記憶堂書店
佐倉ミズキ
第1話 願い
人には必ず、ターニングポイントがある。
そう言ってしまえば聞こえはいいが、要は人生で選択を迫られた分かれ道だ。
そして、選んだ後に人はこう思う。
あの時、もう一つの道を選んでいたらどうなっていただろう……と。
幸せになっていたのだろうか、不幸になっていたのだろうか、貧乏になったのだろうか、金持ちになったのだろうか、生きていたのだろうか、
死んでいたのだろうか――……
大体は考えるだけで終わるのだが、どうしても‘その時’に戻り、もう一つの人生を見たいと強く願う人が存在する。
それは深く心に想い、忘れられず、囚われる。
選ばなかったもう一つの選択肢に想いを馳せ、想像を膨らませる。
それはその人の心に住み着き、離れなくなるのだ。
そして何故かそういう人は大抵、ここへふらっとやってくるのだ。
この、記憶堂に――
東京下町。
その店は駅からほど近い下町と商店街の雰囲気あふれる通りにひっそりと立っている。
創業96年。
見た目からしても明治時代の面影が残る二階建ての古い瓦作り。
記憶堂と書かれた看板は汚れも目立ち古びている。
良く言えばレトロだが、その古さに多くの人が素通りしてしまうほど。
にぎやかな通りにひっそりとたたずむ小さなその店は気に掛けなければ通り過ぎ、その名の通り記憶に残らないほど地味なのである。
店の前まで来るとかすかに埃やインクの混じった古びた本のにおいがする。
修也はその嗅ぎ慣れた匂いに混じった春の花粉にクシャミをした。
高校の鞄からティッシュを取り出し、豪快に鼻をかむ。
最近花粉症になってしまい、ティッシュが手放せない。
街で配っているとどんな宣伝広告が入っていようがお構いなしにもらってしまう。
今日のティッシュは駅前に出来た英会話スクールの広告が入っていた。
花粉から逃れるようにそそくさと通いなれた扉に手をかけて中に入った。
「いらっしゃい。ああ、やっぱり修也だったのか、あの豪快なクシャミ。大変だね~」
「もう本当に辛くて嫌になるよ。いいよな、龍臣君は花粉症じゃなくて」
修也は鼻をすすりながら、はたきを持って他人事のように笑うこの店の主を拗ねたように軽く睨んだ。
ふわっとした癖のある少し長めの髪に、ブイネックのカットソーとジーパン。
すらっと背の高く、人懐っこい笑顔を見せるこの人はこの記憶堂書店、店主の柊木龍臣である。
30歳にもなるこの男がこの店の三代目である。
曾祖父が20歳で開いたこの店を50年続け、祖父が40年続けた。
そして病気をして亡くなったことをきっかけに、大学卒業後に龍臣が継いだのだ。
正確には龍臣しか継げなかった、といえば良いのだろうが。
修也と龍臣は家が近所で、13歳も年が離れているが何故か修也は龍臣を気に入り、兄のように慕っていた。
龍臣がこの店を継いでから6年。
同じころから修也も学校帰りに入り浸るようになっている。
龍臣も仕事の邪魔をされるわけではないし、掃除も手伝ってくれるので特に咎めたりせず、修也の好きなようにさせていた。
「今日はお客さん来たの?」
「ああ、W大の准教授が研究資料を探しに来たよ」
それくらいかな、とさらっと答える龍臣に修也も慣れたように頷いた。
この記憶堂は古い書籍や古文書、歴史書などを取り扱っている。
そのため、来店する客も大学教授や研究者など変わった職業の人が多い。
一日数人来店すればよい方だ。
それは昔からのことで、龍臣も気にした様子はない。
経営は繁盛とは言えないが、置かれている本は古いものが多く、一冊の値段もかなりする。
また、両親がマンション経営をしており、ここら辺ではそれなりの資産家だったので、金銭面での心配なかった。
「あーあ」
修也がいつもの定位置である店の奥のソファーに深く座り憂鬱そうにため息をつくと、カウンターに座った龍臣が片眉をあげて振り返った。
「店でため息なんてつくなよな。運が逃げるだろ」
「もとから運とは縁がないじゃないか」
「俺の運が逃げる」
龍臣の言い草に口をとがらせると「で?」とため息の理由を聞かれた。
修也は複雑そうな表情を浮かべて、鞄から一枚のプリントを取り出した。
机に置かれたプリントを見ると希望調査と書かれている。
「今日、進路希望書を渡されたんだ」
「進路希望? そうか、もう修也も高2だもんな」
「早いなー」と目を細めて修也を眺めるそれは久しぶりに会った親戚のおじさんそのものである。
龍臣はどこか感慨深そうにうんうんと頷いている。
しかし修也はそんな龍臣を無視して、学校で渡された進路希望のプリントを眺めながらまたため息をついた。
高校二年生になり、早々に渡されたそれは今週中に提出しなければならないのだが修也には悩みの一つだったのだ。
「で、なんでため息?」
「将来が決まってない」
そう言い切ると、修也は腕を組みながらキリッとした顔を向けてきた。
「……胸張って言うことじゃないだろ。若者よ、夢はないのか? 夢は」
「ない」
「だから胸を張って言うことじゃないって。何かないのか? なりたいものとか、興味があるものとか」
「あったら悩まない」
「じゃぁ今から作ればいいだろ」
いとも簡単なことのように言い放った龍臣を修也はキッと睨み付けた。
それに龍臣は驚いたように体を反る。
「将来の夢とか関係ないおっさんには俺の悩みなんかわからないんだ!」
「なんだよぉ。機嫌悪いな。つか、おっさん言うな」
おっさん発言にやや傷つく。
拗ねたようにむすっと龍臣はむくれた。
その表情はおっさんとは言えず、まるで子供のようだ。
しかし、修也は頭を抱えている。理由は進路希望を出したら三者面談が控えているからだ。
龍臣はその面談が嫌なのだろうなと察しがついていた。
「とりあえず行ける大学行ってそれからやりたいこと見つければいいだろう。爺さんたちだってお前の大学進学くらい考えているさ」
「じいちゃん達と話す前に、そもそも大学でやりたいことがないんだってば。やりたいことがないのに行かせてもらうのはなんか、気が引けるっていうか……」
言葉尻が小さくなっていく修也を龍臣は困ったように微笑んだ。
修也がとりあえずで大学に行くことに気が引けている理由はわかっていた。
修也は幼いころから祖父母と暮らしている。
実の両親は修也がまだ赤ん坊の頃に蒸発していたのだ。父母の消息はいまだにつかめていない。
それ以降、母方の祖父母に引き取られて生活しているが、70歳にもなる年老いた祖父母に孫なりに気を遣う面はあるのだろう。
すると。
「その前に成績じゃないの?」
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