第32話 潜入

 職員室前でずっとチャンスをうかがっていたが、なかなかその時は現れなかった。すれ違う人すれ違う人に不審な目で見られたが、気にしない。今の俺にはそんなの気にしている余裕などないのだ。

「今だ!」

 牧野先生が席を立った。きっとお手洗いにでも行くのだろう。片手にタオルを持って席を立つのが見えた。俺はあたかも今来ました風を装って、前の方のドアから職員室に入る。

「失礼しまーす。すみませーん。牧野先生いらっしゃいますか?」

「牧野先生ならちょうど今どっか行っちゃったよ」

 はい、知っています。だってずっと職員室の中を監視していたから。

「そうですか! いやー、運が悪かったなー。先生に鉛筆を貸したままでしてー。ちょっとお邪魔しますね」

 白々しい演技をよそに、テストの丸付けを始める男性教師の真横を通り過ぎる。あった。ここが牧野先生の机だ。なんだ、えらく整理整頓されているな。心の中は荒れ果てているというのに。

「どこしまったんだろー。あれー、ここにあるはずなんだけどなー」

 引き出し一つ一つを開けてみるが、どこにもボイスレコーダーらしきものはない。まさか机の上に置いてあるなんてことはないだろうし。やっぱり処分されてしまったのだろうか。あずかっておくと言っておきながら、もう持ち帰ってしまったのかもしれない。中身を聞いたのかどうかは分からないが、あんなもの身近に置いておいてもし学校の誰かに聞かれてしまったら。悪知恵の効くあの女の事だ。きっともう捨ててあるに違いない。

「そういえば!」

「はい!」

 丸付けをしていた先生だ。年は多分三十代後半くらい。伸びかけの髪をワックスで固め、左手の薬指には結婚指輪が付いている。いかにも、娘大好きなパパって感じ。

「牧野先生のクラスの生徒がボイスレコーダーを持ち込んだんだって?」

「知ってるんですか!?」

 てっきり学年主任以外に情報は渡っていないと思っていた。驚きで、つい大きな声が漏れてしまう。周りに座っている職員たちの視線が一瞬俺に集まったが、すぐにちらばった。

「有名だよ。ボイスレコーダーを持ってきた生徒が、牧野先生に嫌がらせされてるって職員室の前に叫びに来たからね」

「ええ! その話、もっと詳しく!」

 きっとそれをやったのは苺花だ。俺の知らないところで、いつの間にそんな。

「いや、これ以上は特に。もともと問題のある生徒だったみたいだし。ほら、ここの学校、問題児は強制的に寮に入れられるじゃない?」

「ああ、はい……」

 俺はそこで舎監をやってますなんて、口が裂けても言えない。

「犯人はその寮の子だったみたいだから。授業を録音するためとか言ってたけど、きっといたずらだろうって」

「……」

 いたずらなんかじゃねえよ。そう言いたかったが、ぐっとこらえた。ここで俺の正体がバレてしまったら、今までの努力が水の泡だ。せっかくチャンスを掴めそうなところなのに。俺は今すぐ牧野先生の素性を暴露したい気持ちを抑え、拳を握る。

「そう、ですか……。それで、ボイスレコーダーは今どこに」

「ああ、それなら。あ、牧野先生!」

 先生の視線が俺から外れ、職員室の後方に移る。嫌な予感を感じ、恐る恐る俺もそっちを振り向いた。まずい。戻ってきてしまった。彼女が。

「ちょうどよかった。ボイスレコーダーってどこに――」

「あー! 俺今日用事があるんだった。そろそろ帰らないと!」

「え?」

「なんかすみません。それじゃあまた明日!」

 牧野先生に話しかけられる前に、俺は走って職員室を出た。「ちょっと、君!?」というさっきまで話していた男性教師の声が後ろから聞こえてきたが、無視した。しくじった。これでもし俺の正体がバレてしまったら。

「クソっ」

 どうかどうか。うまくごまかしてくれますよーに。


   ◆◆◆


 その晩のことだった。

 日誌を書いている時に突然鳴ったノック。俺はシャーペンを持つ手を止め、ドアに向かって返事をする。すると、ガチャリというドアの開く音と同時に、苺花が部屋へと入って来た。浮かない顔をして。

「蒼真……」

「どした?」

 俺が声をかけると、苺花はゆっくり扉を閉めた。そして俺が座っている椅子の方まで歩いてくる。目線が合うと、苺花の足がピタリと止まった。表情は変わらぬまま、視線が下がる。何か言いたげな様子。俺は日誌を閉じ、体を苺花の方へ向けた。

「苺花?」

 もう一度声をかけてみる。しかし、なかなか口を開こうとしない。どうしたのだろう。俺が見ていないところで牧野先生に何かされたのだろうか。心配だ。

 少しすると、苺花の視線が上がった。眉の下がった不安そうな顔で俺のことを見つめる。俺が首をかしげると、ようやく苺花は一言呟いた。

「もう、実習行くのやめなよ」

「え?」

「だって、蒼真可哀そうだもん。ずっと悪者扱いだし」

 再び俺から視線が逸れる。なんだ。そんなことか。とは言えなかった。苺花だって辛いはずなのに、こうやって俺のことを心配してくれている。なんて優しい子なのだろう。こんな子に嫌な思いをさせて、ますます牧野先生への怒りが増してくる。今すぐグーで殴ってやりたいくらいだ。

「私ね、職員室の前で聞いちゃったの」

「何をだ?」

「蒼真の悪口。牧野先生が色々言ってた。他の先生も、蒼真のこと悪く言ってる」

 やっぱり、ボイスレコーダーを探していたことがバレてしまったのか。だとしたらまずいな。明日からは、今以上に牧野先生を制止できなくなってしまうだろう。今日のうちに取り返す事が出来ていればっ。

「そんなに心配しなくても大丈夫だ。俺が絶対、あの先生をなんとかするから」

「蒼真……」

 苺花と目が合う。相変わらず表情は変わらない。大丈夫なんて確信はない。むしろ焦っている。でも、言葉に出すことで、少し安心した気分になるのは事実だ。大丈夫ではない。でも、大丈夫にする。そう強く決心しながら、俺は苺花の頭を撫でた。

「だから今日はもう寝な。そんな顔してたら俺の方が心配になっちゃうぞ」

「うん。でも……」

「大丈夫だから。絶対に」

「……」

 それでも苺花が元気になることはなかった。終始浮かない表情のまま、おやすみと言って部屋を出ていく。このままじゃいけない。時間は迫ってきている。明日、なんとかしないと。

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