火事と手がかり
大人たちの興奮した叫び声が響き渡る。
老い細ったマルガレーテのどこにそんな力が眠っていたのか、エリーザベトを抱き上げると外へ向かって駆け出した。
しかしマルガレーテの背中に誰かが投げつけた机が直撃し、悲鳴を上げて倒れこんだ。
床に投げ出されたエリーザベトは痛みのあまり蹲る。
しかし痛みに耐えて今は走らなければいけないと、幼い彼女でもわかっていた。
だから蹲っていた時間はほんの少し、1秒にも満たない。
それでもマルガレーテを見失うには十分だった。
「リーザどこ⁉リーザ!」
マルガレーテが叫ぶほうへエリーザベトは向かおうとしたが、そのたびに人や物にぶつかり、彼女の膝小僧にあざが積み重なる。
「リーザ、隠れて!いい!隠れるのよ!」
祖母の言葉が聞こえ、なんとか掃除道具が置いてある小部屋の中に隠れることができた。
しかし安堵も束の間だった。
「火事だ!」
怒声が響き渡る。
不運にもタバコの吸い殻が床に落ち、炎が立ち上ったのだ。
炎は瞬く間に建物を包み込んだ。
それでも逃げるには十分すぎる時間があった。
しかしエリーザベトは恐怖から、祖母の隠れるようにとの言葉を愚直に守り続ける。
炎の放つ不気味な破裂音しか聞こえなくなっても、まだ小部屋の外に出ていこうとしなかった。
焦げた臭いと肺を焼く熱波から逃れようと、膝小僧を立てて座り、スカートと腕で顔を覆う段階になっても、まだ。
(大丈夫、おじいさまとおばあさまが見つけてくれる。大丈夫。大丈夫)
しかしそれでも煙は容赦なくエリーザベトを蝕み、座っていることすら難しくなった彼女は地面に倒れこんだ。
意識は朦朧とし、身体は息のできない苦痛だけを伝えてくる。
だからエリーザベトは目の前に奇妙な女が現れて、炎が彼女にひれ伏してもなにも思わなかった。
その女は大きなとんがり帽子に豊満な髪を納め、パフスリーブとレースで彩られた、真夜中のブルーベルのようなドレスに身を包んでいた。
白い肌に真っ赤な口紅の美しい女だ。
年は三十路くらいだろうか。
三十路女はえらく楽し気に笑っていた。
そして指揮するように頭上から両腕を振り下ろした。
「道を3つ用意したよ。右と左とまっすぐ。どっちに進む?」
苦痛の感覚だけが正常だったエリーザベトの身体が、女が口を開いた途端、ほんの少しだけ自由になる。
目を動かすと、確かに炎が道を3つ作っていた。
エリーザベトが涙を一筋流す。
女がまとっているドレスが同じ黒色だからだろうか。
どの道にもあの子がいないのが悲しかった。
あの子、そう。
「アプフェル……」
エリーザベトの呟きに女が眉根を寄せる。
「なんだって?」
「アプフェルのいる道がいい」
そのままエリーザベトは目から涙を零し続ける。
「……道は選んでるけど、どの道かは選んでないね」
女がエリーザベトの顔を覗き込むためにしゃがみ込む。
「いいよ。今回は待ってあげる。会いにおいで。晴れでも雨でも曇りでもない夜の、
三十路女が別れを告げた途端、エリーザベトの身体から自由がなくなり、彼女は目を閉じることしかできなくなった。
次にエリーザベトが目を開けたとき、彼女は病院のベッドの上にいた。
真っ赤な目をした祖父母が泣きじゃくりながら彼女を抱きしめた。
「ああ神さま!ありがとうございます神さま!」
「ごめんな。おじいさまとおばあさまがお前とはぐれたばっかりに、こんな怖い思いをさせてしまった」
祖父母からエリーザベトは、消防団さえお手上げの火事から生還したのだと教えられた。
彼女はその瞬間に、三十路の不思議な女のことを突然思い出した。
そしてあの不思議な女が助けてくれたのではないかと直感する。
「リーザ、少しでも痛いところはないかい?
お医者様の見立てでは火傷のひとつもないそうだけど」
ヘルマンから促されるまま、エリーザベトは頷く。
「本当に?お前を見てくれた医者はヤブですからね。
ほらここ、手のひらに火傷があるのに違うと言い張るのですよ」
マルガレーテがエリーザベトの手のひらを取り、憤慨する。
釣られてエリーザベトが手のひらを見て、目を見開いた。
先端が3つに分かれた箒のようなマークが手のひらに赤く刻まれていた。
「火傷じゃない。ちがう」
なおも心配するマルガレーテを宥めるヘルマンの声を聞きながら、エリーザベトは確信する。
あの不思議な女はいる。
ようやく掴んだ、アプフェルへ繋がる唯一の切符を手にした、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます