お絵描き

 玄関のベルが来客が来たと鳴くと、エリーザベトは大急ぎで階段を下りた。

「ブルーノさん!」

「ボンジュール!ほら、嬢ちゃんとムッシュー・ヘルマンもボンジュール」

「ボンジュール」

「ボンジュール……」

 ブルーノがエリーザベトを抱き上げて、リビングへ向かう。

「マダムもボンジュール」

「おはようございます、ブルーノさん」

「マダム・マルガレーテ、フランス語でごあいさつしてくれないか?俺は野暮ったいロンドンよりパリ派でね」

 ブルーノがウインクする。ロンドンだろうがパリだろうがマルガレーテにとってはどうでもよかったが、この警察官の機嫌を損ねないためにボンジュールと返した。そして孫娘といっしょに彼が座ったタイミングで紅茶とクッキーを差し出すと、慣れた手つきでブルーノは食べ始める。

「さてじゃあ取り調べをしますよ。嬢ちゃんはもうご飯は食べたのかい?歯磨きはした?」

 エリーザベトが2回とも頷くと、よしよしと大仰な態度で手帳になにかを書きつけ、そのあと紅茶にクッキーを浸した。

「じゃあ次はおじいちゃん、おばあちゃんね。昨日はアプフェルの好物のリンゴパイを朝作ってもらったけど、あのあと外出した?誰かに会った?なにかやり取りした?」

「いいえ」

「はい、オッケー。今日もスパイの収穫なし。寒い中張りこまなくてすんで助かるよ。メルシー」

「いえ……」

 そのままクッキーを頬張りだしたブルーノにヘルマンがおずおずと紅茶のおかわりを注ぐ。

「しかしその、大丈夫なのですかな。このように、親しく」

「この区画はドイツ人ばかり住んでて、キーキーうるさいロンドン・マダムの目がなかなか届かないから大丈夫。近所にあいさつ回りもして口裏合わせてもらえることになったしね。でも用心してごちそうになるのは早朝だけにするから安心しな」

 ヘルマンが息苦しそうにホッと息を吐く。まだブルーノを信用したわけではないが、しかしすっかり横柄になった他の警官に比べたら、付き合いやすい相手であるのは確かだった。彼に監視をしてもらったほうが、融通を利かせてくれるのだ。前々からブルーノの、いい加減で熱心ではない監視の目は近所の誰もが感じていたことだったが、改めて理不尽なことをしない保証をもらったドイツ人たちは皆安堵した。

「いつもごちそうさま。3人に今日の予定の相談なんだけど、実は午後から非番でね」

「まあ、それじゃあ午前中でアプフェル探しから帰るのでしょうか?」

 エリーザベトの顔が曇る。連日ブルーノと共に一日中探しても見つからないのに、午前中だけ探したところで見つかるわけがないからだ。

「探すのは午前で切り上げて、午後からはいつもできないアプローチをしたいと思ってて」

 思いがけない言葉に、エリーザベトがブルーノを見つめる。そんな孫娘の頭をなでながらヘルマンが尋ねた。

「それはどんなことです?」

「アプフェルの似顔絵を嬢ちゃんといっしょに描こうかなと。うるさいマダム対策で少し遠くの、電車に乗らないといけない落ち着いた場所で描きたいと思ってるんだけど、嬢ちゃんのお気に入りの場所があれば教えてくれるかい?道具も持ってきているから、準備は俺に任せてくれればいいよ」

 ブルーノはそう言うと、リュックから画用紙と絵の具を取り出して見せた。マルガレーテがヘルマンと顔を見合わせて頷き合う。

「リーザ、ブルーノさんと2人で電車に乗ってお絵描きしておいで」

「そうですよ。ずっと教会しか行けなかったから退屈だったでしょう?行ってらっしゃい」

 こうしてエリーザベトは午前中に成果が出なかったので、午後から絵を描くことになった。テムズ川沿いの広い芝生のある公園で、2人は座りながら一枚の画用紙を見つめている。

「アプフェルはどんな子だったの?」

「この公園が好きで、よく私と一緒に走っていたわ」

「へえ、ちなみにこれが嬢ちゃんだとして」

 ブルーノが鉛筆で慣れた様子で人形のようなエリーザベトを描いた。

「アプフェルはどれくらいの大きさの子だったか、描いて教えてくれないか」

 そしてエリーザベトに鉛筆を渡すので、エリーザベトは言われたとおりにゴリゴリと描いた。

「へえ、結構大きい子なんだな。立ったらこれくらいあるの?」

 ブルーノがエリーザベトの30センチ頭上に、水平にした手を掲げるのを恥ずかしそうにエリーザベトは否定した。

「ちがうの。大きく描きすぎちゃった。ほんとは私と同じくらい」

「そっかそっか」

 ブルーノは先ほど描いたエリーザベトを消すと、一回り大きくまた新たに書き直した。

「ブルーノさん上手だね」

 エリーザベトが目を輝かせながら言った言葉に、ブルーノははにかんだ。

「絵が好きなんだ。昔からね。だから将来は絵描きになって憧れのパリに行くんだ」

「ロンドンじゃダメなの?」

「俺の好きなゴッホって人がパリにいたから、パリじゃないとダメだね」

 とてもとても優しい表情で、目を輝かせながら言うブルーノに笑いかけそうになって、エリーザベトは慌てて表情を引き締めた。

「アプフェルだけど、この公園を走り回ってたってことは、ボール投げで遊んでたってことかい?」

「うん、そうよ。私がボールをポケットに入れてワザと投げないと、体当たりしてきたりしたの」

 ふんふんブルーノは頷くと、10秒ほど新しい画用紙に鉛筆で描きこみ、エリーザベトに見せる。天に向かって四肢をピンと伸ばして転がるエリーザベトと、彼女を追いかけまわすアプフェルがそこにいた。

「私こんなに派手に転ばないわ!」

 たまらず噴き出して笑い転げるエリーザベトに、満足げな表情でブルーノが鉛筆を渡す。

「おチビさんだからてっきりこれくらいいってると思ったよ」

「ちがうわ!」

「じゃあ自分で描いてみ」

 夢中でゴリゴリと訂正の絵を描いていたエリーザベトだったが、自分が笑っていることに気がつくと、顔をくしゃりとゆがめ、それから唇を嚙み締めた。

「楽しいことがあるとブスっとしてるね。どうしてだい?」

 心配になったブルーノが頭を撫でてくれるから、エリーザベトの瞳にみるみる涙が張った。

「アプフェルがいないのに楽しいと思うのが、悲しいの」

 突然ブルーノがエリーザベトを抱き上げる。そして強めに抱きしめながら、グルグルその場を回り出した。エリーザベトは驚いてリスのような悲鳴を出してしまう。

 たっぷり5秒ほど回ってからブルーノが彼女を下ろす。眼が少し涙ぐんでいた。

「アプフェルの似顔絵を描こう。とびきりそっくりな奴をたくさん描くんだ。それを町中にばらまけば、きっとすぐに見つかる。だからな、嬢ちゃん。楽しいと感じて悲しくなったら、アプフェル探しのためになにができるか代わりに考えようぜ」

 約束の言葉を彼は口にしなかったが、エリーザベトには約束をしているとわかった。だからこくんと彼女は頷いた。

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