第2話 記憶堂に来る人々

その透き通るような可愛らしい声はカウンターの横にある二階へ続く階段の上から聞こえてきた。

声の主はわかっている。バカにされたと気が付き、修也はムッとした表情を作った。


「成績は問題ない! ていうか、いつからいたの? あずみさん!」


修也は怒るように声をかけると階段から一人の女性が降りてきた。

赤い袴を履いて、サラッとした黒髪を袴と同じ赤いリボンで一つに縛り背中にたらしている。

歳の頃なら10代後半。目鼻立ちも整った綺麗な女性だ。

現代では珍しいその格好の女性に修也はくすくすと笑われる。


「成績に問題ないならいいじゃない。ねぇ」

「あずみ。起きたのか」


龍臣は微笑みながらあずみに声をかけた。


「うん。修ちゃんが来たころに」


あずみは龍臣の顔を見るとホッとしたように穏やかな笑顔を見せた。


「気分は?」

「すこぶるいいわ」


そう言って龍臣の正面に立つ。

そしてじっと龍臣を見上げて見つめるが、その視線は決して龍臣と絡むことはなかった。

あずみは一瞬だけ悲しそうな顔をするが、すぐに笑顔を作り龍臣の隣に座った。

見慣れた光景だったが、修也はいつもこの瞬間が切なくて好きではなかった。

あずみはこの書店に住み着く幽霊だ。

龍臣曰く、袴姿から明治時代から大正時代の女学生だったのではとのこと。

確かに言われてみればその時代に流行った女学生の服装であった。

服装や振る舞いからそれなりの家柄だったのではと想像する。

あずみは龍臣が書店を継ぐ前からここに居座っていた。地縛霊と呼べなくはないが、別に悪さをするわけでもないし達臣達に害はない。

いつの時代に生まれ、いつ死んで、いつからここに居るのかはあずみもわからないのだという。

あずみの素性について誰も何も知らないが、修也には一つだけわかっていることがあった。

それは、あずみが龍臣を好きということ。

もちろん、鈍い龍臣はそのことに気が付いていないのだけれど。

あずみはいつも夕方になると現れ、龍臣が家に帰るまでずっと側についている。

穏やかな微笑みを浮かべて嬉しそうに見つめている。

その姿は誰がどうみても恋する女性のものだった。

しかし、残念なことに龍臣はあずみの声は聞こえても姿を見ることが出来なかった。

気配や存在を感じ、会話はできるが姿だけが見えなかったのである。

そして何故か、霊感があるわけでもない修也にはあずみが普通の人のように見えているのだ。

しかし、龍臣は姿が見えないだけで、あずみが近くにいる遠くにいるなどの存在は感じるようなので特に驚いたり怖がることもない。

龍臣はごく自然に修也と同じようにあずみに接していた。

そんなあずみは、将来に頭を抱える修也を他人事のように(そうなのだが)「大変ねぇ」と眺めていた。

その言葉に益々深いため息をついた。


「龍臣君はここを継ぐって決めていたんだろ。いいよな、そういう人は」


修也がぼやくとカウンターにいた龍臣はチラッと横目で修也を一瞥し、フッと苦笑してボソッと呟いた。


「そうでもないけどな」


その声は怒っている風でもないが寂しそうに聞こえて修也はハッと顔を上げた。自分の失言に気が付いたのだ。

しまったと慌てて謝る。


「あ、いや、ごめん。そんなつもりは……」

「いいって。確かに何も悩まずに楽だったのは本当だから」


口元に笑みを浮かべ、穏やかに答えてくれる。

あずみはそんな龍臣を見て修也をキッと睨んだ。

あんたなんてことを言ってくれたの! デリカシーがないわね! とでも言うように。

修也は龍臣の優しさにシュンとうな垂れる。

龍臣は、継ぎたくて継いだのではない。この記憶堂を祖父から継がなくてはならなかったのだ。

修也はそれを知っていた。

それなのに、いらないことを言って龍臣を傷つけてしまったと思ったのだ。


「ごめん……」


再度謝る修也に、龍臣は「ばーか」と手元にあった飴を投げつけて笑った。


この記憶堂には秘密があった。

記憶堂は古い本を扱うばかりの本屋ではない。

その名の通り、人の記憶を扱う店なのだ。

人は時として人生で大きな分かれ道を選ばなくてはならないことがある。

その後の人生を左右しかねない大きく大切な選択だ。

人は悩んで、時には簡単にその道を選んでしまう。

そしてその人生を歩んでいた時に、思うのだ。

『あの時、もう一つの選んでいない道の人生を選択していたらどうなっていただろう』と。


もしもあの時に、もう一つの道を選んでいたらどんな人生になっていたか。

もしかしたら自分が選んだこの道は間違いだったのではないだろうか。

もう一つの道を選んでいたら、もっと幸せになっていたのだろうか、良い人生が待っていたのだろうか、大切な誰かを救えたのではないだろうか――……。


本来なら、想像するだけで終わること。しかし人は時としてそれを激しく後悔し、何も手が付かなくなるほどに心に想い描くことがあるのだそうだ。

その思いは強く、強く――……。

そんな人たちは何故か必ずこの店に辿りつく。

この記憶堂は選ばなかったもう一つの人生を、記憶の本を通して視ることができる不思議な店であった。

その本は、記憶の本と呼ばれている。

そして、その本を扱えるのはこの記憶堂の正式な血筋で、その能力を受け継いだ柊木家の人間だけであった。

龍臣はゆっくりと腕を上に伸ばして伸びをした。


「さて、修也。そこ片づけて。もう少しでお客さんが来る」


龍臣の断言した言い方に修也もハッとする。


「また、本が落ちたの?」


修也の問いに龍臣が微笑み、その手には革表紙の本が一冊収まっていた。

記憶の本だ。

これから来る客の本なのだろう。

もう一つの人生を視たい、と強く思っている人が現れるとき、必ず店の本棚から一冊本がパサッと床に落ちるのだ。

記憶の本は、もとから店に置かれている物ではなく、なぜか突如本棚に現れて床に落ちる。

表に本のタイトルはなく、茶色の革表紙があるだけ。

中をめくっても他人が見ればただの白紙なのだが、それを求める人には文字が書かれているように見えるのだ。

それがこの記憶堂の秘密である。


そして、龍臣には不思議とその客が近づいて店にやってくるタイミングがわかっていた。

修也がソファーから立ち上がり、カウンターの横にある二階へ続く階段を途中まで昇ると、見計らったようにガラッと店の扉が開く音がした。






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