


龍臣はなんとなく花江が歩いていった通りを振り返って眺めた。

もちろん、姿はない。しかし、俯いて歩いていたあの姿が目に焼き付いていた。


「あなたも見たでしょう? 花江のあの表情。何か言いたげな、話をしたげな顔、今思えば助けを求めるようなあの表情……。もしもあの時、私が話を聞いていたら花江は修也君を置いていなくなったりしなかったかもしれない。花江の失踪を聞いてから、ずっとそう思っていたんです」

「しかし、加賀先生は急いでいたんですよね? 花江さんからは明確なSOSは出ていなかった。たまたま会っただけだし、それは仕方ないのでは?」


加賀先生には予定があったようだ。急いでいた。不可抗力ではないのか。

しかし、加賀先生は強く首を横に振った。


「確かに急いではいました。学校の同僚達と飲み会だったんです。あの頃、司書として今の学校に就職したてで、断ることなんてできませんでしたから。遅れることも出来ないと思っていた。でも、今となっては少しくらい遅れたってなんとでも言い訳できたのにって思うんです」


先輩や上司が待っている飲み会や集まりに遅れることは出来ないと慌てていたが、よく考えれば言い訳などなんとでも出来たのだ。

少しくらい遅れても良かったのだと今となって思うのだろう。

しかし、それは今の年齢で思うことであり、当時の社会人なりたての頃は遅刻なんて絶対に出来ないと思っていた頃だ。

加賀先生もそこのところはわかっているのだろう。

しかし、やはり後悔は消えない。


「花江の様子がいつもと違うとは思ったんです。でも私は自分の予定を優先してそれを無視したんです」


加賀先生は声を震わせながら鼻を啜った。


「しかし、それは結果論です。加賀先生が気に病むことではない」

「わかっています。でも私はあの日の自分を許せないでいる……」


加賀先生は涙を拭って大きく息を吐いた。


「……修也君、学生時代の花江の話をすると、どこか寂しげに笑うんですよ。顔も思い出せない母親に寂しさを感じている……。もしあの時私が少しでも話を聞いていたら、こんなことにはならなかったかも知れない。あんな顔をさせなくて良かったのかもと思ってしまうんです」


加賀先生は自分を責めていた。

少しでも話を聞いていたら、違う未来が待っていたのかもしれないと思うのだろう。


「失踪を止められたのかもなんて思ってしまうんです。何か力になれたら……。だから私はもしあの時、話を聞いてあげられたらとずっと思っていたんです」


そう言って龍臣を見あげる。そして龍臣はひとつ頷いて言った。


「過去は変えられません。しかし、選ばなかったもうひとつの未来を見ることは出来ます」

「つまり、私が話を聞いていた未来ですよね?」

「はい。見るだけです。現実はなにも変わらない」


それでも見ますか? 龍臣の無言の問いに加賀先生は頷く。


「それでもいいです。見させてください」

「……現実に戻って、ここで見たこと聞いたこと全てを覚えていないとしても?」


現実に戻ってから記憶の出来事を覚えている人なんて、まれだ。


「はい。それでも」

「わかりました。……実は僕も見たいです」


龍臣の正直な呟きに、ここに来て初めて加賀先生が笑った。


「では」


龍臣は指をパチンと鳴らした。




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