警官ブルーノ

エリーザベトの6歳の誕生日から4日が経った、1914年10月21日。


いつもなら教会へエリーザベトを連れていくはずが、この4日間ずっと一家は部屋に閉じこもりきりだった。

はじめは喜んでいたエリーザベトも、ずっと閉じこもりきりだと気が滅入ってうんざりしていた。

祖父母に理由を尋ねたかったが、エリーザベトは躊躇っていた。

教会へ行くことをうっかり忘れていただけという理由だったら、思い出してまた教会へ連れていかれるかもしれないからだ。

しかしそろそろ教会でもいいから外に遊びに行きたかったエリーザベトは、編み物をする祖母のマルガレーテの裾を引いた。


「おばあさま、どうして外へ行かないの?」


孫娘の群青の瞳を、マルガレーテは困ったように見つめ返した。


「ごめんなさいね。お前は外遊びが好きなのにね」


孫娘の艶やかな黒髪を、かさついた老いた指が気づかわし気に撫でる。


「実はね、昨日法律が変わってしまったの。

ドイツ人はなるべく外に出ないほうがいいって法律にね」


エリーザベトが首をかしげる。


「どうして?」

「ドイツと英国が喧嘩をしているからよ」

「どうして?」


エリーザベトの問いにマルガレーテが少し考え込んでから口を開いた。


「リーザ、喧嘩をしたら勝ちたいわよね?」

「うん」


当たり前のことに、エリーザベトは頷く。


「リーザが喧嘩していたら、おじいさまとおばあさまは必ず味方をするでしょう?」

「ううん。わたしが悪いときは味方をしないわ」


祖母が優しく笑って、そうねと訂正をすると、質問を変える。


「じゃあアプフェルはどう?」

「必ず味方をしてくれる!」

「そうでしょう。それと同じなのよ」


マルガレーテは少し悲しそうに瞬きをした。


「ドイツと英国が喧嘩をしたら、ドイツ人は必ずドイツの味方をすると英国人は思っているの。

だから邪魔をされないように、ドイツ人は家に閉じこもるように言っているのよ」

「ドイツ人にはアプフェルだけじゃなくて、おじいさまとおばあさまもいるのに」

「そうね。わかってくれたらいいのに」

「ねえ、どうしたらわかってくれるの?」


孫娘の無垢な問いの答えは、マルガレーテこそ知りたいものだった。


「わからないの……。ごめんなさい」

「……外に出て話せばわかってもらえないの?」

「ええ」

「公園に行きたいのに」

「おいで」


マルガレーテがキッチンからリビングに移り、通りの見える窓から手前の街灯に向かって指を差す。


「アプフェルがいつもおしっこしてた街灯があるでしょう?」

「うん」

「これからあそこにハンチング帽をかぶった男が、新聞とフィッシュアンドチップスを買って寄りかかるよ」


すると祖母の言った通りのことが起こった。

新聞小僧から新聞を買い、フィッシュアンドチップスを行商から購入するとそのまま寄りかかって食べ始める。


「おばあさまは魔法使い?」

「そうだったらどんなによかったでしょうね。

あの人はここ1ヶ月、毎日ああしてるのよ」


エリーザベトは街灯の男をもう一度見る。

アプフェルがおしっこをするような理由なのだろうか。

思わず想像して噴き出した彼女を、マルガレーテは窓から離した。


「あの人はね、ドイツ人を見張っているの」


エリーザベトから笑い声が消えた。


「ドイツ人が喧嘩で英国が負けるように悪だくみしないか、心配した英国人が見張っているの。

あの人は警察。

逮捕ってわかる?」


エリーザベトが首を振る。


「物を盗んだり人を騙したり、悪いことをしたら牢屋に閉じ込めることをいうの」

「じゃあいい人だわ」

「いいえ」


マルガレーテは吐き捨てる。


「今は悪い人になったわ。

ドイツ人ってだけで、逮捕するんですから。

今は誘拐犯と一緒よ。

だからねリーザ、今は外に出ないほうがいいの。


誘拐されるからね」


警察と呼ばれた街灯の男をじっと見つめる孫娘を、マルガレーテは気づかわし気に抱きしめた。

孫娘が傷ついたと思ったのだ。

だが実際のエリーザベトの胸中は違う。

彼女の胸は希望と閃きに満ちていた。

警察がワイルドハントの誰かを誘拐しているのではないか、と閃いていたのだ。

そしてその閃きから、ワイルドハントでなくとも火事の日の魔女を誘拐していているのではないか、との希望も持った。


彼女は警察がどこかに行ってしまう前に、クレヨンでワイルドハントの大男に黒い魔女、それからアプフェルの似顔絵を二階の自室で急いで描き上げた。

警察は悪者とドイツ人の誘拐が好きらしいので、きっと頼めばドイツ人であるエリーザベトを誘拐してくれるはずだ。

だから彼女は警察に似顔絵を見せて、ワイルドハントと同じ牢屋に誘拐されたあとで入れてもらおうと考えたのだ。

祖父母はきっと彼女の計画を知ったら𠮟りつけて大反対するだろうから、こっそり外へ出なくてはならない。

そのこっそり外へ出る方法が難問だった。


あの嵐の晩以来、玄関のドアはエリーザベト二人分の高さに3つ鍵がかかっているのだ。

1つ目は普通の鍵。

これは回せる棒があるだけでなんとかなりそうだから簡単だ。

2つ目はドアチェーン。

大きな音を立てずに椅子をドア前に持っていくだけでも大変なのに、椅子の上に乗ってもチェーンを外すだけの高さを確保できるかどうか怪しかった。

そしてほかにもう一つ、ドアの隙間に錠つきの金具を噛ませてある。

外から簡単に開けられないようにしたのだ。

これは祖父母がリビングの棚の中に鍵を入れているため、一番厄介だった。


どうしたら玄関から気づかあれずに外へ出られるのか、自室の窓から睨むように街灯の男を見つめている彼女の視界に突然、リスが飛び込んできた。

リスは窓の枠でしばらく毛づくろいをして、そのまま窓の近くの木へと飛び移ってしまう。


(これだ!)


また閃いたエリーザベトは早かった。

リュックを背負うと、そのまま窓から街路樹の枝に飛び移る。

大きく木が揺れ、たくさんの葉と枝と、それからどんくさいリスを落とす。

なんとか外に出ることに成功できた。


「そこのお嬢さん!」


警察だと言われた街灯の男が、駆け寄りながらエリーザベトに声をかけた。

エリーザベトは祖父母に邪魔されないうちにと、急いで木から降りる。

男がエリーザベトの肩をつかんでから片膝をつく。

帽子の下の顔は、ぎょろりとした目の大きな鷲鼻を持った青年だった。


「あぶないだろ!怪我」


青年の言葉を遮ってエリーザベトが発言する。


「あなたは警察で、ドイツ人ならだれかれ構わず誘拐してしまう悪い人だって聞いたわ」


青年があまりの言葉に眉を潜めた。


「あの……」


エリーザベトは俯いてしまう。

ここまであからさまに大人が気分を害したことを表情で伝えてきたことがなかったので、戸惑ったのだ。

そのうえ祖父母にもう二度と会えなくなってしまうかもしれない大きな決断もしているため、身体が冷たく凍って震えだす。

それでもあの嵐の晩のことを思い出し、息を大きく吸うと、目の前の悪人に絵を掲げて叫んだ。


「わたしはドイツ人よ!

だから私を誘拐して、ワイルドハントに会わせてほしいの!」


後戻りができないやらかしをした興奮から、エリーザベトの息が荒くなる。

彼女の叫びを受けた警察官の青年は、思わぬ言葉にしばらく黙り込んだ。


そしてイタズラに成功した、よく振った炭酸瓶のように笑いだした。

石蝋のような悪人が、急にその辺の気安い血の通った人間に変わった。

それが一種の魔法に見えたのも相まって、エリーザベトは目を見開いて固まった。


「俺はブルーノ。

ロンドン市民を守る警察官さ。

悪人なんかじゃないぜ」


帽子を取ると、ブルーノと名乗った青年はエリーザベトに被せてウリウリと彼女の頭を撫でた。


「でも、おじいさまとおばあさまはそう言ってたわ」

「そいつは2人が間違えてるな。

いいかい、嬢ちゃん。

よく覚えときな」


エリーザベトから帽子を取ると、そのまま右の人差し指でくるくる回しながらブルーノは言った。


「警察官ってのはこの町ロンドン一の物知りでヒーローさ。

つまりは俺もそうってこと!」

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