第17話 教育研修

 少し時間を巻き戻す。

 この会社では入社して一カ月は教育研修である。この後に配属が決まる。


 社員研修の中身は自己紹介の仕方、上座の見分け方、報告の大切さ。パソコンのキーの打ち方。カード読み取り方式のパンチングマシンによるプログラミング。

 どれも恐ろしく退屈だ。おまけに宿題まで付いてくる。仕事が終わった後に寮の部屋で宿題をやり翌日提出するのだ。

 小学生か私らは。

 そもそもこの時点では残業代なんかつかないのだから、宿題に使用された時間はまったくの無意味だ。こちらは金を稼ぐために時間を提供しているので、タダで時間を差し出す言われはないのだが、それを言えばひどい配属先に追い落とされるだろうから、文句は言えない。

 しかたなく可能な限り手を抜いて宿題を片付ける。すると次の日、ノートにこう書かれる。

「君は熱意が足りない」

 いや、お前さんはどっかの熱血教師かい。

 ただの教育係だろ?

 どうせ他のこと一切できないほど無能だから教育係に回されたんだろう?

 技術界にはこういう格言がある。

『仕事ができるものは仕事をする。仕事ができない者は人を教える』

 言えないなあ、本当のことだから、言えば激怒するだろうし。いま人事権を持っているのは向こうだ。


 他の新人たちは何に対してもさほどの疑問を持つことなく、研修期間を楽しんでいるようだ。

 飲み会に、新人同士の合コン。

 昼休みは男女のグループで楽しそうにお話ししている。

「一万円あったら相手に何を送る?」


 あまりの幼稚さに、吐き気がした。学生気分をどこまでも引きずっている。

 この人たちは私と同じ年齢なのだろうか?

 それも口にはせず、腹に貯める。早く仕事を覚えて稼ぎたいなあ。それだけが望みだ。

 まあ、いずれにしろすべてタダの錯覚である。今から思えば若いこと若いこと。

 肩肘はらずに人生は楽しんだもの勝ちである。誰ひとりそこまで真面目に自分というものを考えてはいない。


 定時に退社し、寮に帰る。待っているのは宿題と恐ろしくまずい寮の飯だ。値段も安いが、内容もしょぼい。ちょうど病院食を考えればそのイメージでどんぴしゃりだ。

 寮に入った時点で、ペラペラの薄い布団を強制で買わされている。最初に支払うのが一か月分の寮食代と書類カバンが一つ。それに寮費だ。これで色々細かな買い物を合わせると、すでに持って来たお金の内、5万円を使ってしまっている。奨学金を貯めて作った手持ちは残り45万円。決して無駄遣いはできない。朝食と夕食は寮で食べるが、お昼は社内で売っているパンで過ごす。食堂は行列また行列でとても並ぶ気になれない。

 体重が減り始めた。カロリーが絶対的に足りない。ストレスも強烈だ。

 開き直ってダイエットと捉える。一日500グラムの体重がどこかに消える。

 うれしくて、同時に悲しい。

 十日ばかり経ったところで体の中の何かが適応を完了したらしい。体重の減少が止まる。

 良かった。

 これで餓死したら、自殺なのだろうか?

 それとも他殺なのだろうか?


 そうこうしているうちに一カ月が経過し、最初の給料日そして配属発表の日がやってきた。


 この給料はね、君たちが働いていない期間に対して支払われているんだ。だから感謝して受け取るんだよ。そう言って恩着せがましく渡された給料の額はわずかに十万円。ここまでに使ったお金とちょうど同じ額だ。


 続いて配属の発表。中には山陰の工場が割り当てられた者もいて、それらは一日で荷造りしてバスで東京から集団移動だ。

「君の配属は」こちらの顔を覗き込むようにして一呼吸を入れると、教育係の人が大げさに言った。「パソコン部隊です」

 希望通りの部署だ。

 こちらの顔色が少しも変化しないのを見て、不思議そうに言った。

「あれ? 知っていた?」

「いいえ、初耳です」


 一体何を期待しているのだろうと思った。あなたとは教師と生徒という関係ではない。ただの企業の教育係と新人にしか過ぎない。人間的な絡みがあるわけでもなし。ここで感動の雄叫びを上げないといけないのだろうか?

 涙を流しながら、やったあ、有難うございます、そう叫びながら教育係をハグすることを期待されていた?

 まさかね。

 教育を受けている側の新人たちも学生気分が抜けておらず、それを教育する側もまた何か勘違いしている。


 ああ、いやだ、いやだ。はやくきちんとした「会社」という場に移りたい。生意気にもそう考えていた。


 これから向かう先が、会社とは名ばかりの魑魅魍魎渦巻く世界だとは知らずに。

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