2-2

 島に渡るときに地元の人に聞いたという妖怪の話を祖父が面白可笑しくし、僕もそれを聞いて笑う。しかし、今日ここに来た目的は祖父の土産話を聞くためではない。

「じいちゃん」

「おお、すまん、すまん。つい話に夢中になってしまった。ちょっと待っててくれ」

 焦れた僕の声で、ようやく祖父が腰を上げる。今日は僕の入学祝いを買いに連れていってくれるという約束だ。老舗文具店の店先で見ては、感嘆を漏らすばかりだった万年筆、あれを買ってもらおうと思っていた。

 祖父を待つあいだ、店先の本をパラパラと捲る。番台には無造作に本が積んであり、棚に並ぶ本も整理されていない。この店は祖父が道楽でやっているようなもので、物好きな好事家くらいしか訪れなかった。

「なんだろ、これ……」

 箱入りの本のあいだに挟まる、和綴じの本を引き出す。別にこんなところに系統の違う本が入っているのは珍しくない。それくらい、適当に本は並べられていた。ただ、それがなぜか僕の目についた。

 手に取った本は、半ば朽ちかけている。祖父ならば塵だと捨てそうだ。表紙にはなにも書かれていない。捲った中にはなにやら書いてあるが、達筆すぎて僕には読めない。というか崩し文字は僕にはまだ、難しかった。普通は墨の黒い文字で書いてあるものだが、それは赤茶けた色をしている。珍しいなと指先でそれに触れた――瞬間。

「うわっ!」

 文字がぞろぞろと僕の身体を這い上がってくる感じがした。いや、視界では触れている指から文字が這い上がってきている。身体中をくまなく、文字が這いずり回る気持ち悪い感覚すらある。

「あっ、ああっ……!」

 思わず本を放り投げようとするが、手から離れない。それはほんの僅かな間で終わった。

「気の、せい……?」

 手のひらを裏に表に返してみるが、文字などどこにもない。昨日は夜遅くまで本を読んでいて寝不足だし、目眩でもしたんだろうか。

「おおーい、行くぞー」

「あ、うん」

 本を棚に戻し、祖父とともに店を一歩出た途端、じりっと太陽が肌を焼いた気がした。

「えっ?」

 気のせいかと思い、痛みを感じた手の甲を見る。しかし。

「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 痛い痛い痛い痛い……!」

 日の光が僕の肌を焼いていく。瞬く間に僕の身体は火傷だらけになっていった。シューシューと白い煙が上がり、肉を焼く臭いすらしてくる。

「どうした!?」

 祖父は慌てふためいているが、尋常ならざる僕の様子にどうしていいのかわからないようだ。痛みでいっそ気でも失えればいいが、そうはいかない。

「そうか!」

 そのうち、なにかに気づいた祖父が僕を店の中に引きずり込んだ。太陽から遮られたからか、痛みが和らぐ。

「すぐに医者を……はぁっ!?」

 目玉がこぼれ落ちんばかりに目を見開き、祖父は驚愕の表情で僕を見ている。なにをそんなに驚くことがあるんだろうかと自分の身体を確認すると、凄い勢いで焼き爛れていた皮膚が修復していっていた。みるみるうちに僕の身体は治っていき、ほんの少し前に全身あれほど酷い火傷状態だったなど、まったくわからぬようになっていた。

「なんだ、これ」

 腰が抜けたかのようにぺたんと祖父が座り込む。

「もしかして、夢……?」

 痛みの記憶が、そうではないと物語っている。しかし、そうとしか考えられないほど僕の肌はつるりと綺麗になっていた。

「夢。きっと夢だよ、じいちゃん」

 そうだと信じ、それでもおそるおそる戸口から手を出す。

「いっ……!」

 しかし激しい痛みとともに光に当たったところから指先の皮膚が焼けていき、慌てて中に引っ込めた。確認した指先はもう皮膚が修復していっていて、見ているあいだに治った。

「なんだ、これ」

 僕の身体にいったいなにが起こっている? こんなの、人じゃない。――化け物だ。

「と、とりあえず、落ち着こう」

 そう言いつつも祖父の声は震えている。

「そ、そうだね」

 出掛けるのは諦め、いったん店の奥の住居スペースへと戻った。

 念のためか祖父はカーテンを閉め切った。薄暗い中、電気がつけられる。

「眩しい!」

 電灯の明かりがまるで太陽を直視したかのように眩しくて、目をつぶっていた。

「おい、これが眩しいって……」

「なんだか凄く、眩しいんだよ」

 おかげで、まともに目を開けていられない。祖父はすぐに電気を消してくれた。

「本当にどうしちまったんだか」

 完全に祖父は困惑しているが、それは僕も同じだった。

 祖父が淹れてくれたお茶を飲む。ふたりともしばらく無言だった。

「……なあ」

 しばらくして祖父が、口を開く。

「なんか、心当たりはねぇか」

 上目でちらっと見られ、腹の底にカッと火がついた。

「ないよ! 反対に教えてほしいくらいだよ!」

「……すまねぇ」

 申し訳なさそうに祖父が目を逸らし、我に返る。

「……ごめん」

「いや、いい。一番どうなってるのかわからねぇのは、おめぇだもんな」

 祖父は湯飲みを口に運んだが、空だと気づいてちゃぶ台に戻した。

「病気……な、わけはねぇか」

 祖父の口から諦めたような、小さな笑いが落ちる。日の光に肌を焼かれるくらいなら、もしかしたらそうかもしれない。しかし、あの驚異的な皮膚の修復力は病気とは考えられなかった。

「だよね」

 だとしたら、これはなんだ? 考えても考えても思い当たる節はない。……いや。

「……呪い、とか?」

 そろりと祖父の顔をうかがう。そんな莫迦な、とは思う。否定してほしいのに、目のあった祖父はなにも言わない。まさか、祖父もそう思っている? どくん、どくんと自分の心臓が鼓動する音ばかりが耳についた。じっとりと嫌な汗を掻く。

「そんなわけ、あるわけねぇだろ」

 祖父が呆れたように笑い、その場の緊迫した空気が緩んだ。

「だよね」

 そうだ、祖父はだいたい呪いなど信じていないではないか。

「で、どれが原因だと思う?」

 一転、急に真面目な顔になり、祖父は顔を寄せてきた。

「ここにあるどれかが原因だよね」

 僕も顔を寄せ、祖父と相談する。やはり祖父も原因はそれだと考えていて、ほっとした。

 あれこれ思案するものの、そういう呪いがかかる謂れのあるものは特定できない。そもそも、店から居住スペースにまで雑多に本は溢れていて、探すのにも難儀した。

「そういえば……」

 祖父を待っているあいだ、嫌な気配のした本があったのを思い出した。

「ちょっと待ってて」

 店へ出て、先ほどの本を探す。

「えーっと……」

 しばらく書棚を彷徨って目的の本を見つけ、祖父の元へと戻った。

「なんかこの本開いたときに、文字がぞわぞわーって這い上がってくるみたいに感じたんだけど」

「どれどれ?」

 本を受け取り、祖父は中を確かめている。

「なんも書いてないぞ」

「え?」

 返された本を確認するが、そこには祖父の言うとおり、なにも書いていなかった。白紙だ。

「え、どういうこと?」

 確かに僕が見たときには、びっしりと文字が書いてあった。それが今は、どこにも見当たらない。

「なにが書いてあった?」

「なにがって、達筆すぎて読めなかったよ。あ、でも、墨じゃなくてなんかこう、赤茶けた字だったな……」

 あれが読めていれば、なにか違ったんだろうか。後悔したところで読めないものは読めないのだが。

「赤茶けた字……?」

 少し考えたあと、祖父はガサガサとそのへんを漁りはじめた。

「そりゃ、こんな色だったか?」

 渡された巻物を開いてみる。そこには僕が見たのと同じような色の字が書かれていた。

「うん、こんな感じだった」

「そりゃ、血で書かれた本だな」

「血……」

 なんとなく触ってしまった指先が気持ち悪く、手拭いで何度も拭う。

「でも、なんで真っ白になってるのかわからねぇ。なにが書いてあったのかわかりゃ、解く手がかりもあったかもしれないが」

 残念そうに祖父がため息をつく。

「……もしかしたら」

「うん?」

「文字が呪いになって僕の身体にかかったとか? ほら、耳なし芳一みたいに」

 いや、耳なし芳一は違うか。あれは悪霊から芳一を守るためのものだったわけだし。

「……あり得るかもな」

「えっ、あっ、やめてよ!」

 祖父の手が僕の服にかかり、抵抗した。しかし祖父は服を捲り、僕の身体を確認している。

「女みたいにすべすべの肌だな、おい!」

「ちょ、それ今、関係ない!」

 僕の背中を直に撫でる、祖父の手を叩き落とす。

「わりぃ、わりぃ」

 などと言いつつ、祖父は少しもそう思っていそうな感じではなかった。

「それで。確認したけど、どこにも文字はねぇな」

「そうだよね……」

 自分でも腹など見てみたが、そこにはなにもない。

「でも、本の文字がてめぇに乗り移ったっていうのはあるかもな。だから、これにはなにも書いてねぇ」

 信じがたいが、それがきっと真実なのだ。わかったところでなにもできないが。

「お風呂で洗ったら消える……とかはないか」

 あまりにも安直な考えで我ながら笑ってしまう。

「だったらいいんだけどな」

 慰めるように祖父が、僕の肩をぽんぽんと叩いた。

 もう一度、なにか手がかりはないかと本を確かめる。表紙にもなにも書いていなかった。祖父もどこで手に入れたのか必死に思い出そうとしているようだが、思い当たる節はなさそうだ。

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