第16話 タコ部屋
ひどい寮だった。
地方から上京して来た新入社員は寮に入るしかない。新人の給料で部屋を借りるのは相当にきついからだ。
普通の社会人は給料の三分の一が家賃というケースがほとんどだが、東京近辺で家を借りると給料の半分が飛ぶ。これが生活残業が必要になる由縁である。
この寮は面接に来た学生が一目みて内定を辞退するほどのものだった。
私自身は企業面接のときに寮を下見していなかったのだが、この寮は一部屋六畳二人部屋である。
冷房は無し。暖房は一昔前のスチームヒーターのみ。
このスチームヒーターはとんでもない代物で動作中は常にカンカンと大きな音が出る。だが肝心の熱は指で触れると微かに暖かいぐらいしか出ていないという、ただ煩いだけの代物である。
電源は10部屋まとめて10アンペアしかない。ドライヤーを二人が同時に使うとブレーカーが飛ぶという代物である。従って個人用の暖房器具は一切使用できない。
隙間風はひどく、室温は常に外気温度と同じになる。
つまり迂闊に冬にこの部屋で寝ていると凍死する可能性がある。冬の戸外で布団を敷いて寝ているようなものなのだ。
朝は寒さで目が覚める。冷え切って動かない体を布団からずるずると引き出して慌てて着替えるというのが日課となる。早く出勤して会社で温まらないと死んでしまうというのが毎日の日常であった。
洗濯機は無料で設置してある。ただし気をつけないと洗濯中に感電する。水に触れた手がビリビリするのだ。
感心にも大浴場があった。ただしこれも残業して帰って来た頃にはボイラーは停止しているというオチがつく。
会社側にもナケナシの慈悲はあるのか、シャワーが2つだけお湯が出るようになっている。だが残業を終えて帰って来た社員たちがその2本のシャワーの前にずらりと並んでいる。
火の気のない氷のような大浴室の中で震えながら裸で30分は待たないと自分の番が来ない。
まだ温度を保っているお湯が張ってある大風呂は、最初見たときは泡風呂かと思った。
へ~、会社も面白いもの用意するじゃん、などと思ってよく見ると違う。
白い垢が水面をびっしりと覆っているのだ。男たちが流し湯(水!)もせずにざんぶと入って出て行った結果がこの泡風呂ならず垢風呂である。
吐き気がした。
憲法が保障する健康で文化的な最低限度の生活はこの会社には無い。
風呂には近づかずに、洗面器一杯の冷水を被り、キーんと鳴る頭を押さえ、凍死する前に体を洗い終える。都合三杯の冷水。昔修行代わりに何度かこれをやったことはあるが、直後に火に当たれることがないだけにこちらはさらに厳しい。
死ぬかと思った。
風呂から帰り、部屋に戻っても火の気はない。震えながら布団にくるまって、冷え切った自分の体の体温だけを頼りに過ごすのだ。
先輩たちは寮の風呂は最初から諦めて外の銭湯に行っていたが、新人にはそれはできない。銭湯代を払えばその日の夕飯は無しになる。究極の選択と言える。それぐらい安月給なのだ。
極めつけは食堂だ。値段なりに味が悪いのは当然としてときたまゴキブリの足が混ざっているので、気をつけないと口の中に刺さる。新入社員でも三日目からは食券を払い戻してしてもらって食堂には来なくなった。
私は頑張って一カ月食い続けた。メニューはいつも肉無しの野菜あんかけ。
体重が一日500グラムづつ減っていく。
10キロ減った所で体重は安定した。
そしてキクラゲが入っていると思って発掘したのがゴキブリの足であると知り、食堂の使用を止めた。
寮の廊下の突き当りの部屋は密かに語り継がれるダニ部屋だ。
ある日を境にダニが大量発生したその部屋は度重なる消毒にも関わらず、ダニの王国となった。そこで総務はその部屋を空き部屋として、地方から本社に(専用のバスで)出張に来た社員を泊めることにした。
かくして今も多くの社員がその理由も知らずにダニの被害にあっている。
この地獄の寮に一年はいた。
最初の冬を過ごした後、自分の体力がめっきり落ちたのが実感できた。何か体の芯にあるべき力がごっそりと削れているのだ。この寮でこれ以上暮らしていたら衰弱死する。そう実感した。
無理して借りたアパートでコタツに足を突っ込んだときの感動を私は忘れない。
この世にこれほど暖かいものはない。おお、文明の利器よ。有難う。
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