3・トマトとツナの冷製パスタ



 たっぷりのお湯が入った鍋に塩を加えてスパゲティをゆでる。麺は細い方がいい。

 ゆで上がった後は冷水につけて冷やし、キッチンペーパーでよく水気を取る。

 トマトは軽く炙って皮をむいた後、一センチ角に切って塩を振り、あらかじめ冷蔵庫に冷やしておく。

 後はボウルの中でトマトとオリーブオイル、すりおろしたニンニクとツナとスパゲティをあえて、塩コショウで味を調える。

 ちょっとツナ缶の油を入れるのが俺は好きだ。

 ブラックオリーブも加え飾りつけ。どうせならお皿もいいヤツを使いたい。


「おー、トマトとツナの冷製パスタ! これ私大好き。簡単に作れるしねー」


 作り方を教えたのは俺だが、いまやレイナの得意料理の一つでもある。

 今回は俺ばかりが作っているが、同棲しているのでレイナもちゃんと家事をやっている。


「やっぱ、夏はトマトよ」

「俺はナスの素揚げとかの方が……」

「セイはそんなお酒飲まないわりに、居酒屋メニュー好きだよねぇ」


 そう、俺もこのパスタは好きだが、普段の嗜好からは微妙に外れている。

 なのに作り方を覚えたのは食べてほしい人がいたからだ。

 高校も半ばになると、次第に莉緒とうまくいかなくなっていた。

 テニス部の先輩と休日に遊びに出かけているところを見た、という話もあった。

 それでも恋人を信じていたかった。

 だけど……莉緒が、先輩とキスをしているところを見てしまった。

 自ら腕を絡めて抱き合い、嬉しそうに。そのまま彼女はホテル街に消えていった。

 そこで、俺はぽっきりと折れた。




 ◆




 お昼はカレーかな、と思ったけれど違った。

 トマトとツナの冷製パスタ。

 暑い夏にはぴったりなのだろうけど、冷房の効いた部屋から出ずにテレビかネットだけの生活をしている私には特にありがたいものではない。

 なにより、このパスタには嫌な思い出がある。

 誠一君が作ってくれたものの中で、私が唯一食べなかった料理だった。


『先輩……好きです』

『あいつよりも?』

『もう、誠一くんなんて比べ物になりませんよ……。あはは、比べようにも、まだしてませんし』

『そら可哀想に』


 ホテルで未だに肉体関係のない恋人を馬鹿にする。

 この頃には、もう完全に心が離れていた。

 先輩の方がカッコいい、運動もできる、女性の扱いもうまい。ベットの上でのテクニックだって。

 それに比べれば膝を壊した誠一くんはちっぽけな男にしか見えなかった。

 でも私は恋人関係を続けたのは、優越感を味わうためだったのかもしれない。

 

『なあ、莉緒……』

『どうしたの?』

『いや、なんでもない。……昼飯、食ってく?』

『うん、ごちそうになろうかな』


 浮気に気付いているくせに何も言えない情けない人。

 もう、この頃には彼の料理はお小遣いを節約するためのものでしかなかった。

 そうして出てきたのがトマトとツナの冷製パスタ。

 きっとこのメニューは以前私が『誠一くんのごはんってオシャレじゃないよね』って言ったからだろう。

 だけど口をつける前に、先輩から連絡が入った。呼び出しだ。


『ごめんね、ちょっと用事ができちゃったから』

『あ……』

 

 彼の言葉を聞かずに、パスタを食べずに部屋を出る。

 まったく、彼は私の内心を理解していない。

 オシャレじゃないというのはつまり、先輩の連れて行ってくれるお店の方が素敵だという意味なのに。


「……あの時の、パスタ」


 そうして今、食べなかったパスタが目の前にある。

 意趣返しか、何かなのだろうか。

 ゆっくりとフォークに絡め、一口食べる。


「美味しい……。こんなに、美味しかったんだ」


 トマトの酸味とツナの油がパスタに絡んで、さっぱりしていて食べやすい。

 食欲がなくなる夏にちょうどいいメニューなんだろう。

 ああ、そうか。あの時も暑かった。

 炭水化物はエネルギーになる。もしかしたら変な意図はなく、部活に行く私のためを思ってくれていたのかもしれない。

 そんな心遣いにも気付かず、あの時のパスタには手を付けなかった。


 そうして破綻は訪れる。

 先輩とホテルから出てくるところを、誠一くんに捕まったのだ。


『あ、バレちゃった?』

『莉緒……なんで……』

『なんでって、誠一くんより先輩の方が素敵だもの』


 人間としても優れていて、カラダの相性もいい。

 誠一くんと比べれば、先輩を選ばない理由なんてない。

 当時の私は本気でそう思っていた。

 だから浮気を責められても全然平気。むしろ先輩と一緒になって彼を笑いものにした。

 泣いている彼が滑稽でたまらなかった。


 でも私はクラスの人気者だからか、不貞なんて醜聞は似合わない。

 悪いのは私を繋ぎ止められなかった誠一くんの方だ。

 

『誠一くんは、私に暴力を振るうの……。それに、浮気だってして。だけど先輩が、助けてくれたの』


 そう皆に吹き込めば、先輩は不遇な女の子を助けたヒーローで、私は悲劇のヒロインだ。

 全ては上手くいくはずだった。

 しかし私はけつまずいた。


『莉緒……あんた、どうしてそんなクズになっちゃったのよ』


 レイナに、バレていた。

 浮気も、誠一くんを罠に嵌めようとしたことも。

 前もって根回しされていた。

 滑稽なのは私の方だ。なにもかもが順調だと勘違いして、クラスメイトの前で醜く拙い謀を披露してしまった。


 転落は早かった。

 これまでが人気者だっただけに悪評もすぐに知れ渡った。

 文武両道の美少女から、瞬く間に恋人を裏切って他の男に股を開くビッチ。そのうえ恋人を罠に嵌めて罪を押し付けようとした下衆。

 

『クソじゃん』

『キモっ』

『だと思ったよ。だって莉緒、ブッてたもん』

『顔だけのクソ女』

『学校くんな』


 私を慕っていた人に好き勝手言われる。 

 先輩を頼ろうにも、どうやら私以外の女にも手を出していたらしい。

 それでも好きなのだと縋ろうとしたが突き放された。


『なんで、せんぱい』

『お前なんて、ただの遊びだったんだよ! カノジョを取られたガキがどんな顔をするのかって、それだけの!』

 

 先輩のパートナーのつもりだった。

 でも本当は、恋人を奪われた誠一くんを笑いものにする、そういう遊びをする上で必要な玩具でしかなかった。

 浮気の暴露に加え、裏での素行の悪さが災いし、そのまま先輩は退学になった。

 誠一くんはもちろん親友のレイナちゃんも、友達も先輩も後輩も敵に回った。

 孤立した状況に耐えきれず、私は自主退学することになった。


『あなたは、なんてことをしたの⁉ 今まで散々お世話になっておきながら』


 忙しい両親の代わりに家事をしてくれていた誠一くんを裏切り浮気した。

 その事実は耐えがたいものだったようで、知るや否や母は私の顔が腫れ上がるまで殴った。

 抵抗はできなかった。

 冷静になれば、彼を裏切ったという事実は私にとっても耐え難かった。

 外に出て誠一くんに会うのが、事情を知っている人に会うのが怖い。

 私は部屋に引き籠るようになった。




 友達はいなくなったのに、元クラスメイトが余計な情報を送りつけてくる。


【誠一くん、レイナと同じ大学に行くんだって】

【付き合い始めたって聞いた。お似合いだよぉ?】

【同窓会楽しかったぁ】

【結婚するんだって。羨ましいね、今度こそ幸せになってほしい】


 こうなって初めて気付いた。私は女子から嫌われていたらしい。

 誠一くんは私と反比例するように幸せになっていく。

 その事実が思った以上に胸を締め付ける。

 傷つけてしまった人の幸福を祈れない。そんな女だから、暗い部屋以外の居場所がなくなるのだろう。

 でも悔しいのだ。

 もしかしたら、レイナちゃんがいる場所に、私がいたかもしれないのに。

 裏切らずに膝を壊した彼を支えてあげられたなら、こうはなっていなかった。


「うあぁ……」


 トマトとツナの冷製パスタが美味しい。

 その美味しさに、食べられなかった料理に責められている。


「もど、りたい。戻りたいよぉ。あの頃に、当たり前に、これが食卓に置かれた時に。ちゃんと食べるから。美味しいって言うから。お願いだから、私を戻して下さいぃ………」


 こんなはずじゃなかった。

 今は誠一くんに負けているけど、いつかは私の作った料理が一番美味しいと思わせてみるなんて意気込んでいた。

 だけど七年もの間部屋から出ていない。

 学校に行っていない、働いていない、お米の炊き方も分からない。

 運動なんて全然していないたるんだ身体、皆が褒めてくれた容姿も見る影はない。

 もう私は取り返しがつかない。 

 だからどうか。

 お願い、誰か私を昔に戻して。

 純粋に誠一くんを好きでいられたあの頃に、帰りたいんです。

 





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