助骨42m
のーと
きわきわ
さっきまで天上を這っていたものが今日は死ぬ日だった。
いやうちには今テレビも人工知能もないもんだからすっかり忘れていたよ。今更思い出したところで半径三百メートルからはもう逃げられない。僕らは徒歩だし、50メートル走の最高タイムは9.33くらいだし。
ぼんやり空を眺めていると漆黒の一歩手前程度の闇から大きな鱗たちが覗く。低く漂う雲と同じような高さから溶け出すように現れた。生で見るのは初めてだから少しだけ気分が高揚している。我ながら脳天気なことだ。
魚が横に倒れているのを真下から眺めているみたいだった。それは月の光すら反射せずにただ、空を飛ぶ機械たちに一枚づつ剥がされていく。しばらく空を眺めているとさっきまで鱗が照っていたところはだんだんピンク色に変わっていった。鱗は順調に剥がされていっているらしい。
白い筋はぼんやりとした暗い灰色の中懸命に光をかき集めているからはっきり視認できた。
筋肉か、贅肉か、脂身かは定かではないし、どうでもいいけれど。待っているには長いくらいの、目を離すには短い程度のそんな時間が経つ頃にはすっかり骸骨が出来上がっていた。着ていた肉は綺麗に剥がされたようだ。
鈍い白の骨格らしきものが風に流されず唯一夜空に停滞している。
もうそろそろか、と顔を見合せて彼女の手を強く握る。
彼女と数回言葉を交わして、採血の注射針が狙いを定めているときみたいな心地の悪い時間が流れた。
「あ。」
彼女の横顔を眺めていた時、星が見えない上に、骸のせいで圧迫感さえある、なんとも息苦しい空を見上げていた彼女が息を漏らす。
つられて見上げると巨大な骸骨が浮力を失って落下を始めていた。大きなものから順にこちらに迫り来る。避難勧告はだいぶ切羽詰まった今頃やっと鳴り響いた。
耳を劈く警報にも意識を割けないほど近づいてくるソレから目が離せなくなった。視線を逃せなくなる。もう余白から夜空が見えることもない。
助骨の隙間とか上手いことすり抜けられないかな。骨にさえぎられてできた影の下、そうやって考えた。
人は、あまりに大きいものに対して恐怖を感じることができない。
例えば、指数関数を直感的に理解できないように。それが今の所の人の脳みその限界なんだろうか。
ただ迫り来るオフホワイトの硬そうな、でも人骨ときっと同じようにカルシウム的な何かでできているそれを見て僕はもう一つの考えに辿り着いた。
あまりに強大な存在に実感が湧かないのは、救済措置なんじゃないか、と。
脳みそは地球上でも類を見ないくらいに発展している我々だが、一方、肉体はだいぶ貧弱だった。
だから、実感が湧いてしまう、その数秒前まで理解できないという逃げの選択肢を与えてくれたのではないか。
少なくとも今僕はそんな賢い脳みそ様のおかげでたいして恐怖を感じていない。どうしようもないという諦めこそあれど、そこに絶望はなかった。
例えば、あなたが両手を広げたその三倍以上の大きさの舌ベロが私たちの前に現れて今まさに飲み込まれようという時、私たちは鋭利な歯の切先がこちらに向くまで楽観しているかもしれない。あるいは傍観、観察。肌に突き刺さるという私たちのスケールにまで物事が迫って初めて恐ろしくてたまらなくなるのだ。
でも、そんな脳みその防衛機構も、もう死ぬ、とわかってからの考察にしてはだいぶ冷めているそれも、今しがた打ち切られた。
切先はほとんど僕の首に突きつけられているように。死はまだ実感できないけど、自分の首の骨がきっとおられることはもうわかった。
そこで本能は久しぶりに僕の体の指揮権を取り戻した。
繋いでいた君の柔い手を引いた。
キスのために体を引き寄せるように強く、素早く、けとられぬように、でもうっかりバレてしまうように。
君を僕の立っていた場所へ。僕は君の足跡の上に。
それに気づいた君は笑った。
朗らかに笑った。
目を開けた時僕より背丈があった君は子供より低くなって地面に伏していた。
まさに、ぺしゃんこ。
この前、ちょっと贅沢しようかと言って食べに行ったいちごパフェ。皮肉にも君の死骸はそれがフローリングに落下して弾けた様に似ている。
手だけはまだ僕と繋がっていた。まぁでも肘から先には君はいない。
他人の骸の下で永遠の眠りについたらしい。
冬の始め、空気はよく澄んでいる。
冷たい風は君の断面に染みるだろう。痛いだろう。
日記を書いている今ごろ、君が僕のせいで死んだんだということが現実味を帯びてきてペンを持つ手は震えが止まらない。
いや、たまたま。思考が止まっているうちに。
そう言い訳をすれば君は僕になんと返すだろう
『きっとそれはあなたの防衛本能ね。』
記憶で構成された妄想の中、白衣を翻し分厚い本を閉じながら君は振り返った。
吐き気がした。
助骨42m のーと @rakutya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます