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 興味本位で、本を開いてみる。そこには経年による紙魚があるばかりで、なにも書かれていなかった。パラパラと頁を捲っていってみるが、どの頁も真っ白だ。

「一応、蔵の中をチェックしていきました。しかし片付けるほどものなどない。なんでこんな依頼をしたのか、不思議なほどでした」

 確かに蔵の片付けを頼まれたのにそんな状態では、誰だって疑問に思うだろう。その依頼者はいったい、なにを考えていたのか。気になるが黙って男の話を聞く。

「そのうち、二階があるのに気づいて上がったんです。そしたら」

 一度言葉を切り、男は顔を上げて僕を見た。

「大事そうに金の布に包まれた〝それ〟が台の上に置いてありました」

 男の目が、僕の手にある本へと向く。

「目が、離せませんでした。呼ばれているとすら思いました。なぜか持ち出したのを知られてはいけないと思い、これを抱えて一目散にその家を逃げ出しました」

 うっとりと愛おしそうに男が僕の手にある本を見る。その目は虜になっている――否。取り憑かれているようだが、この本にはなにも書かれていないのだ。

「どうしてか、これを持ち出したのを咎められるんじゃないかと思いました。可笑しいですよね、蔵の中のものは全部処分してくれと頼まれたのに。でも、いつあの男が怒鳴り込んでくるんだろうかと、戦々恐々としていました」

 ランプの明かりが揺らめき、男の影も揺れる。

「そんな心配はもちろん杞憂で、それどころか私はほぼなにもしていないのに、依頼料が振り込まれていました。しかも、聞いていた額よりもかなり多く。そのときは喜んだもんですが、これがこんなことになるなんて」

 男は疲れたため息をついた。こんなところに来るくらいだ、かなり困っているに違いない。

「家に帰って布の中身を確認しました。入っていたのがその本です。札束でも入っていると思っていたんですかね、それを見て拍子抜けしました。パラパラと捲ってみると、デカい、蛾のような化け物の絵が描いてありました。なんか気味が悪くなったのを、覚えています」

 何度も言うが、この本にはそんな化け物の絵どころかなにも書かれていない。なにも、だ。

「興味がなくなり、本はそのへんに放置しました。それからすぐです、気まぐれで買った宝くじが大当たりしたのは。運がいいこともあるもんだ、このときはそう思ってました。そのあとも馬券が当たったり、大きな仕事が入ってきたり。とにかくびっくりするくらい、お金が入ってきたんです」

 男が身に着けている時計や指環は、いかにも高級そうだった。その反面、服はヨレヨレで靴はぼろぼろ。きっと急にお金持ちになり、勧められるがままに高級なアクセサリーを買ったが、まだ身なりには意識が届いていないのだろう。しかし、それほどのお金が手に入ったというのに、男は少しも嬉しそうではない。

「最初は、私にもようやく運が向いてきたんだと思いました。でも、なにかがおかしい。飼っていた猫が、死にました。ずっと寝たきりだった母も。猫も母もいい年だったし、仕方ないと思いました。……でも」

 顔を上げた男の背後で影が、揺れる。それは先ほどよりも、大きくなっているように見えた。

「常連のお客がふたり、立て続けに事故で死にました。俺が運を吸い取ったか、なんて強がって笑ってましたが、その頃からなんとなく、自分のまわりでなにかが起こっていると気づきました。そんなときです、〝あれ〟を見たのは」

 男の顔が泣き笑いに歪む。影がまた、大きくなった。それは男のものというよりも、もっと別のなにかのようだった。

「夜中にトイレに行って、ふと見た自分の影に違和感を覚えたんです。まるで、自分のものじゃないような。その日は寝ぼけてるだけだと片付けて、寝ました」

 ゆらゆらと影が、まるで意志を持つように揺れる。

「でも、それから声が聞こえるんです。『贄を捧げよ』って」

 ゆらりと、ひときわ大きく影が揺らめく。それは店の壁いっぱいになっていた。

「気のせいだ、このところ忙しくて酒も増えていたしと否定するんですが、声は聞こえ続ける。ついには鏡に映る自分の後ろに、デカい蛾の化け物を見たときには腰を抜かしました」

 先ほどまであんなに汗を拭っていた男が、身体をガタガタと震わせる。

「すぐに、あの本に書かれていた化け物だと気づきました。あれに取り憑かれたのだと。同時に、金が入ってきたのはコイツのせいで、自分のまわりで人死にが多いのもコイツのせいだと思いました。ただの偶然だと思いますよね? でも私は本気で、コイツのせいだと思うんです」

 それを証明するかのごとく、男の背後で揺らめく影は大きな蛾の形をしている。いや、本の題からするに蚕なのだろう。「おんこさま」とは「御蚕様」と書くのではなかろうか。

「きっと蔵の片付けを頼んできたあの家は、コイツを祀って富を得たが、手に負えなくなって私に押しつけたんじゃないかと思うんですよね。だとすればあの報酬も説明がつく。ね、そう思うでしょ?」

「はあ、そうですね」

 同意を求めるように男が僕に顔を寄せてくる。しかし、僕としてはそんなのはどうでもよかった。ただこのひととき、僕を楽しませてくれさえすれば。

「大金を積んででも手放したかったものですからね、もうなにが起こるのか気が気じゃなくて」

 僕の気のない返事も気にならないのか、男は座り直して話を続けた。

「しかもよく仕事をくださる幼稚園の、お散歩の列に車が突っ込んだとなれば生きた心地がしませんよ。ひとりが亡くなりましたしね。いつ、誰が亡くなるのか、それとも私自身が喰われるのか、怖くて怖くて……」

 だが、一度手に入れた大金の味は忘れられない。だからこれに未練があり、自らの意志では離しがたかったのだろう。

「それで。……これを買い取ってもらえますか?」

 そろりと上目で僕を窺い、男がごくりと唾を飲み込む。

「買い取ってもいいですが、〝これ〟は白紙ですよ」

「は?」

 男の目が、真円を描くほど大きく見開かれた。

「そんなはずは……!」

 慌てて男は僕から本をひったくり、中身を確認している。

「そ、そんな……」

 しかし白紙だとわかり、その場に腰が抜けたかのように座り込んだ。

「じゃ、じゃあ、あの化け物は」

「ばっちり貴方に憑いてますね」

 にっこりと笑顔を作って男の顔を見る。

「ど、どうしたら!?」

 男は再び椅子から立ち上がり、僕に肉薄してきた。

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