誕生日パーティー

 アプフェルが居なくなって半年が経った。エリーザベトは未だにアプフェルを見つけることができていない。それどころか探しに行くことすらままならなくなっていた。

 エリーザベト一家を取り巻く環境は変わってしまったのだ。大きく、悪い方向に。

 英国とドイツが戦争を始めたのだ。

 ドイツ移民はいまや英国人の敵だった。憎しみで濁った疑念に、ドイツ移民たちは苛まれていた。

 同じドイツ移民のエリーザベト一家も例外ではない。近所のドイツ人みんなで5才の同朋の愛犬を探す、たったそれだけのことすら諜報を怪しんで許してはもらえない英国になってしまったのだ。

 1914年10月17日の昼。

 しかしこの日だけはパーティーをしたいと、マルガレーテとヘルマンは思っていた。エリーザベトの6歳の誕生日なのだ。忌々しい悪漢がアプフェルを連れ去ってからというもの、すっかり笑わなくなってしまった孫娘のために、どうしてもパーティーを開いて気晴らしをさせてあげたかった。だから行きつけの小料理屋の主人のハンスの協力で、店でパーティーを開かせてもらえることになった当日の2人は、涙ぐんで彼に礼を重ねていた。

「ハンス、今日はありがとう」

「いいんだ、マルガレーテ。こちらとしても客を呼んでもらえて助かってるんだ」

 ハンスがマルガレーテの背を摩りながら、少し眉を下げて微笑んだ。

「でもハンス、ドイツ人が集まっているだけで通報されるご時世よ。ご近所のみんなから自重するようにたくさん止められたわ。いくら報酬を支払ったって、お祝いを満足にできないと諦めていたのよ」

「それは私も同じだよ。店を開いても客は来ないし、楽しい催しがここ数ヶ月、ドイツヒステリーの野蛮人どものせいでみんな潰されたんだ。久々なんだよ、こんなに楽しいこの店は」

 ハンスが喜びに胸を張った。戦争が始まり、英国の同胞が血を流すたびに、ドイツ人が無神経に笑う居場所を英国人たちは潰して回った。そしてドイツ人たちが日陰に身を縮めれば、今度は暗躍を疑って追い回した。怒りと不安から冷静さを失った英国人の顔色を伺い、許しを乞いながら、窮屈な日陰で足音の一つも立てないようにドイツ人たちは暮らしている。足音を立てようとする同胞は厳しく叱責されるせいで、ハンスの店は半年先まで埋まっていた予約がみな無くなってしまった。

「エリーザベトちゃん」

 ハンスが立派なビールっ腹を腿に乗せて屈んだ。

「劇団から役者も集めて、演劇を今日は開くからね。楽しんでくれよ」

 ヘルマンが鼻を啜りながら、エリーザベトにお礼を促す。

「リーザ、よかったねえ。ありがとうって言おうな」

「ありがとう」

「どういたしまして。ヘルマン、戦争のために我慢なんて真っ平ごめんだって、今日だけは開き直ってやろうじゃないか。子供のために不謹慎になれる大人しか、今日この店にはいないんだから」

 エリーザベト一家を特等席にハンスが案内すると、照明が落ち、おどけた足音が数人分響いてから、また照明が広がった。ご機嫌なヴァイオリンガイゲに足拍子を打ちながら、時代錯誤な中世の服をした笛吹き男がステージの中央で歌い出した。

「そうオイラは今どこ?ハーメルン!そうハーメルン、そうハーメルン。さあチューチューねず公踊りだせ、踊って溺れてどんぶらり」

 誰でも知ってる御伽噺、ハーメルンの笛吹き男がどうやらこの役者の役らしい。笛吹き男が踊りながら笛を吹き始めると、ねずみの仮装をした3人の役者たちがステージに現れ、ハーメルンの男を囲んで踊り始めた。

「あら報酬払わず知らんぷり、おいハーメルン、おいハーメルン。じゃあチューチューねず公踊りだせ、リーザを攫ってトンズラり」

 笛吹男の笛に合わせて、ねずみたちが今度はエリーザベトを囲んで踊り始めた。自分の名前が呼ばれて身体を飛び上がらせた真ん丸眼の彼女からさらに3匹は、担ぎ上げてステージ上に誘拐することで悲鳴まで引き出した。大混乱に襲われ、思わず祖父母を見ると、2人は涙を流して笑い、手を応援しながら振っていた。

「リーザを売る場所決まってる、そうブレーメン、そうブレーメン。魔女が食べるよむしゃむしゃと、明日の夕食リーザのシチュー!」

 シンバルとクラリネットとヴァイオリンと、それからニワトリがオペラを歌っているような無茶苦茶な騒音が一同を襲った。ねずみたちが優しくエリーザベトを床に降ろしてから、笛吹き男と一緒に這々の体で舞台から去っていく。何事かとエリーザベトが音源に振り向くと、シンバルを持ったロバとクラリネットの犬、ヴァイオリンを弾く猫と、それからニワトリの格好をした女優が立っていた。今度の御伽噺はブレーメンの音楽隊らしい。

「危なかったね、エリーザベト。どこから来たの、イズリントン。じいちゃん・ばあちゃん待ってるよ、早く帰ろう、イズリントン」

 イズリントンはエリーザベト一家の自宅のある町の名前で、ドイツ人街があった。先頭のニワトリ女優がエリーザベトの手を引いて、音楽隊は一列になって演奏しながらステージ上で行進を始めた。しかしステージを一周するとピタリと止まって、へたり込んでしまった。そして舞台がまた暗くなり、古めかしいランタンを持った黒いドレスの女優が現れる。女優は女王のような振る舞いで独唱曲アリアを歌い出した。

「愚かなエリーザベト、私から逃げられると思ったか?この魔女から逃げられると思ったか?聞け、聞け、聞け、この歌声を。お前の道はただ一つ、私の血肉ただ一つ。選べ、選べ、選べ、3つの末路。串刺し、首斬り、茹で殺し」

 突然の展開に、エリーザベトは固まってしまった。3つの末路のどれかを選べばいいのか、それとも逃げればいいのか、自分がどうしたらいいのかわからない。しばらく固まり続け、涙が盛り上がったころ、ブレーメンの音楽隊たちが立ち上がり歌い始めた。

「リーザ、リーザ、指差して。いつも守ってくれる人。じいちゃん・ばあちゃん、指差して。いつも助けてくれる人」

 エリーザベトは顔を歪めながら、ブレーメンの音楽隊たちの指示に従って、舞台を愉快そうに眺める真後ろの祖父母を指差した。エリーザベトは正面の魔女が恐ろしく、振り返ることができないまま、必死に真後ろを指差した。そしてファンファーレと歓声が彼女を包んだ。舞台の明るさと眩しさにエリーザベトは思わず笑顔が溢れる。とてつもない大冒険だった。初めて笑ってくれたエリーザベトに、ドイツ人だからと劇団を退所させられた役者一同は心から感謝を捧げた。幸福な空間だった。

 エリーザベトも笑っていた。久しぶりに、お腹の底から笑った。祖父母の温かな視線、舞台上の役者たちの誇らしげな顔。幸福な空間だった。

 笑っていいの、本当に?アプフェルが、ここにいないのに。

 アプフェルにハンマーを打ち付けられた暗く悍ましい記憶が彼女を殴りつける。ヘルマンがいち早くエリーザベトの異変に気がつき、顔を覗き込んだ。

「リーザ、どうしたんだい?楽しんでいたじゃないか」

「ごめんなさい……。アプフェル」

 エリーザベトは楽しかった。楽しいと感じてしまった。アプフェルがいないのに。今もひどく打ち据えられて悲鳴をあげているかもしれないのに。アプフェルの苦痛を忘れた自分が嫌で嫌で、たまらなく汚く思った。だから周りの大人が彼女の言葉に胸を痛めて悲しい顔をしているのに、自分の浅ましさを責めているようにしか見えず、床を見つめて啜り泣いた。ヘルマンがエリーザベトの前髪をかき上げ、チクチクの口髭ごとおでこに口づけて、柔らかくあたたかく抱擁する。

 優しくされることが、今はたまらなく胸を痛くした。

 そのときだった。ドアを切り裂かんばかりのノック音がしたのは。

「出てこい!ドイツ皇帝カイザーのために密会してるのはわかっているんだぞ!」

 響いた怒声は酔っていた。居酒屋パブの酔っ払いたちだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る