第15話 自己中

「いいか、全員でこいつを持ちあげる。言っておくが重いぞ。持ち上げたら絶対手を放すな。放したら、誰かの足が潰れるからな」

 リーダーが念を押す。

 目の前にあるのは金属製の大きなサーバー。見るからに重量感がある。サーバーは金属製の四角い大きな箱。無茶苦茶重い上に持ち手がない。どこの馬鹿だ。こんなものを設計したのは。

 これを移動用のキャリーの上に載せるのが今回の仕事だ。

 いちにのさんで六人全員で持ち上げる。

 想像したよりずっと思い。歯を食いしばる。いったい何キロあるんだ。これ?

 少なくても百五十キロというところか。

「重い」

 持ち上げて1秒も立たずにいきなりI氏が手を放した。


 うおおおおぉぉぉぉぉぉ! 何さらすんじゃ、こいつ。


 残り五人が必死に支える。この金属の箱が足の上に落ちたらまず無事では済まない。もう後一人でも手を放したら、確実に誰かの足の指が潰れる。それも骨折クラスだ。

「踏ん張れ!」リーダーが叫ぶ。「ゆっくりだ。ゆっくりと下ろせ。さもないと誰か死ぬぞ」

 必死の形相でリーダーの人が誘導する。重い重い箱が床にゆっくりと重量を移す。指が潰れる前にからくも箱の下から手を抜くことができた。

 五人ともがその場に崩れ落ちた。実際、どれほどヤバイ状況だったかは全員が判っている。けが人が出なかったのは奇跡だ。

「おまえなあ」リーダーがI氏を睨みつける。

「だって重いんだもん」少しも悪びれずにI氏が答える。

「もういい、あっちに行け。お前を選んだ俺が悪かった」


 I氏のいつもの手口。自分がまったく信用できないところをわざと見せつけて、疲れる仕事を回避する。もちろん、疲れない仕事など存在しないから、日常業務すらまともにこなせないことになるのだが、全然問題は無い。

 それが大企業。ここには仕事をサボって泳ぐ隙間はいくらでもある。管理職もそれを知っているが特に咎めない。咎めて問題になると自分の管理能力を疑われるからである。



 そのI氏を配下に組み入れられた。事なかれ主義のM課長の采配である。できない人間をできる人間と組み合わせて、全体としてグループで実績を積んでいるように見せる。そうすれば課長としての管理責任は問われないとの考えである。

 もちろんできる人間に取っては仕事の成果をタガ取りされているようなもので百害あって一利もない。そういう采配でもある。

 I氏は二週間に渡って、ただただ椅子に座り続けた。目の前には一枚の白紙。ただそれを眺めながら椅子の上で何をするでもなく二週間を過ごしたのだ。

 普通の人間ではまずできない行動である。

 狂っている。こんな人間がいるのかと呆れた。それになぜ技術部門にこんな人間がいるのかも謎だった。



 ウチの製品を管理している工場長が会議で怒鳴った。

「お前たちがミスして再出荷になったのだから、お前たちがやれ」

 何と言う無責任な言葉。

 そんな理屈が通じるならそれこそ社長が工場に365日籠って作業しないといけないことになるが、なぜかこの要請が来るのはウチだけだ。

 営業会議では「黙っていても売れるモノを作れ」と一介の営業マンにこちらの課長が怒鳴られる始末。そんなモノを作ったら営業それ自体が不要だろうがとは思うが『士農工商半導体』である以上は文句も言えない。


 深夜2時。工場では全員が焦燥していた。徹夜している先輩たちも多い。二人で製品の入った箱を下ろし、カッターでシールを切り、中のマニュアルを交換し、製品番号を記録する。

 シールはもう何重にも貼られている。この取り換え作業が何度も行われている証拠だ。机を叩くしか能のない事業部長が無茶な工期を押し進めた結果がこれだ。

 パレットと呼ばれる大きな木の板の上に製品の箱がうず高く積み上がるとフォークリフトがやって来て運び出す。ようやくパレットの山が無くなると、工場の入口から声がかかる。

「新しいパレットが来たぞ」

 嬉しいなあ、今日も徹夜だ。


 こうした作業をしていると製品を開けてみると中からは入っていてはいけない色々なものが出てくる。

 おばちゃん用のピンクの軍手はまだ可愛いものだ。ヤバいときはハサミなどが出てくる。製品梱包のときに紛れ込んだもので、まとめて工場の隅にまとめておく。


「カッターが足りないぞ!」

 作業していると恐怖の言葉が飛ぶ。使っているカッターの本数が足りないのだ。皆もう注意力が無くなっているので、これは何回かあった。

 もちろんカッターはたったいま山のように積み上げた製品のどこかに入っている。

「俺に任せろ」

 元ヤンキーとの噂があるY先輩が名乗りを上げた。「俺には分かる。これだ!」

 うおおぉぉと訳の分からない叫び声を上げながら、指さされた製品をパレットから引きずり下ろす。こんな冗談でもしないともはや皆の精神が持たないと見越しての行動だ。

 一つめ。ハズレ。

 二つめ。ハズレ。

 三つめ。カッターが出て来た。全員がY先輩に拍手した。


 この死にかけの群れの中でもM先輩はもう三日間に渡って寝ないで作業していた。今回のプロジェクトの責任者であるM先輩は休憩すら許されずにその細い体を動かしている。

 Y先輩がその体を気遣って、お前もう休めと言っても聞かない。責任感が強いのだ。

 疲れた顔でM先輩が重い製品を運搬していると、工場に来たばかりのI氏が近づいて来た。いったい何をと見つめる全員の前で彼は口を開いた。

「ずるいよ。Mさん。楽な仕事ばかりして」

 周囲では私たち同期組がそれを聞いて仰け反っていた。疲労で倒れそうな人間によくもまあそんな暴言が吐けるのかと驚愕したのだ。

 M先輩は『動物を殺して食べるなんて可哀そうでできない』という理由で当時ではまだ珍しかったベジタリアンを続けている人だ。そのM先輩の顔が見る見る内に険しくなった。

 空気に緊張感が満ちる。

 M先輩の目にも止まらぬフックがI氏の顔に飛んだ。

 傍にいたY先輩の動きは素早かった。二人の間に入ってそのフックをブロックしたのだ。人間があれほど素早く動けるとは初めて知った。

 そのY先輩の背後でI氏が言った。

「ひどいなあ。Mさん。いきなり殴りかかるなんて人間性を疑うよ」

 それを聞いていて私たち同期組が悶える。いったいどこまでこの人は自己中心的になれるのだろう、ここまで人間関係を完全に無視して社会生活が成り立つのかと皆がそう思っていた。

 Y先輩がくるりと後ろを向くと、I氏を睨んだ。

「それ以上、一言でも喋ったら、俺がお前を殴るぞ」

 I氏はそれでも何かをブツブツと言っていたが、工場の壁にまで歩いていくと、残りの時間すべてそこに立って皆が働くのを眺めながら何もせずに過ごした。



 まさに世の中にはとんでもない人間がいるものである。

 その後、彼は大企業のサラリーマンという立場を利用してテニス場で知り合った女性と結婚した。花嫁さんもまさか花婿がこんな人物だとは知らなかっただろう。

 結婚式をやったかどうかは知らないが、同僚がそれに出席したとは思えない。

 罪作りなものだ。

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