4・さいごのりょうり





 あの後、私は泣き疲れて眠ってしまった。

 そうして夜になる。

 お父さんが言うには、今日の夕食が最後の誠一くんの料理だ。

 思い返してみれば、彼の作るものは皆私の好物だった。

 その中でも特別好きだったのがカレーライスだ。

 私は辛いのが苦手だったけど、彼の作るカレーだけは美味しく食べられた。


 誠一くんの両親と、彼と私。四人で一つのテーブルを囲んで食べる夕食。

 サラダくらいは私もできるからと手伝った。

 それを見ていた誠一くんのお母さんが「あらあら、もう夫婦みたいね」なんて言っていたのを覚えている。

 ああ、そうだ。

 私は彼とそういう夫婦になりたかった。

 なのに外見の良さとか遊び慣れてるとか、そんな上辺だけの魅力に絆されて、先輩に体を預けてしまった。

 つまりは最初から最後まで、私だけが間違い続けていた。

 だから七年も引き籠り続けている。誠一くんもレイナちゃんも、一度だって私のところには来なかった。

 それが全てだった。


「莉緒、食事を置いておくぞ。誠一くんは、明日にはもう帰るそうだから」


 お父さんの足音が遠ざかる。

 あの二人は結婚して、私のいない遠い場所で幸せになる。

 それを祝福はできないけれど嫉妬を感じることもない。

 だって、どうせ私には届かないものだ。

 彼らは陽だまりの中で生きて、私は暗い部屋でゆっくり死んでいくというだけ。


 ああ、でも、許されるなら。

 これが最後なら、彼の作ったカレーライスが食べたいなぁ。


 無邪気だった私の幸せの味。

 あれをもう一度だけ食べられたなら、それだけで報われるような気がする。

 私はゆっくりと扉を開けた。

 お盆の上に置かれていたのは、私が希望するカレーライスではなかった。

 

「瓶……?」


 何かが入ったガラスの瓶が置かれているだけ。

 金属の蓋を開けて、中身を確かめる。甘酸っぱい匂いが鼻孔をくすぐる。


「レモンの、はちみつ漬け……」


 これが夕食?

 疑問に思ったが、不意に思い出す昔のこと。

 レモンのはちみつ漬けも、誠一くんがよく作ってくれたものの一つだ。

 でも高校生になってからはそんなに食べていなかったような気がする。

 確か中学生の頃には結構な頻度でたべたはず。そうだ、疲労回復にいいからと部活を頑張る私のために用意してくれた。

 あの時、彼は何と言っていたか。

 レモンのスライスを一口頬張る。ハチミツの甘さとレモンの酸味が舌に心地良い。


「ああ、そうか……」


 応援だ。

 私への応援の気持ちを込めて、いつもこれを贈ってくれた。 

 だから中学生の頃はたくさんもらって、高校生の頃はもらえなかった。

 かつての私は応援されるにふさわしい人間じゃなかったから。

 だけど、今はある。レモンのはちみつ漬けがあってくれる。

 

「あ、ああ、ああああああ」


 応援してくれているのだろうか。

 彼は、まだ純粋だった中学生の私と同じように私のことを。

 引き籠ってどうしようもなくなった私を。

 幼い笑顔で「いつも応援している」と言ってくれるの?


 一つ、二つ、三つ。

 バカみたいにレモンをがっつく。

 だってはじめの一歩を踏み出すのはいつだって力がいる。

 糖分と、彼の優しさをしっかりとらないと、今の私じゃ脚を動かすことができない。


 恐い。

 色んなものに責任を押し付けてきたけれど、結局悪いのは私だ。

 大切なものを見ようとせず彼を裏切って、一度転んだら立ち上がることもできずにウジウジ逃げ続けていた。

 でも、聞きたい。

 このガラス瓶の意味を。

 ただ、夕食を作るのが面倒だったのか。

 それとも、私の考えは、勘違いじゃないのかを。

 彼に聞きたかった。




 ◆




 今日だけは、レイナには先に休んでもらっている。

 日付が変わるまでは起きていたい。

 俺が作った料理は全部意味のあるものだ。

 それが莉緒に届いたのか。確かめるまでは眠りたくなかった。

 リビングで何をするでもなくぼんやりと待つ。


 思えば莉緒には何度も待ちぼうけさせられた。

 俺より浮気相手を優先する彼女は、振り返ろうともしなかった。

 たぶん俺は憎んでいたのだろう。

 だから恋人だったはずなのに、容赦なく制裁を加えることができた。

 その結果が引き籠り続けた七年。

 莉緒を追い詰めその人生を捻じ曲げたのは間違いなく俺、なんて言うほどうぬ惚れちゃいない。

 それでも傷つけたことだけは間違いない。

 なのにそこを見ないふりして俺だけ幸せになるのは、きっと将来にしこりを残す。

 だからこれは徹頭徹尾俺自身のためであり、単なる自己満足に過ぎない。

 分かっていてもレモンのはちみつ漬けを届けたかった。

 まだ恋人じゃなかった二人にとってあの甘さは大切なものだったのだ。


 インターホンが鳴った。

 俺はのっそりとソファーから立ち上がり、玄関に向かう。


「ひっ、ひふ……あ、あの……」


 扉を開けた先にいたのは、長いぼさぼさ髪の女性だった。

 目の下には隈、肌は荒れ放題。かなり太っていて、当時の面影はまるでない。

 でも彼女が莉緒だということは分かった。

 中学生の時のように、レモンのはちみつ漬けが入ったガラス瓶を大切そうに抱きしめていた。


「……よう」

「ひっ、ひさ、ひさし」

「ああ、久しぶり」


 きっと長い間誰とも喋っていないのだろう。

 口から出る言葉は吃音混じりでたどたどしい。だから俺はあえてゆっくりとした話し方を心掛ける。

 ここにきて彼女を追い詰める真似はしたくなかった。


「あの、ごはん。ありがと、これ、これはちみつのレモン漬け。応援、わた、わたしを、おうえんして」

「うん、そうだな。中学生の頃、テニス部で頑張ってる莉緒のためになにかしたくて、初めてそれを作った。案外、俺を料理にのめり込ませたきっかけだったのかも」

「はぁ、ひっ、あの。これ、まちがい? わ、私に、わたしに、くれたの?」


 よかった。

 ちゃんと俺の心は届いていたみたいだ。

 小さく笑って、俺は静かに頷いて見せる。


「そうだよ。あの時のこと、許せているかって言ったら自信がない。でもさ、俺は莉緒にずっと苦しんでほしいとも思っていないのかも」

「でも、わたしっ、あなたをうらぎって」

「そりゃあ辛かったけどさ。愛情も恨みも、そんなに長くは続かないよ。君の料理を作れるくらいには、俺も吹っ切れたんじゃないかな」


 君の“ために”はこれからも作れないだろうけど。

 少なくとも、君をまっすぐに見ることができる。


「もう俺は恋人じゃないし、大切な人もできた。だから……今の俺にできるのは、それを贈るくらい。だけど、中学の頃と似た気持ちは籠められたとは思ってる」


 あの時は気恥ずかしくて口に出来なかった言葉だけど、繋がりがなくなった今だから素直に言える。


「応援してる。俺に出来ることは幾つもないけど。その瓶が、ほんの少しでも助けになってくれるのなら、こんなに嬉しいことはない」


 おいしいごはんはそういうもの。

 舌を楽しませ心を満たし、明日への活力になってくれる。

 俺はずっと、莉緒にそういう気持ちでご飯をつくっていた。


「あ、ああ、ああ。そう、なの。わたし、だから好きになったの。忘れてた、あなたのきもち、ちゃんと伝わってたのに、忘れてた……!」


 莉緒は崩れ落ちて膝をついた。

 きっと後悔の重さに立っていられなくなったのだ。


「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……!」


 七年経ってようやく謝ってもらえたように感じられる。

 許してではなく、やり直したいでもない。

 ただただ純粋に彼女はごめんなさいと叫びながら泣いている。

 外見は大きく変わったし、こんな大泣きをしているところなんて見たことがない。

 なのに、中学生だった頃の莉緒にもう一度会えたような気がした。 





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