孤児
朝、その日いつものようにエリーザベトは外に出て、玄関先でブルーノを待っていた。
ヘルマンが息を凍らせながら、手を揉みしだいている。
穏やかな霧深い11月の朝だ。
ブルーノとテムズ川沿いで絵を描いて以来、エリーザベトは一心不乱にアプフェルの絵を描いていた。
今朝も玄関先でブルーノが来るのを待ちながら、彼女はアプフェルを描く。
小さな女の子が絵を描いている微笑ましい光景なのに、何枚も何枚も街中に張り出すために絵を生み出すさまは、彼女の葛藤を色濃く表していて、いたいたしかった。
祖父のヘルマンが毎日絵を描いている彼女を飽きずに抱擁し、髪を梳くのも致し方ないことなのだ。
「しんぶーん。今日の号外、とびきりのスクープ。ロンドン一の情報通、タイムズロンドン新聞!」
「一部おくれ」
ヘルマンが新聞を売り歩く少年に声をかけると、素早く駆け寄ってくる。
キビキビ寒そうにお代と新聞を交換する少年が、カバンにお金をしまい込もうと俯いたとき、ヘルマンの足元のエリーザベトに気が付きあっと声を漏らす。
「黒犬探しのエリザだ」
突然自分の名前を呼ばれ、エリーザベトが顔を上げる。
見覚えのない枯れかけた芝生のような緑の双眸とぶつかった。
少年の浅黒い頬に、ぶつかったから思わずと笑みが浮かぶ。
控えめな親しさを覗かせた声音を、まだまだ低くなりそうなかすれた声を持つ喉から出した。
「いつも
エリーザベトがこくんと頷く。
「そんなに孫は有名なのかね?」
「そりゃそうだよ。警官を手下みたいに毎日引き連れてるんだから!」
ヘルマンの質問に、おかしそうに少年がケラケラ笑う。
そんな少年にエリーザベトはむっすりする。
「ブルーノさんは手下じゃない」
「へえ、あいつブルーノっていうの」
興味がなさそうに返事をして、少年が本題を切り出す。
「ところでどうして犬だけじゃなくて、ワイルドハントまで探してるんだ?」
エリーザベトの表情が一瞬固まり、どう答えようかと迷う。
そして彼女が口を開こうとしたそのとき、誰かがさっとエリーザベトを抱え上げた。
ブルーノだった。
彼は少年に厳しい表情を向けていた。
そして硬い表情のまま小銭を少年に差し出すと、あちらへ行けと無言のジェスチャーを送る。
エリーザベトは石蝋のようなブルーノの態度に、固まったように目を見開いた。
そんなエリーザベトとは対照的に、新聞売りの少年は肩を竦めてその場を立ち去った。
「あの子は?」
「孤児のギャングです」
「ああ……」
納得したヘルマンとは対照的に、エリーザベトはきつい視線をブルーノに向けた。
「どうして酷いことをしたの?」
「あいつが悪い奴だからだよ」
「どこが」
「あいつは孤児なんだよ」
「だからなに」
「孤児だから、貧乏で悪いことばかりするんだ」
エリーザベトはその言葉に激しく反発し、表情には強い怒りが浮かんでいた。
孤児だから。
これをドイツ人だからに入れ替えたら、いつも自分に向けられる敵意の言葉の完成だ。
「孤児は悪い人ばかりじゃないはずよ」
「でもな悪いやつの方が多いのは確かなんだよ」
まるで聞き分けがないのを言い含めるように、ブルーノが優しく言うのが気に入らなかった。
「悪い人ばかりじゃない」
「大きくなればわかるよ」
「バカ!!」
間違えているのはブルーノのほうで、今回ばかりは謝るまで許せそうになかった。
だからその日からエリーザベトは、ブルーノが謝るまで話すのをやめたのだ。
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