第8話 ありのままで

「おはよ」

「おはようなのです」

 そう言うと愛梨はスタスタと洗面所の方へ行ってしまった。いつもなら朝一番に何か話しかけてくるのに、今日は違う。昨日のことがあるから、顔を合わせづらいのかもしれない。

「はい。お醤油」

「ありがとうなのです!」

 そう苺花に元気よく返事をする。別にいつも通りの愛梨だ。顔を合わせづらいなんて、俺の勘違いだったのか。

「蒼真。はいなのです」

「あ、ああ」

 愛梨から醤油を受け取る。なんだよ。いつもなら「愛梨にお任せなのです!」なんて言ってかけてくれるのに。

「ぷっ」

 そんな俺を見て、柚葉が口元を押さえ笑いをこらえている。え、そんなおかしいことあったか? 俺、何もしてないよな?

 その後もテレビを見ている時、昼食を食べている時、トランプで遊んでいる時、なんだか味気ないような感覚に陥った。それもこれも、愛梨が隣にいないからだ。なんだか今日はずっと苺花にべったりで、見ていて微笑ましいけどなんだか、ちょっと……。

「寂しい……」

「お風呂出たよー」

 すると、苺花がバスタオルを首に掛けながらリビングへと入ってきた。頬が少しほてっている。苺柄のパジャマがいかにも苺花って感じだ。

「もうこんな時間か」

「愛梨入るのです!」

「……?」

 昨日までは「先にどうぞなのです!」なんて言って俺に譲ってくれたのに。てっきり最後に入るのが好きなんだと思っていたけどそうじゃなかったのか。え、もしかして俺……。

「ぷぷぷ、完全に愛梨に嫌われたわね」

 まるで俺の心でも読んだかのように放たれた柚葉の言葉。そんなはずはない。俺の中のもう一人の自分がそう言っている。

「まさか、そんなわけ――」

「ロック、かけられてたわよ」

「ええ!」

 俺が来てからというもの、みんな警戒してお風呂に鍵をかけていたのだが、愛梨だけは違った。お風呂だけに関わらず、愛梨だけは俺の事、信頼してくれていると思っていたのに……。

「俺……嫌われ……」

 ショック。いや別に、愛梨にあらぬ感情を抱いていたわけではないけどさ。こうしてもう俺に興味が無くなったと思うと、悲しい。悲しくて涙が出そうになる。

「カブ……大丈夫……?」

「ああ……もうほっといれくれ。シクシク……」

「キモ」

 その言葉、聞き逃してないからね。ちゃんと耳に入って来たからね。やめて、柚葉。俺のメンタルが崩壊しそうだから。

 それからお風呂が空くまで、俺はその場から動くことができなかった。床に体育座りをして丸まって、気づけばみんな自室へと籠ってしまっていた。ようやく明日から学校へ行けるっていうのに。こんな気持ちで新学期を迎えないといけないなんて。って、なんで俺こんなに落ち込んでいるんだ。もうカッターナイフを向けられずに済むから、嬉しいことじゃないか。もしあのまま愛梨を放っておいたら、もしかしたら俺殺されてたかもしれないんだぞ。

「蒼真? です」

「愛梨……」

 振り向くと、愛梨が頭にバスタオルをかけ俺の後ろに立っていた。カールのかかった髪はストレートにまとまっており、キョトンとした顔をしている。

「どうかしたのです?」

「……」

 嫌われたのがショックなんて、そんなこと言ったらまた大惨事を起こすに決まっているだろう。いや、一度嫌った人間をまた好きになるなんて、そんなことあるわけないか。

「俺はもうここには居場所がないんだ」

「え……」

「俺はもう一人になったんだ。愛梨、もう寝な」

「……」

 これでいいんだ。こうなることは分かっていたさ。だって俺、パンツを盗んだ変態なんだから。

「……愛梨がいるですよ」

「え?」

「だから、愛梨がいるのです」

 ……聞き間違い、じゃないよな。今の言葉は本当か? 俺、愛梨に嫌われてるんだよな? だったら、愛梨はそんなこと、俺に言うはずがない。

「愛梨はいつでも、蒼真の味方なのです」

「え……俺の事……嫌いなんじゃ……」

「いつ愛梨がそんなこと言ったのです?」

「……」

 聞き間違いじゃない。ほっぺをつねってみる。うん、夢でもない。なんだ。なんだよ……。

「確かに、男ならだれでもいいと思って近づいたです。なので、今度は男から近づいてくるようなエレガントな女に――」

「あ、あ、愛梨ぃぃぃぃぃぃぃぃ」

 俺は思わず愛梨に抱き着いた。本当に愛梨はいい子だ。俺の事なんかもう相手にされないと思っていた。見直したぞ。やっぱり俺には愛梨しかいない。

「ちょ、やめろです! 抱きつくなです!」

「俺一生愛梨についてくから! 俺絶対、愛梨のこと嫌いになんかならないからなぁぁ!!」

「離れてですっ。愛梨はもうむやみに男の子とベタベタしないって決めたのですっ」

「それでも俺は愛梨を抱きしめたいんだよぅぅ」

「……もうっ、やっぱり蒼真なんか嫌いなのですーーーーー!!」

 

   ◆◆◆


「いってきます!」

「じゃあね、変態」

「いってきますのです~」

 三人が元気よく寮を飛び出した。昨晩、愛梨の悲鳴を聞いた苺花たちはすぐにリビングへとやってきて、泣きつく俺を引きはがしたのだが。その時柚葉にこんな言葉を言われた。

「次愛梨に変なことしたら、警察呼ぶから」

 これで何も問題を起こせなくなった。いや、問題を起こしたつもりはないし、これから何かをするつもりというわけでもないけど。あーあ。また誰からも好かれない変態になってしまった。一カ月前に逆戻りだ。

「あれ、桃音学校は?」

 彼女だけまだパジャマの状態で、ソファに座りながら優雅にテレビを見ている。三人はとっくに寮を出て行ってしまった。早くしないとおいて行かれちまうぞ。

「今日は……午後からなの……」

 そう言うと桃音はリビングでのんきにアニメを見始めた。そういえば、桃音が四人の中で最年少だったよな。三人と時間割が少し違うのか。でも、午後からなんて珍しい気もする。

「そっか」

 少し不思議に思ったが、それ以上気にすることはなかった。なんてたって今日から俺も高校へ通い始めることができるからだ。春休みも含めれば約一か月半ぶりの学校。なんだか今日までとても長かったな。クラスメイト、優しい子ばかりだといいな。といっても、教育学科は二クラスしかないのでほとんど変わらないメンバーだと思うが。ま、午後に小学校へ挨拶しに行かないといけないから、今日は職員室に教科書やらなにやらを取りに行くだけなんだけど。

「じゃあ、俺もそろそろ行くから。鍵だけ頼んだぞ」

「分かった……」

 その言葉を聞いて、俺はすぐに制服へと着替え寮を出た。この時間に外を出るのは久しぶりだ。桜ももう全部散ってしまっている。でも、外の空気を吸うというのは、室内の空気よりも三倍は気持ちがいい。まるで小学校の入学式のように心を弾ませ、教科書も何も入っていない空っぽのバッグを肩にかけながら、俺は軽やかな足取りで久しぶりの高校へと足を運んだ。


   ◆◆◆


「よく来たな、変質者」

 高校へ来て言われた第一声はそれだった。職員室前の廊下で腕を組んで立っているいせみん。右手には、かすかに湯気の上るコーヒーカップ。朝から優雅に仕事しやがって。やけに化粧が濃いのは、仕事終わりに合コンに行くからかな。

「やめてくれ。寮以外でそのあだ名は心にくる」

「ぷっ。小学生にそんな呼ばれ方をしているとは。ぷぷぷ」

「うるせぇよ」

 口元に手を当て、俺のことをあざ笑うかのように見てくるその目が腹立たしい。一発ぶん殴ってやろうか。そもそも俺は冤罪を吹っ掛けられたようなもんだし。

「それより教科書」

「ああ、向こうの部屋にまとめてあるから勝手に持っていけ。私は職員会議があるから――」

「はぁ!?」

 そんな適当な。俺が呼び止めるより先に、いせみんは職員室の中へと戻って行ってしまった。仕方なく、俺は彼女が指さした放送室の扉を開ける。そこには、積み上げられた教科書と数枚のプリント。それを持ってきた空っぽのバッグの中へと詰め込んでいく。

「重い……」

 去年より教科書が三冊も増えている。もうチャックが壊れそうだ。

「視察ついでに届けてくれよ」

 ほんと、優しくないなあ。ビールの箱の様に重たくなったバッグを肩にかける。俺は行きとは裏腹に、重たい足取りで教室を出た。

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