困っている人を見かけたら? ☆1☆


「そういえば、旅の目的はあるのですか?」


 てくてくと徒歩で山を越えていると、ふと思い出したようにリーズがシュエに問いかけた。


「美味しいものを食べる旅!」

「……それ以外では?」

「ない!」


 きっぱりと断言するシュエに、リーズはぴたりと足を止めた。「ぶぇっ」と立ち止まったリーズにぶつかり、彼を見上げると重々しくため息を吐かれる。


「な、なんじゃ?」

「姫さま、少しお話ししましょうか」


 リーズはシュエに振り返り、にこりと笑う。その笑みの後ろになぜか吹雪が見えるシュエだった。


「あ、歩きながらでいいじゃろうか? 今日は町につきたいぞ」

「……そうですね」


 あの窫窳あつゆを倒してから、別の山を歩くこと三日目。そろそろ宿屋のふかふかの布団が恋しいシュエは、リーズの背を押して歩かせようとする。彼はしぶしぶと足を動かした。


「そもそも姫さま、ここがどんな国なのかわかっていますか?」

「『内なる世界』以外知らんぞ?」

「姫さま、勉強さぼっていましたね? 今、確信しました」


 うぐっ、とシュエが言葉を詰まらせる。


 そよそよと流れる風にシュエの濃緑の髪と、リーズの胡桃色の髪がなびく。爽やかな風のはずなのに、彼の言葉がシュエの頭に重くのしかかり、彼女は翠色の瞳を彷徨わせた。


「まさか、自身の国のことも……?」

「さすがにそれは知っておる! 百年も過ごした国じゃしな!」


 リーズは胸に手を当て、「それは良かったです」と漆黒の瞳をシュエに向ける。シュエは視線をそらした。


「では、おさらいしましょうか。が百年過ごした国の名は?」

翠竜すいりゅう国じゃ」

「その国はどこにありますか?」


 先程まで『姫さま』と呼んでいたリーズが、わざわざ名前を呼んだのだ。彼の視線がシュエに刺さり、彼女は人差し指を天に向ける。


「えーっと、『外なる世界』よりももっと外」

「正確には?」

「外界――竜人族が自由に暮らせる空間」

「では、こちらの世界は?」

「……なんじゃったっけ?」


 リーズは額に手を置いて、頭でも痛いのか眉間に皺を刻んだ。


「――本当に、食のことしか頭にないのですね……」


 僅かに涙声に聞こえ、シュエはさすがにまずいと思ったのか、リーズの袖を軽く引っ張り、うかがうように見上げる。


「だって、食のほうが面白かったから」

「シュエ。言い訳は結構です」


 バッサリと言葉を切られて、シュエはしょんぼりと肩を落とした。リーズはシュエと長い付き合いだ。だからこそ、シュエに対して甘くも厳しくもできる。


 そもそも、彼女の家族が甘すぎるから、シュエが自分の興味のある食についてばかり調べ、他の勉学がおろそかになったのだと彼は考えている。末っ子皇女としてたっぷりと甘やかされた百年もの年月。自分たちに厳しくするのは無理だからと彼女の家族に言われ、シュエが自立した立派な竜人族の皇女として胸を張れるようにできるだけ手助けをしていたつもりだったが、まだ甘かったかとリーズは肩をすくめる。


「シュエ、勉学はなんのためにするのでしょう?」

「え、えーっと? 国のため……?」


 皇女であるシュエが教わることはたくさんあった。だが、そのほとんどを食について調べ学んだのは彼女のワガママでもあった。そのワガママを家族はすんなりと了承したので、食に対しての時間はたっぷりと取れた。


 が、その時間が長引けば長引くほど、他の勉学はおろそかになった自覚がシュエにはある。今リーズに問われ、首を傾げた彼女に対し、彼は再び足を止め、シュエと視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。


「いいですか、シュエ。勉学は『己』のためにするものです」

「……わらわ自身の?」

「そうです。知識はシュエの武器になりますからね」

「武器?」

「ええ。食にだって、毒になるものがあるでしょう? それこそ、花椒が小児や妊婦は避けたほうが良いように」


 シュエは目から鱗が落ちたかのようにリーズを見た。幼子を言い聞かせるような、柔らかく、優しい口調だった。


「……考えたことがなかった」


 リーズの言葉は、シュエにとって青天の霹靂へきれきだった。ただ、食について調べていた時間は幸福に満ちていたことを覚えている。料理のことを知り、自分で作り、食べる。六十歳のときに初めて料理をしてから四十年、それなりに作れるようになったし、食に対しての知識は増えた。だが、ただそれだけだ。


「楽しく学べるのが一番じゃと思っていたが……、興味のあることについての知識は増えたがの、他はさっぱりじゃな、わらわ」

「気付けましたね。では、この旅の中でいろいろ学べることがあるでしょう」


 最初は目的のない旅――いや、正確に言えば『内なる世界』の食事が目的だったりした――が、それだけではダメだとリーズは伝えているのだろう。


「――ふむ。学ぶことが多い旅になりそうじゃの」

「そうでしょうね。特に姫さまは、決まった人たちとしか会話していませんから」


 シュエが翠竜国にいた百年、彼女に深く関わった人は両手で足りるほどだ。彼女を溺愛する両親と兄が三人、乳母、料理長、リーズくらいなので、こうして国を出て人々と交流することで、彼女は大きく成長するだろうとリーズは考える。


 だが、シュエはどんな人々がいるのか、はっきりと想像はできないだろうとも考えた。なぜなら、翠竜国にいたときは、自分のことを大切にしてくれる人たちだけだったからだ。


 シュエの周りの人たちは親切だった。親切な人しかいなかった。それはシュエが皇女だからでもあり、家族からとても愛されていたからだ。シュエを大切にし過ぎているので、彼女は本当に自由に育ったとリーズは目元を細め、立ち上がった。


「旅を終えたら、勉学の時間の見直しをしないといけませんね」

「ま、まだ帰らんぞ! 絶対に!」

「わかっていますよ、姫さま」


 ぎゅうっと強くリーズの袖を握りしめて、自分の気持ちを主張するシュエに、彼は小さくうなずいた。呼び名も『姫さま』に戻っていることに、シュエはホッとしたように表情を緩ませた。

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