第五章 暗闇に咲く花
5-1
「……わからぬ」
眼鏡を外して置き、後ろ向きにバタンと倒れ込む。見上げた天井は真っ暗で、まるで僕の中身のようだ。
あれから、あの日買い取った本を解読している。文字に触れれば一気に内容が流れ込んできて理解はできるが、一言一句は読めていない。なので理解した内容を元に、地道に一字ずつなにが書いてあるのか確認していた。
「だいたいもう、字じゃないし……」
ごろりと寝返りを打ち、傍にあった漫画を掴む。しかし本は開きづらくペリペリと音がして、顔を顰めた。きっとこのあいだ、僕が吐いた血に浸かったのだろう。
「あー、もー、やる気が出ない……」
漫画を読むのは諦めて、仰向けに戻って目を閉じた。本の文字は喰い破った指先で書いてあるので読みづらく、もはや文字の体をしてないものまであった。おかしくなった人間の書いたものだ、仕方ないといえば仕方ない。その点、僕の呪いの元になった本は筆で、端正な文字で書いてあった気がする。もう遙か遠い記憶なので定かではないが。
目を瞑ったところで眠るなんて行為の必要ない僕は、そのままぼうとするしかなかった。そもそもここには、時間の感覚がない。戸口からは常に白く日の光が差し込み、夜が来たのをついぞ知らない。
そのうち、目を閉じているのにも飽きて起き上がった。
「おい」
声をかけたところで返事があるわけでもない。
「返事くらいしろよ」
無駄だとわかっていながら、さらに声をかける。もちろん、返事はない。しかしこうやってもはや独り言とわかっていてもしなければ、気が狂いそうだ。
この本を書いた男が羨ましい。ソイツは僕とは違い、終わりが来たのだ。……いや。恨みに囚われ、長くこの世に留まり続ければ僕と一緒か。蔵が開いたとき、どんな気持ちだったのだろう。もはやあれに復讐以外の感情などありはしないか。それどころかそんな感情などとうに死滅し、復讐という呪いが形づいたものでしかなかったのかもしれない。僕もいっそ、それくらいになれればいいが。
「は、ははははっ」
乾いた笑いが僕の口から落ちていく。人であることに固執し、こんな状態になってもまだ、こうやって人に戻れる期待を捨て切れていない僕には無理だろう。
「お前は、いいな」
この闇もアレのように、以前は人であったものの成れの果てなのだろうか。だとすれば欲望のままに動く闇が羨ましい。
「あのー……」
声をかけられて見ると、戸口から若い女性がおそるおそる店内をのぞき込んでいた。このあいだのお客よりもかなり若い。彼女は他の客と同じようにきょろきょろと辺りを窺いながら、書棚のあいだを進んで僕の元へまできた。
「ここ、古本屋ですよね……?」
長い黒髪をふたつ結びにした彼女は、制服らしきものを着ていた。僕が学生だった時分は女子はセーラー服ばかりだったので、ジャケットにプリーツスカートとは随分変わったものだ。よく見れば、スカートの柄が万引きをして悪事に染まりきり、闇に喰われた森下と同じな気がする。もしかして同じ学校なのだろうか。それで、噂を聞いてきたとか? とはいえ、あれから外の世界がどれくらい経ったのかなんてわからないが、それでも少し警戒した。
「はい、ご覧のとおり古本屋ですが」
「よかった」
僕の答えを聞き、彼女はあきらかにほっとした顔をした。
「その、お店の方は?」
「僕が店主ですが」
この質問には慣れているので、いつものようににっこり笑って返す。不満があるのならば帰ればいい。僕は、困らない。
「その年で店主だなんて凄いですね! 金澤骨董店の主人みたい!」
「……は?」
予想外に大興奮で彼女から迫られて、たじろいだ。なんだか知らないが金沢には、僕のような若い人間が店主をしている、話題の骨董店でもあるのだろうか。
「あの。鑑定は、できますか……?」
そろりと彼女が僕の顔を窺う。
「……は?」
思いがけない言葉に、間抜けにも一音発して何度か瞬きをしていた。
「鑑定、ですか?」
一瞬置いて我に返り、改めて尋ね返す。
「はい。この本、なんですけど……」
僕の返事など待たず、彼女は一冊の本を帳場の上に置いてきた。さて、困った。僕には本の価値などわからない。自分で決めたきまりに従い、どんな本でも一万円で買い取っているだけだ。しかし、彼女は鑑定してほしいという。こんなことは想定していない。
「……拝見いたします」
それでも一応、もっともらしい顔を作って本を手に取る。装幀からは少し古いが、とても大事にされてきたのだろうというのを感じさせた。題名と作者には覚えがあった。これは……昔、僕が好きだった本だ。その詩集は一言一句覚えるほど、何度も読み返した。酷く、懐かしくてそっと開いた頁を撫でる。しかし、この作者はさほど有名ではなかったはず。なぜ、今ここに?
「この本を、どこで?」
「先日亡くなった、お祖母ちゃんの本なんです。凄く、大事にしてて。それに、ここ」
彼女の手が一度本を閉じ、裏表紙から開ける。そこには【僕と一緒に月を見ませんか】と書いてあった。
……ああ。これは僕の字だ。
その文字に触れると同時に、一気に記憶が甦ってくる。これはまだ僕が学生だった頃、あの娘に贈った本だ。
「たぶんこれ、愛の告白だと思うんですよね。この本に、恋人と一緒に月を見上げる詩がありますし。それにこの詩の頁ばかり何度も開いたのか、開き癖がついてますし」
証明するかのように彼女が背を下に本を立てる。すると簡単に、本はその詩の頁を開いた。
「きっとお祖母ちゃん、まだその人が好きなのになにかの事情があって一緒になれず、お祖父ちゃんと結婚したんだと思うんですよね。でも、ずっとその人のことが忘れられず、この本を大事にしていた」
そうか、化け物に成り果て、突然姿を消した僕を、君は死ぬまで覚えていてくれたのか。まるでその娘のように愛おしく、本の表紙を撫でた。
「その人にこの本を渡したいんです。そのほうがお祖母ちゃんも喜んでくれるかな、って。それで、なにか手がかりがないかと思ったんですが……」
今まで饒舌に話していた彼女が、みるみる萎んでいく。
「こんな話、聞かされても困りますよね」
情けなく笑った彼女の顔が、あの子に重なった。
「……いえ。きっとお祖母さんも喜んでいるんじゃないでしょうか」
あの娘が僕をどう思っていたのかなんてわからない。でも、少なくともこうやってあの娘との想い出が甦り、僕は喜んでいた。
「だったら、いいんですけど」
少しだけ嬉しそうに彼女が笑う。そうだ、あの娘もこんな顔で笑う子だった。
本を返そうとしたが、断られた。
「なんとなく、貴方に持っていてもらったほうがいい気がするんです。なんか、変ですけど」
困ったように笑う彼女は、なにかを感じ取っているのだろうか。
「わかりました。では、お預かりします」
「なにかわかったら教えてくださいね!」
にこにこしながら彼女は帰っていった。
「……そうか、死んだのか」
ぽつりと呟くと同時に、なにかがつーっと僕の頬を伝い落ちていく。
「えっ、あっ」
焦って触れた頬は、濡れていた。そうか、僕はまだ、泣けたのだ。可笑しくて、笑いが漏れる。けれどそれは次第に嗚咽へと変わっていった。
「死んだのか」
知らなければ永遠にあの娘は僕の中で生き続けていたのに。いつか人間に戻れたら、一番にあの娘に会いに行こうと思っていた。そんなこと無理だとわかっていながら、それでもそれを唯一の希望に縋っていたといってもいい。なのに、あの娘はもうこの世にいないのだと知ってしまった。神は本当に残酷だ。それとも、僕を絶望させるために闇の奴が彼女をここへ招いたのか。
「ずっと大事にしてくれていたんだな」
本には破れどころか、ヤケもない。どんな気持ちであの娘はこの本を手元に置いておいてくれたのだろう。
あの娘とは家が近所の同じ年で、幼馴染みだった。花が咲くような笑顔が可愛い、女の子。ちょっと勝ち気なところも、僕は好きだった。そのうち一緒になり、世帯を持つのだとばかり思っていた。それが、こんなことになるなんて誰が想像する?
「こんなもの、捨ててくれてよかったのに」
この本は彼女の十八の誕生日に贈ったものだ。シャイだった僕なりの、結婚の約束だった。彼女はそれに気づいていたのか、――それとも。知らないままだったのか。知らなければ彼女の苦しみは、少しくらい少なく済んだのだろうか。
「……もう、会えないのか」
急になにもかもがどうでもよくなった。いや、もう長くこの呪いは解けないのだと無為に過ごしてきた。それでも人であることに拘り続けたのは、またあの娘に会いたいという気持ちがあったからかもしれない。しかし、そんな希望も完全に潰えた。
「もういっそ……」
――僕もあの男のように、人であることを捨てて呪いになってしまおうか。
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