第48話「愛するひと」

 私はやっと、正面からフレデリック様を見た。


 あの少年の面影をそこに探してみるが、探すまでもなかった。アイスブルーの瞳に金色の髪。天使のような顔立ち――。

 すべてが重なる。


「せ、背中の火傷は……」


 私がかすれた声で問いかけると、フレデリック様は苦笑しながら袖口を捲った。


「背中だけじゃない。薄くはなったけれど、あちこちにある」


 フレデリック様の腕には鉄の棒を当てたような細く筋になった火傷の痕があり、古傷とわかる程度には薄く光っていた。


「全部、母につけられた傷痕だ」

「えっ?」

「母は僕が妖精だと信じていたから」


 ダヴは自分を妖精だと言っていた。

 私が呆然としていると、フレデリック様は腕の古傷を隠しながらつぶやく。


取り替え子チェンジリング。母は自分の子が妖精に取り替えられたと思い込んでいた。幼い頃の僕は本当に体が弱くて今にも死んでしまいそうな赤ん坊だったそうだから、完璧主義の母はそんなにも弱々しい子供が自分の子だなんて信じたくなかったんだ。ずっと、自分の本当の子は妖精に攫われたって言い張っていたよ」


 妖精は健康で美しい人間の赤ん坊を攫い、弱く醜い妖精の子や子供に見せかけたトネリコの幹などとすり替えてしまうという。本物の子供は妖精の国で暮らしているのだと。


 そこから、フレデリック様はどこか自嘲気味に語った。


「母は妖精から子供を取り戻すためにありとあらゆることをした。オーブンの上に子供ぼくを載せたり、火掻き棒を当てたり――妖精ニセモノが参って本当の子供を返すように叫びながら。取り替え子ならこれで逃げ出すし、僕が本物の神様のくださりものなら傷つくまいってね。極めつけに、僕を雪の中に置き去りにした」


 少しくらい体が弱かったとしてもちゃんと育ったのだ。〈鳩〉はあの時すでに赤ん坊ではなかったのだから、フレデリック様が取り替え子でないことくらい誰にだってわかる。それを母親は認めなかったと。


「僕がもし本当に妖精なら、さっさと妖精の国に帰ったよ。それができない僕はただの人間だった。ミセス・ブレアのような心ある人は僕を庇ってくれたけれど、母は妄執に取りつかれていて、僕がいくつになっても目が覚めない。結局、僕と母を引き離すことでしか解決できなかった。僕は家に戻されてから一度も生きた母とは会わなかったよ。父は目を閉じ、耳を塞いでやり過ごして、最後には僕に詫びながら逝った」


 これは、不仲というひと言で片づけられる問題ではない。

 フレデリック様は恨んではいないと言ったけれど、それは本心からだっただろうか。


「恐ろしい形相で僕を折檻する母と、顔を背けるばかりの父が好きなはずもなかった。置き去りにされた雪の中で僕は、ただ歩いていた。それは助かりたかったからじゃない。少しでも僕を取り巻くすべてから遠ざかりたかっただけだ」


 静かな、淡々とした語りは、感情を凍らせているように聞こえた。

 そう、あの時の少年ダヴのように。


「僕を置いて、母と従者がまっさらな雪を馬の足で汚しながら去っていくのをしばらく眺めていて、それから僕も背を向けて歩き始めた。吹雪になっていたら僕は死んでいただろうね。でも、死ぬならそれでもいいと思った。身を切るような寒さの中、星がとても綺麗だったことを覚えているよ」


 子供が、死んでもいいと考えてしまうほど絶望していた。

 私の父に助けられた時、彼の手は氷のように冷たかったけれど、それ以上に冷えていたのは心だったのかもしれない。


 その心中を思うと、今さらだというのに私の心も痛み出し、涙が溢れそうになる。


「痛いと叫べば、ついに正体を現したと言ってさらに折檻される……僕は、子供の頃に自分の痛みを訴えることをやめたんだ。感情を殺すことに慣れた僕をもとに戻してくれたのは、ロビンなんだ。自由に振舞うあなたといて、僕はやっと血の通った人間になれた」


 あの頃の私は、深く物を考えない子供だった。

 私は気の赴くまま、目の前の子供と仲良くしたくなった。

 難しいことは置き去りに、一緒にいて楽しいと思っていた。

 それでも、彼の心は安らいでくれたのだろうか。救いになれていたのだろうか。


「ロビンのお父さんが亡くなったと知ったのは、それから二年ほどしてからだった。あの時僕を迎えに来たのは、今は亡きミセス・ブレアの夫だよ。ミスター・ブレアは僕の代わりにあなたたちのことを気にしてくれていた。あなたたちが引っ越すのだと知って、そっと僕に事情を教えてくれた。行き先も調べて、とても助けてくれたんだ」


 ブレア氏もまた、フレデリック様の現状に心を痛めていたうちの一人だったのだ。

 それでも、フレデリック様を連れて戻るしかなかった。だから、フレデリック様のためにできることを探したのだろう。


 ずっと命綱のようにして握り締めていたカーテンが私の手から滑り落ちた。カーテンの裾はふわりと広がり、落ち着く。


 この時、フレデリック様は私以上に緊張していたのかもしれない。だからこそ、私はその強張った顔をじっと見つめた。


「……フレデリック様は、私に満開のヒースを見せるという約束を果たしたかったのですか?」


 子供同士の約束だ。

 そんなものは守れなくて当然だろう。


「ヒースはついでだよ」


 と、フレデリック様はつぶやいて目を閉じた。


「あなたをうちに呼んで、ナンシーが来てくれる一年が僕にとっても勝負だったんだ」

「どうしてですか?」

「一年したらロビンの生徒がいなくなる。そうしたら、僕が次の生徒を用意してもあなたは僕のもとを去るかもしれない。だから、秋が来る前に、ヒースが満開に咲く頃に、あなたには屋敷に残りたいと思ってもらわなくてはならなかった。僕は、とにかく必死だったんだ。どうしたらロビンが喜ぶだろう、どうしたらロビンに好かれることができるだろう――そんなことばかり考えていた」


 それなら、フレデリック様の行動は正しかったと言える。

 私はこの人のそばにいたいと思うようになっていたのだから。あの時までは。


「ミセス・ブレアには度々釘を刺されたよ。僕は十年以上もロビンに会わずにいて、ロビンのことを美化しているって。いざ会ってみて、僕が作り上げた理想に現実のロビンが届かなくて勝手に失望するだけかもしれないから、期待しすぎるのはやめた方がいいって。……でも、僕はロビンに失望したことはない。――あの、結婚するという話を鵜呑みにした時を別にしたらだけれど。再会して言葉を交わして、子供の頃以上にどんどんロビンのことを好きになった」


 最初から、フレデリック様は私を知っていて迎え入れた。

 思い起こしてみると、フレデリック様はよく私に微笑みかけていて、とても嬉しそうにしてくれていた。

 急に名前で呼んでほしいと言ってみたり、そのくせ、本当に呼ぶと赤面したり――。


 上等な部屋も、馬も、絶景も、共有した時間も、何もかもがフレデリック様の心によるところだった。

 だとするのなら、私が行き先も告げずに消えた時、フレデリック様は本当に苦しんだのかもしれない。


「ロビン」


 フレデリック様が改めて私の名前を呼ぶ。

 いつも私の名前を呼ぶ時、フレデリック様はどんな気分だったのだろう。


「本当は、満開のヒースに助けてほしかったんだ。これを言うのに、僕だけではとても自信がなくて――」


 美しい花が咲き乱れる場所で、フレデリック様が私に告げたかったことがあるのだとしたら。綺麗な花がなくてもいい、小さな学校の慎ましい教室でだって、どこでもいい。今すぐに聞きたいと思った。

 フレデリック様は一度呼吸を整えると、私を見据えて口を開く。


「これからも僕のところにいてほしい。ただ、ガヴァネスとしてあなたを雇うことはもうしない。僕の伴侶としてそばにいてほしいんだ」

「私はただのガヴァネス――いえ、今は学校の教員でしかありませんけれど」

「僕は〈鳩〉と名乗った時から決めていたんだ。結婚するならロビンだけだって」


 私が目を瞬かせると、フレデリック様は目の縁をほんのりと赤く染め、微笑んだ。


「〈駒鳥のお葬式〉だ。駒鳥を愛しているのは鳩だから、僕は鳩でいいと思ったんだ」


 マザーグースの駒鳥のお葬式。


 ――誰が駒鳥を殺したの? それは私と雀が言った。

 ――誰が喪主に立つか。それは私と鳩が言った。

   愛するひとを悼んでいる。私が立とう。喪主に立とう。


「葬式なんて縁起でもないけれど。もちろんそこへ行きつくまでにはいろんなことがあって、気が遠くなるくらいの時間を一緒に過ごした後のことであってほしい。もちろん、僕の方が先に逝く可能性だってある。でも……死がふたりを分かつまで、これから僕の妻でいてほしい」


 フレデリック様が一歩進む。私はもう逃げなかった。

 もう一度この人を信じたい。二度と抱かないつもりだった想いが蘇る。

 愚かかもしれない。それでも。


 私が差し出した手を、フレデリック様が取る。


「あの、私にも仕事があって、急には無理です」


 戸惑いながら言うと、フレデリック様は私の手を少し強めに握り、なんとも言えずほっとしたような顔をした。


「ロビンのそういうところは嫌いじゃないけれど、今は別のことを言ってほしかったかな」

「別の……」


 つぶやきながらも、心臓が激しく音を立てていた。


 この時ふと、私がフレデリック様の予想のつかない行動に出た時、フレデリック様はどうするのだろうと考えた。

 その瞬間を見てみたい。


 呼吸を整え、私はもう片方の手でフレデリック様の手を包み込んだ。

 そして――。


「フレデリック様、私はあなたのもとで過ごすようになって、あなたに惹かれていきました。この気持ちを、もっと早くに勇気を出してお伝えしたらよかったのですね。これからどうか末永くお願い致します」


 精一杯の笑顔を向けた。

 少しもいい服ではなくて、髪型だっていつもと変わりなくて、特別なところは何もない。


 それでも、フレデリック様は私がこれを言うなり顔を赤くした。


「うん……」


 僅かに目を潤ませて赤面する姿は小さな少年のようで、思わず抱き締めたくなるほど愛しい。

 この人に寄りかかって、また与えられるもので生きていく決意をしたわけではない。


 今度こそ、弱い自分とは決別する。

 今度は私の方がフレデリック様を支え、頼られる存在になる。

 私はその決意をしたのだ。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

Who'll be chief mourner?

I, said the Dove,

I mourn for my love,

I'll be chief mourner.


誰が立つか 喪主に立つか

それは私 と鳩が言った

愛するひとを 悼んでいる

私が立とうよ 喪主に立とうよ (Wikipediaより抜粋)

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