第4話 靴下課長
この課で最悪の課長は靴下課長であった。
朝、職場につくとまず靴下を脱ぐ。ヒーターの上にそれを置いて乾かし始める。
T課長はメガネをかけた貧相な小男であったが、見た目はともかく行動が醜い課長であった。そのまま自分は椅子に座り、裸足をそのまま机の上に載せて課員に足の裏を向けている。
ワンフロア百人の職場の中でそんなことをしているのはこの課長だけであった。
実にみっともない。課長の職責にある人間が取る行動ではない。またこれに苦情を入れない他の課長も似たり寄ったりだと思っていた。事業部長も部長も同じワンフロアにいるのだ。この醜態が見えないわけがない。
T課長はいつも日課のようにこちらの机から勝手に持っていった技術雑誌を読んでいる。
これが靴下課長だった。もちろん本を読んでいるのはただのフリである。この課長、仕事の知識は皆無なのである。周囲からは使えない課長の代名詞と見られていた。
ある日、この靴下課長に呼び出された。
何かと思ったら書きかけの回路図を渡された。回路図には抵抗やコイルが並ぶアナログ回路が描かれているのだが、各部品の抵抗値や型番などの数値が入っていない。
「F君が描いていたのだけど彼は今日熱が出て休んでいる。締め切りが今日の夕刻なので君、これを完成させてくれ」
F先輩はベテランの技術者だ。性格にひどい難があることを除けば一流の腕を持っている。
「あの、できません」
頼みを断ると、靴下課長の顔が険しくなった。
「きみ、わかっていないようだね。これはお願いじゃない。命令だ」
うわ、と思った。こんなセリフを本当に使うバカがいるんだ。
だが業務命令なら仕方がない。管理職の出した業務命令を無視したら首もあり得る。
「わかりました」
どうなっても知らないぞ。
この回路図はパソコン拡張用の音源制御ボードのものである。内容はバリバリのアナログ回路。それも相当高度なものだ。
それに対して私はソフトウェア工学が専攻でアナログ回路は専門外だ。
例えるならば、同じ運動選手だからと言って走高跳の選手を水泳の試合に出すようなものだ。専門の範囲が完全に異なるのだ。
つまり技術部の課長でありながら、この課長はアナログとデジタルの差も知らないということなる。間抜けもここまで来たのかという感じだ。
しかし業務命令ならば仕方ない。トランジスタ技術という技術雑誌を引き出し、似たような回路を探して部分部分に数値を適当に入れていく。もちろん、出来上がるのは無茶苦茶な回路図だ。しかし業務命令ならば仕方がない。もはや開き直りである。
もしこうして作った回路が正しく動くならば、それは太平洋にゴジラが出現するほどの奇跡ということになる。
これを全部埋めてアートワークと呼ばれる次の部署の人に渡せば、電子基板ができてくる。それに部材を載せて全体を作り上げた後にそれが全く動かないと分かった時点で大騒ぎになる。
被害額は当時のレートで二千万円、現在なら四千万円程度の被害となる。
その結果私は仕事を干され、この課長は長い減点リストに新しいマイナスを付け加えるだろう。
だが仕方ない。なにせ業務命令なのだ。この課長に声をかけられた段階で私の運命は決まったのだ。
まったく、他人を巻き込むバカが一番困る。
すべての空欄を適当な数字で埋めてアートワークの人の所に持っていく。
「おう、Fの描いた回路か」アートワークの人がニコニコと相好を崩す。
「あいつとは長いからなあ。こうして回路を見ただけであいつが何をしたいのか分かるようになっちまったよ」
・・あの。その数字は全部私が捏造したものなのですが。
言えなかった。
その次の日、熱を押して出て来たF氏がすべてを書き直して事なきを得た。
嫌な課長だった。
実験室では就業時間中でも居並ぶパソコンの一台でドラゴンスレイヤーというゲームが動いていた。
残業だらけの厳しい労働環境の中では休み時間に遊ぶゲームだけが息抜きなのだ。
このゲームのその局面では、三つの頭を持ったドラゴンを相手にただ一か所攻撃を受けない場所にプレーヤーを固定して、キーを押したまま2時間放置するという攻略法があった。
一つの頭を潰すのに2時間、三つで6時間の作業である。
裏技ではない。これが正しい攻略法なのである。まったく人を食ったゲームであった。
そこでキーの上に重しを置いて、そのまま放置するという手段が取られた。
そのゲームを遊んでいたのはS先輩だ。
何もやることがないため実験室をぶらぶらしていた靴下課長がこれを見つけた。しばらく考えこんだ末にキーの上の重しをわざわざ外して出て行った。
「本当に要らんことをする」
遠くで仕事をしていたS先輩が来ると、再び重しを載せて自分の仕事に戻る。
その後も靴下課長は何度も実験室を巡回しそのたびに重しを外す。するとS先輩がやってきて重しを載せる。これが繰り返された。
無能な課長が暇なことはよいことだが、実験室をぶらつくのは止めて欲しい。仕事のフリをしているのだろうが。
職場でコストダウンが叫ばれたとき、靴下課長は張り切った。仕事はかけらもできない自分が手柄を上げるチャンスと考えたらしい。
お昼の電気を消そう。そう言いだした。
お陰でお昼の間フロアの電気は消され、職場の雰囲気はガタ落ちになった。これは皆が鬱になる最速の方法である。
腹が立ったので管理部に聞き込みをして、電気の点灯消灯による蛍光灯の消耗を考えると45分以内の消灯が逆にコスト高になることを証明した文書を作って提出した。
これに大反対したのは靴下課長である。自分が上げたと思っている唯一の業績が無意味だと指摘されたのだ。
これはコストダウン意識を高揚させるためだと意見を捻じ曲げて最後まで自説を変えなかったため、お昼は暗いままで終わった。
この課長の最大の業績は残業代の削減にある。
課員はみんな当時の労基法ぎりぎりの残業時間を越えて働いていた。
このとき部下たちに良い顔をしようとして靴下課長はフロア全員に次の約束をした。
「君たちの残業代は自分が命を掛けてでもきちんと出るようにする。だから今は大人しく働いてくれ」
皆はそれならばと超過残業をした。三か月で一人頭300時間分。値段にして当時の100万円分に当たる。(電気労連は安月給で有名であった)
三か月後、靴下課長は再び皆の前に立った。
「すまん。君たちの残業代だが、どうにもならん。忘れてくれ」
彼がホゴにした金額は5000万円を越えている。
この日以来、靴下課長はあらゆる課員から憎まれ蔑まれた。もはやこの課長の言うことを素直に聞くのは事情を知らない新人だけとなった。
最終的にこの部門はパソコン事業をより権力の強い他部門に奪われ、靴下課長は新しくなった部門での人材捨て場である企画部の課長に収まった。
やることはないので毎日定時になると靴下課長は真っ先に家に帰る。
ところがその後にこの課長は外から部下に電話をしつこく掛けてくるのだ。
内容はどうでもよいことで、どうしてわざわざ電話をかけるのだとその課員は不思議に思っていたそうだ。
ある日、その課員ははっと気づいた。
この課長、自分が帰った後に課員が残業しているかどうか確かめるために電話をかけているのだと気付いたのだ。
靴下課長は、会社にいる間ずっと、こうした意味のないことをして生き続けるのだ。
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