4-3
「ひとつ確認しますが。この、中に書かれている文字に触れた人間はいますか?」
いると聞けば安心するのだろうか。しかしそれは、僕のかかった呪いと違うということになる。いないと言われれば……腹を括るしかない。
「はい。兄を含めて数人、本を開いて中を確認していました。そのときに触れていると思います」
彼女の答えに落胆が隠しきれない。これは僕がかかっているのとは別の呪いなのだ。そもそも僕の呪いは闇の妖が取り憑くものであって、人を祟り殺すものではない。そこから違うのに気づかなかったなんて、僕がいかに掴めそうな手がかりに浮き足立っていたのかわかる。
「そうですか。わかりました」
本を開き、そっと書かれている文字に触れた。途端になにが書かれているのか僕の中に流れ込んでくる。そこには主君の横恋慕から妻を奪われ、復讐を誓うも気が触れたと土蔵に閉じ込められた男の恨みつらみが書いてあった。読みづらい、雑な文字は喰い破った指先で直接書いたものだった。
『……許さぬ、絶対に許さぬ』
ぼぅと目の前に侍姿の男が浮かび上がる。蓬髪で頬の痩けた男は目尻が避けるほど目を見開き、ブツブツと言っていた。現に、目からだけではなく口からも血を流している。
「ひぃっ」
彼女にもその姿が見えたのか、腰を抜かして転げるようにその場に座り込んだ。
『殿も、我を閉じ込めた家中のものも絶対に許さぬ。許さぬ、許さぬ……』
がりがりと囓る男の指先から、血がぼたぼたと落ちる。
……店を汚さないでほしいのだけれど。
などと考えるほど、僕は余裕だった。
『許さぬ!』
強くひとこと発した男が、ぎろりと眼光鋭く彼女を捕らえた。
『許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ』
「ひ、ひっ!」
男に迫られて彼女は後退するも、すぐに番台にぶち当たってしまう。
「あ、あの。どうにかして、くだ、さい」
ガタガタと震えながら僕を見上げた彼女の目には、薄らと涙が浮いている。
「買い取るためには本の修復が必要ですが、どうしますか?」
「本の、修復……?」
僅かでも男から離れたいのか、彼女は番台の壁を伝ってギクシャクと立ち上がってきた。
「はい。〝あれ〟をどうにかしないと、本として売れませんからねぇ」
わざとらしくゆったりと、彼女へ笑ってみせる。
「わ、わかりました! お願いします!」
彼女は番台の上に半ば仰け反りながら、悲鳴じみた声を上げた。
「わかりました」
大仰に頷き、頬を歪めてにぃっと笑う。目を閉じて一度小さく深呼吸したあと、闇に命じた。
「……いけ」
店内の暗闇の密度が上がっていく。入り口から差し込む光はもう、見えなくなっていた。――と。そこで、闇の動きが止まる。
「なんだ?」
今までこんなことはなくて戸惑ってしまう。
『許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ』
首をあらぬ方向へと折り曲げ、壊れた機械のようにがくっ、がくっ、と震える男に闇は怯えているように僕には見えた。もっとも、闇にそのような感情があるのかはわからないが。
……もしかして、喰えない?
そんな不安が急に襲ってくる。闇に喰えないものがあるなんて知らなかった。コイツが闇に勝てば、僕はこの忌まわしい呪いから解放されるのか? そんな考えが頭に浮かんでくる。いや、しかし今は、喰ってもらわなければ困るのだ。
『許さぬ、邪魔をするヤツは何人たりとも……!』
瞬間、男の姿――もとい、影が天井まで覆い尽くす。闇のヤツは負け犬のように尻尾を巻き、小さく萎縮してしまっているように感じた。そんな闇に、舌打ちをする。
「いけ。喰えば、僕の心臓をくれてやる」
僕の言葉に反応するかのごとく、急速に闇の密度が増していく。建物に収まりきらず、ミシミシと店が軋んでいる気さえした。
『あがーっ!』
闇が、男を包み込んでいく。それでも苦戦しているらしく、いつもよりも長く時間がかかった。お客の女性は喉を押さえ必死に息をしようとしているが、通常よりも濃い闇の中はほぼ空気がないに等しい。しかもそれが長時間となれば、そろそろ限界のようだ。
……ここで死なれても困るのだが。
冷静にそんなふうに考えている僕は、やはりもう人ではないのだろう。
それでもそのうち男を取り込んだ闇は一気に収縮していき、ぽん!という音とともに元の世界に戻った。戸口からは何事もなかったかのように、穏やかに白い光が差し込んでいる。
「ごほっ、ごほっごほっ」
いきなり吸い込んだ空気に驚いたのか、彼女はしばらく咳き込んだあと、呼吸を整えて口を開いた。
「あ、あの……」
「これで、終わりました」
にっこりと笑顔を作って答える。
「では、買い取り料です」
引き出しから一万円札を引き抜き、いつものように番台の上にのせた。
「は、はあ……」
「またのご利用をお待ちしております」
言外に帰れと、ことさら笑ってみせる。
「あ、ありがとう、……ござい、ました」
彼女は一万円札を受け取り、戸惑い気味に店を出ていった。その姿が見えなくなった途端、僕の口端から血が一筋、垂れ落ちる。
「かはっ!」
次の瞬間、真っ赤な血を吐いて悶絶した。
「ごほっ、かはっ」
ぼたぼたと僕の口から血が落ち続ける。内臓を持っていかれたのは確信したが、これは心臓ではない。心臓ならば僕はとっくにこの長い生を終えているはずだ。
「はぁ、はぁ」
しばらくして血は止まり、着物の袖で口元を拭った。
「……お前はまだ、僕を生かしておくつもりか」
これで死ねると思った。だからこそ、心臓をくれてやると言ったのだ。なのに僕はまだ、生きている。
「勘弁してくれ……」
膝を抱えて丸くなる。闇はどこまで僕を苦しめれば気が済むのだろう。――しかし。
顔を上げ、血で汚れた指先で買い取った本を捲る。
……ここに、闇を滅ぼすなにかがあるのかもしれない。
あれほど手間取っていたのだ、闇はこの呪いが嫌いだ。ならば、ここには僕の呪いを解くなにかが示唆してあるかもしれない。少しだけ、希望が持てた気がした。
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