1-3

「本の修復は別料金がかかりますが、よろしいですか?」

 最初はなにを言われているのかわからないのかぽかんと男は僕を見ていたが、そのうち理解したのか首がもげそうなほど勢いよく頷いた。

「よろしくお願いします! いくらでもお支払いします!」

「わかりました」

 本の上に手を置き、目を閉じた。小さく息をつき、再び目を開けて男の背後の影を見据える。影はなにをされるのか察したのか、僕に襲いかかろうとしていた。

「……いけ」

 僕のひとことで、あっという間に闇の濃度が上がっていく。薄らと見えていた書棚は姿を消し、入り口から差し込む光ももう見えない。

「な……に……」

 状況が理解できず、あっけに取られている男は息が苦しそうだ。この闇の密度には、普通の人間では長く耐えられない。限界まで濃くなった闇はたじろいでいるように見える男の影を、易々と飲み込んだ。途端に、急速に闇が収縮していく。ぽん!と音がしたかと思ったら、唐突に元の世界へと戻った。入り口からは何事もなかったかのように白く光が差し込んでいる。

 そろりと本から手を離し、中を確認する。そこには大きな蚕の化け物の絵が描かれていた。

「はい、終わりました」

「え……?」

 男の目が不思議そうに、しばしばと何度か瞬きをした。

「本当に?」

「はい。確認されますか?」

「いや、いい!」

 差し出された本を、男が手を振って拒否してくる。

「それで、いくらですか?」

「百万」

「え?」

 いくらでも払うといっていた癖に、男は金額を聞いてあからさまに不服そうな顔をした。

「別にいいんですよ? お支払いいただけないのなら、元に戻すだけですから」

 すました顔で言い、本の上に肘をついてそっぽを向く。

「は、払う! 払うに決まってるだろ!」

 鞄の中から出した札束を、男が番台に叩きつける。それを横目で確認し、受け取って引き出しの中へとしまった。

「ありがとうございます。あ、これ」

 反対に引き出しの中から一万円札を引き抜き、番台の上に滑らせる。

「買い取り料です、どうぞ」

「あ、ああ」

 男はあっけに取られつつ、それを受け取った。

「またなにかあったらよろしくお願いします」

「二度と来るか!」

 来たときとは違い、悪態をついて男は帰っていった。

「ま、いいけどさ」

 ああいう小物は揶揄い甲斐があるから、言い暇つぶしになる。

「さてと」

 ひさしぶりに長く人と話し、凝り固まった肩を解す。

「……ああ。今度は指か」

 左の薬指が動かなくなっているのに気づいた。今回は小物だったので、代償は少なくて済んだようだ。〝あれ〟を使役するには代償が伴う。右足はとうに動かない。内臓もいくつかなかった。次は腕か、目か、それとも――心臓か。使い続ければそのうちこの命を失うのはわかっていたが、それでもかまわなかった。

 気を取り直して本を捲る。それにはもう、男が持ってきたときの禍々しい気はない。ただの、そのへんにある古いだけの本だ。男に取り憑いていたものは闇が喰ってしまった。

 それでも本には、元々書いてあった絵が戻ってきている。養蚕から蚕が神になる話だ。きっとこの神になった蚕が富をもたらす代わりに贄を求める悪しきものへと変容したのだろう。

「あー、また暇になってしまった……」

 本をそのへんに放り投げ、台に突っ伏す。高校生のときにこの呪いにかかってから、ここからは一歩も出ていない。日の光が身体を焼くのもあるが、闇はこの古書店と同化しているので出られないのだ。それで、僕は祖父から譲り受けたこの店で、日がな一日本を読んで過ごしている。呪いを受けた当時はなんとか解けないものかと足掻いたが、それももう諦めの境地に入っていた。こうやって稀にやってくる客の相手をして暇を潰しては、そのときがやってくるのを待っている。それは一年後なのか五年後なのか十年後なのか、はたまた永遠にやってこないのか僕にもわからない。僕はただ、待つしかできないのだ。

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