額裡の思慕

@midomidori

額裡の思慕

――美しい額縁を買った。

 「額縁」とは、絵画や写真などというものを美しく引き立てるため、気取った云い方をするならば芸術品へと昇華させるための装飾品であると、青年は考えている。

 だが今。

 4畳半の片隅に据えられた小卓の上、壁に凭せ掛けるように置かれたその美しい額縁に、絵画を収めるはずの空間に――ぴったりと。美しい男の生首が、くっついていた。


※※※


 青年は生家からの仕送りによって、寂れた場末の下宿屋で暮らしている。いわゆる高等遊民と呼ばれる類いの人間である。学業を終えた身であるはずの青年は、親という後ろ盾にしがみつき、変化のない退屈な日々と堆積した泥のようなこの安寧をなかなか手放すことが出来なかった。

 そんな中暑い夏が過ぎ去り、涼やかな空気が漂い始めたある日の夕刻のことである。

 少し遠くの方まで散歩に行こうと、青年は思い立った。残暑による倦怠感から、ほとんど自室に篭りきりの日々を過ごしていたためである。流石の怠け者の青年も、鈍りきった身体と頭に少しの刺激が欲しかったのだ。宿の女主に外出すると云い置き、青年は久しぶりに戸外へと足を踏み出した。

 スウっと澄んだ外気の心地良さに、青年は一瞬にして身の軽くなったような感覚を覚えた。柄にもなく遠くまで、見知らぬ場所まで行きたくなった。

 軽やかな足取りで西陽の差す閑散とした通りを歩いていく。真っ直ぐに、また時に曲がりくねる、どこまでも続く当てもない道のりをひたすら歩き続ける。

 景色などまともに見ずにいた青年は、漸くはたと我に返り薄暗くなった辺りを見回した。道沿いには鬱蒼と樹々が生い茂り、建物はまばらだ。

――何処だろう?

 少し焦りを覚える。そこで前方の1軒の店らしき家屋が目についた。看板は出ているが文字は掠れており、暗くてよく見えない。だが店の中からは窓硝子越しにぼんやりと灯りが洩れており、どうやら骨董屋のようであることが分かった。

 どうにも入りにくい雰囲気を感じるものの、道を尋ねようと決心し店の戸に手を掛ける。戸を開ける直前、ふと来た道を振り向いた。なぜ今まで気がつかなかったのか、すぐ近くに1輪だけ、場違いに白い彼岸花が咲いていた。

「ごめんくださァい」

 少し裏返った声で挨拶をし、中へと入る。するとこの店の主らしき老人が奥から顔を覗かせた。

「おやあ若い者が、めずらしいもんだなあ。まあ冷やかしでも構わんよ、見ていきなされ」

 気難しそうな見た目とは裏腹に、老人は青年に対し気さくな様子で声を掛けた。ほっとした青年は落ち着いて店の中を見渡す。ずらりと並ぶ骨董品の中には西洋のものらしき時計や絵画もある。

 目的を忘れもの珍しさに眺め入っていた青年だが、その視線はある品物の前でピタリと止まった。それは随分と古色を帯びたやや小さい、しかし精緻な装飾が施された――美しい額縁だった。素材は真鍮だろうか。

「ああ、そいつが気になるのかね」

 老主人が問い掛ける。

「それも外国のものだね。中身無しの額だけ、形は真四角だ。珍しいし嵌められるような絵はまあ限られるわけだが――不思議とこれに惹かれるという人はそこそこいるんだよ」

「やっぱり綺麗だから……でしょうか」

 青年は言葉に窮し、何だか間の抜けた返答をしてしまった。だが老人は意に介することもなく話を続ける。

「勿論それもそうなんだがねえ……どうやら魔性の品らしいんだよ、これは。理由もなしに只々、ひと目見た者を皆んな魅了しちまうんだね。目が離せなくなるって云うんだ。それに加えて呪われていると云うのか、ううむ、ちょっと違うか。こいつァね、飾ると『出る』……って云うんだ」

「それはいわゆる幽霊とかが――ですか?」

「幽霊かあ。そうだなあ、お化けーーかな。どうも『生首』がね、出るんだと」

「生首ですか……」

 青年は少し顔を顰めた。そんなものに突然出会ったなら、口から心臓が飛び出てしまいそうだ。

「そうらしいんだよ。その上生首がね、まるでこの額縁は自分のためと云わんばかりに、ピッタリくっついてるんだってさあ。額縁の中にね。そんでもって驚いている人間なんかには目もくれずにポツリと呟くんだそうだ。『ちがう』――と」

「うわあ、不気味だなあ……」

「怖いよねえ。でもそンだけらしいんだ。人を呼びに行ったりして目を離すともう居なくなっているんだそうだ。そうしてそれきりだ。だが所有者は恐ろしくて恐ろしくて、結局すぐ売り戻してしまうんだよ、ここにね。幸いなぜだかこの店に出たことはないがね。そんなわけだが――どうだい」

「どう……って、何がですか」

「君も試しに買っちゃみないかい。肝試しならぬ度胸試しだ。これも縁と思ってさ。出ちゃって厭になったらここに戻しに来るといい。うんと安くするからさ」

「なんだか何かを期待していやしませんか」

 この老主人、外見とは正反対になかなかの曲者らしい。青年は思わずため息をついた。

 しかし――恐ろしいには恐ろしいが、話を聞いて尚、やはりこの額縁に惹かれてしまうのも事実であった。それどころかより一層強く、である。

「……分かりました、買いますよ。お幾らですか」

「よし来たッ」

 そうして手に入れてしまったわけである。

 最後にすっかり忘れかけていた、帰るための道順を訊き、青年は額縁の入った包みを抱えて帰途に着いた。

――さて、これはどうやって飾ったものか。

 狭く古ぼけた自室の壁は殺風景で、物を引っ掛けられるような金具も当然ない。そのため青年はせめてもと安っぽいながら丈夫な、飾り気のない卓の上に額縁を立て掛けることにした。なんだか不釣り合いではあるが、どうせ此処へ他人を上げるようなこともないのだ。己が見て愉しむことが出来ればそれでよかったのである。

 そしていつものように女主の用意した夕食を食べ、ぐっすりと眠った。

 それで。

 起きたら居たのである。くっついていたのだ、額縁の内に。――生首が。

 一晩が経ち、昨日老人が云っていた額に纏わる曰くなど、いやそもそも額縁を買ったことすら忘れていた青年はふと片隅の卓上に目を向け、声にならない悲鳴を上げた。本当に口から心臓が飛び出てしまいそうだった。

 しばらくの間青年は、恐怖と理解の追いつかないあまり同じ姿勢のままで座り込んでいたものの、頭は徐々に冴え平静さを取り戻した。ほんの少し勇気を出し、首の近くへにじり寄ってみる。

――きれいな貌だな。

 生首の男か男の生首か、それは非常に端正な顔立ちをしていた。日本人ではない、彫りのある西洋の人の顔である。眠っているのか、目は閉じていた。

瑕のない滑らかな、透き通るような白い肌。ひとつの乱れもなく後ろへ撫で付けられた白金の髪。細く整えられた眉。長く伸びた睫毛。薄紅く艶めいた唇。

 ひょっとすると女であるかもしれない。そんな考えが青年の脳裡を過ぎった。そしてもっと近くでと、青年がさらに顔を近づけたその時である。白金の睫毛に彩られた瞼がゆっくりと持ち上げられ、生首の目が開かれた。その瞳は、濁りのない美しい翠色をしていた。

――翡翠だ。

 青年はふと己の幼い頃に母がよく身につけていた、大きな翡翠の指輪を思い出した。

 青年がぼうっと見惚れていると、首はようやく口を開いた。

「やだなあ、そんなに見詰められたら恥ずかしいよ、きみ。うふふ、仕方がないなあ。ねえ、私の貌はそんなにも君のお気に召すのかい?うれしいね、ふふ!ねえねえ、君の名前は何というの?教えてくれないかい。苗字じゃあないよ、下の名前をさ」

 英次、と青年は短く答えた。神秘的な風貌からは想像もつかなかった首の、あまりに親しみのある弾むような口ぶりに呆気に取られてしまったのだ。それに首の様子は――老人の話で感じた、恐ろしく不気味な印象とは全く異なっていた。

「英次君だね、ウンウンいい名前だね。じゃあこれからよろしくね、英次君!ふふふ、愉しい毎日になりそうだ」

 こうして青年と生首の奇妙な共同生活が始まったのである。


 生首というものも、これほど友好的で饒舌に喋るとあっては恐怖心などは掻き消えてしまう。青年はすぐに首と打ち解け、思いつけばあれやこれやと話題を振っては話し合い続けた。1日が終わるのはあっという間であった。

「そういえば、僕はまだ貴方の名前を聞いていないよ」

 ふと思い至り、青年が問う。

「名前?私だって知らないよ。私の名前なんてどうでもいいじゃあないか、私は君が『貴方』と呼んでくれればそれでいいんだ」

 首は己の名を知らないどころか、興味すらないというような様子である。

「貴方がよくても僕が呼びづらいんだよ。やっぱり名前がなくちゃあさ。なあ、僕がつけてもいいかい、貴方の名前」

「へえぇ、君が名づけてくれるの!そいつはとってもうれしいなあ。何んて呼んでくれるの、ねえ?ケビンかな?うーんルイス?それともアルバートとか?」

 青年の提案に、首はパッと顔を上げ目を輝かせた。この生首はどうしてか、初めて出会った時から青年に対し非常な好意を持っているらしい。

「貴方にありきたりな名前は……つけたくないなあ」

「なぜ?」

「分からない……なんとなく、だよ。ううむ、どうしようかなあ」

 青年は思案した。ありきたりなものは、と云いながらなかなか思いつかない。考えあぐね、生首をじっと見つめてみる。

――白百合だ。

 思えば最初、青年はこの美しい容貌を見た時、どこか――何かの花に似ていると感じていたのである。

「白百合、百合……リリイ……リリアン。ううん、安直かなあ。これもありきたりだろうか」

「……リリアン、リリアンか。うふふ、いいよ。君がくれるならなんでも、ね」

 そう云い、首は心からうれしそうに顔を綻ばせた。

 滅多に宿からは出ようとしない青年と生首――リリアンは、来る日も来る日も室に篭りこの蜜月を愉しんだ。ごくたまに用があり、青年が出掛けなくてはならない日は、青年は万が一女主や他の者が室へと入りリリアンを見られることのないよう、押し入れの奥の暗い場所へと額縁ごとリリアンを隠した。リリアンは額縁から離れようとはしなかった。

「これは私には欠かせないものなんだ。無いと動けないってわけじゃあないんだけれどね。絵画に額縁は付きものだろう?同んなじことさ」

 青年にとっては生首と絵画を同じ枠組みに振ってよいものなのか甚だ疑問の浮かぶ道理ではあったが、一方でリリアンのように美しい生首ならば納得せざるを得ないのだろう、などとも思われた。

 そんな日々の中、珍しく暖かいある昼のことである。

 磨り硝子の窓を僅かに開けて、青年はぼんやりと外の景色を眺めていた。自室に篭りきりでは首との会話の種もだんだんと減るばかりである。暇だったのだ。

 フロックに身を包んだ1人の男が静かな道を歩いていくのが、青年の目に留まった。

「おや、あんな服を着て、あの御仁はどこへ行くのだろう」

「なんだい」

 リリアンが怪訝そうに首を傾げる。

 青年は額縁ごと持ちリリアンを窓へと近づけた。

「本当だ。ここいらではとんと見かけない服装をしているねえ。お祝い事でもあるのかな、それとも誰か特別な人にでも逢うのかしら」

 フロック姿の男が遠ざかっていくのを見ながら、リリアンにもし首から下があるのなら、と青年は考える。あのような礼装の姿も、リリアンならばロココ調時代の絵画に描かれた人物のように美しいに違いない。

「貴方に身体があったなら、きっと誰よりも似合っていただろうなあ」

「あの男のような服がかい?」

「そうだよ」

「身体……ね、私には無用のものだよ」

 何故だか首は寂しげに、ぽつりとそう呟いた。そこで2人の会話は止まってしまった。

 他意はなかったのだが、何か気に障ってしまっただろうか。青年は気を揉んだ。なんとなく思い出したことを口にしてみる。

「ねえ、そうだ。今朝の新聞のことだがね、捕まったらしいよ。ほら、話題になっていた首なし死体の事件の犯人だよ」

 焦りのためか、青年は空回りをした。今はそうした話題を出すべきではなかったはずである。

「そうなの」

「うん。犯人はね、被害者の恋人だったんだ。男同士だったんだ、恋人たちは。でも、周りの目を気にした被害者に突き放されて、悲しくて、恋しいあまり殺してしまったんだそうだよ。そうして首だけを切り取って、行李に入れて持っていたんだって。大事に大事にね」

「それはとても哀しいね」

 青年の配慮のない話題に非難する様子はなかったものの、首は辛そうに眉根を寄せ、目を伏せた。

――しまった。何を云っているんだ、己れは。

 沈黙が続いた。

 襖の向こうから聞こえてきた、誰かが階段を上がりこちらへ来る足音によってそれは破られた。どうやら女主らしい。青年は慌ててリリアンを床に置いた行李の中へ隠す。

「開けますよう」

「はあい」

 襖がスッと開かれる。

「貴方に電報ですよ」

 そう云って青年に1枚の紙を手渡し、女主は去っていった。襖を閉めて青年は電報に目をやった。

「祖父が亡くなったらしい。少しここを空けなければいけないのだけれど」

 貴方は問題ないかい、と青年が首に問う。流石に生首を生家に持っていくことは出来ない。

「私は大丈夫だよ。行っておいで」

 首は昏い目をしたままそう応えた。


 青年にとって、己が家族は苦手と云うより外がなかった。「男らしく」と振る舞う意固地な父。「女らしく」それに隷属し己に期待する母。父に倣いいつも態度が尊大な兄――。気持ちが悪い、そう青年は感じていた。

 だがそれが普通なのかもしれない。学生の時分に出会った周囲の人間も、似たようなものだった。己はその普通という枠からはみ出して、歪な形で生まれてしまっただけーーなのかもしれない。そう思えば思うほど、青年は己の内側へと引き篭もりがちになった。そんな青年ではあるが、祖父に対しては少し違っていた。青年の祖父、謂わば父の父に当たる人というのは、寡黙であり博学でもあった。外国へも度々足を運び、そちらにも少なからず友人がいたとのことである。特別に好き、という訳ではなかったものの、青年は祖父と共に居て唯一、不快な思いをすることがなかった。

 その祖父が、亡くなったのである。葬式のしめやかな空気の中、青年の頭には祖父との思い出が去来していた。時折訪ねていた祖父の書斎が脳裡に浮かぶ。

――終わったらあの書斎へ行ってみよう。

 青年はふとそう思い立った。


 祖父の書斎の壁や棚には今も尚、祖父が海外で買い上げていた、気に入りの美術品が飾られていた。青年はぼんやりとそれらを眺め、書斎での記憶に思いを馳せる。その時、長い間すっかり忘れていた1つの出来事を思い出した。

――そうだ、そういえば。

 現在はここにはない、とある絵画に纏わることだ。今とちょうど同じ時期、肌寒い秋のことである。

 少年だった彼は夕暮れ時、家の近くの田が広がる道を散歩していた。田の畦に真っ赤に咲き並んだ彼岸花が見たかったのである。これを見るには朝や昼時では相応しくないと、幼いながらに少年は思った。

 少年はその中にたった1つだけ、妖しさと清廉さのあわいにあるような、真っ白な彼岸花を見つけた。

 家へと戻るまで、紅の群れに一点だけポツリと咲いたそれが少年の頭から離れなかった。

 帰宅すると祖父が外国から戻っていた。少年ら兄弟への土産と共に、何やらまた気に入ったものがあったようだ、絵画と思しきものを風呂敷に大事に包んで持って帰ってきていた。少年はどうにも気になって祖父に頼み、夕食後書斎にて初めてそれを見せてもらった。

 それは美しい額に縁取られた、美しい男の肖像画であった。その男は金糸で彩られた漆黒の上衣を纏い、白金の髪に翡翠の瞳を持っていた。こちらに優しく微笑むその男に、少年は一瞬で目を奪われてしまった。

「そんなにじっと見つめて、その絵が気に入ったのかい」

 祖父が少年に問いかける。少年はこくりと頷いた。

「なら用がなくとも、いつでも見に来るといい」

 それから毎日のように、少年は美しい男を観るため祖父の書斎を訪れた。祖父はそうした少年の様子を訝しむこともなく、少年が書斎の扉を叩くたび彼を静かに出迎えた。

 祖父が外出をして不在の日も、少年は美しい男を眺めていた。ずっと見つめていたなら、男が額縁を抜け出してこちらに触れてくれはしないかと、少年は幻想を抱いた。

――接吻をしてみたら。

 どうなるだろう。何も起こるはずはなかったが、そうしてみたくなった。少年は美しい男に顔を近づけた。その時である。

 ギイ、と扉を開く音がした。我に返った少年が振り向くと、少年の兄が立っていた。

「お前はこの家の恥さらしだ」

 兄は開口一番にそう云った。そして続けて云い放った兄の言葉は少年の胸にグサリと、深々と突き刺さった。

「それはただの絵だ、しかも男なんだぞ。お前は、そうなのか。そうならお前は、」

 異常だ。おれはお前を弟と思いたくない。

「だれにも云わないで」

 少年は鼻詰まった声で兄に頼んだ。兄はフイと踵を返し書斎を出て行った。

 その出来事があってしばらくの間、少年は祖父の書斎に行くことを控えた。控えた、と云うよりも行くのが怖くなってしまった、とした方が正しいだろう。しかし、やっと少年の中でほとぼりが冷めた頃には、祖父の書斎からあの美しい男の肖像画はなくなっていた。少年は祖父に対し何も問わなかった。やはりであるのかそれとも何故なのか、あの肖像画について問うのが恐ろしかったのである。

 そうしてだんだんと少年の記憶から美しい男の面影は薄れ、消えていったのであった。

――明日の朝、すぐに帰らなくてはいけない。

 青年ははっきりと心に決めた。


 祖父の書斎を出たのち自身の寝室にて床に就くも、青年は一睡も出来ずに朝を迎えた。家族への挨拶はごく簡単に済ませ、気もそぞろに生家を発った。

 下宿への道中も、青年の頭にはあの額裡の美しい男――リリアンの面影があるばかりであった。

 そうして物思いに耽りながら、いつの間にか青年は己が住まいへと帰り着いていた。女主に帰宅の旨を告げ、階段を上り自室へと入る。押し入れから行李を取り出し、青年は静かに蓋を開けた。首は目を閉じていた。額縁にそっと手を掛け、卓の上に立て掛ける。

「ただいま」

 昼の薄明るい室の中、囁くように青年は云った。

「貴方をやっと思い出したんだ。貴方はずっと、僕のことを想っていてくれたの?兄が、貴方はただの絵でその上男だからと、ひどいことを云ったよね。だから身体を捨てたのかい。『男』の身体を捨てて、首だけになって、どちらでもなくなって。そうしてまた僕に」

 逢おうとしたんだね。

 すると首はゆっくりと目を開け、青年に真っ直ぐな眼差しを向けた。そして柔らかに微笑んだ。

「気づいてくれたんだね、やっと。ずっと待っていたよ。でも君が思い出さない間も、私は君と2人きりでとても幸せだった。愉しかったんだ、とても」

 言葉が途切れ、沈黙が訪れた。ややあって青年が口を開く。

「貴方は白百合ではなかった。あの白い彼岸花、それが貴方だ」

 首はそれには応えず、代わりにこう云った。

「あの日出来なかったことをしてくれるかい。私にーー接吻をしてくれる?」

 青年は首の美しい貌を両手で包み、己の唇を首のそれに重ねた。

 青年が顔を離すと、首は深い笑みを浮かべて云った。

「これで君は私のものだね」


※※※


 夕陽の差し込む仄暗い室の中、青年は目を覚ました。どうやら卓に俯せて寝ていたらしい。茫漠とした意識のまま顔を上げていた青年は、はたと我に返る。

――リリアンが居ない。

 首は額縁を残して居なくなっていた。青年は慌てて辺りに目をやり室の中を探し回った。しかし首はどこにも居ない。

――あれは夢だったと云うのか。それとも幻覚なのか。それならばどこからどこまでが。

 悲しさ、寂しさ、そして混乱が青年を襲った。だがその時、視界の端に写ったあるものに気づき、青年は瞠目した。

 先ほど見た時は何もなかったはずの額縁の裡、ちょうど首の付いていた中心である。

 首の付け根と同じほどの大きさ、赤茶色の円が――判を押したように浮かび上がっていた。

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