第7話 この町の女性
アザレアの花言葉は、あなたに愛されて幸せ。花言葉が皮肉に思えるほど、ゼレナーデは彼女のことを見ておらず、心から愛しているようにも見えなかった。クラスペディアへの恋に破れた際、丁度見合い話でも舞い込んできたのだろう。この町ではよくある話だ。きっと他の男と結ばれてしまったクラスペディアのことを忘れるために、ゼレナーデはアザレアと結婚したのだ。
それでもゼレナーデを健気に愛するアザレアに、イベリスは惹かれていった。自分と十四も歳の差があったが、そんなことは気にならなかった。
子どもの頃から優秀であるのにやんちゃをして刺激を求める質であったこと、そして年上の女性が好みであったことが影響し、イベリスはすぐにアザレアのことしか見えなくなった。
ゼレナーデにいつになっても振り向いてもらえない寂しさからアザレアもまた、彼女だけを求め続けるイベリスに身も心も許した。
「いっそこのまま二人でこの町を出る?」
「イベリス?」
咎めるようなまなざしに、イベリスは肩を竦めてみせた。
「なーんて、言わないよ。あなたがゼレナーデさんを愛していることは知っているし、僕も人様の女性を連れてどこかへ逃げるような危険を冒すほど馬鹿じゃない。愛するあなたとこうして密かに会う刺激がたまらないわけだし」
そう飄々と言ってのける口調とは裏腹に、イベリスはアザレアを強く抱きすくめた。
「そうだけど、それ以前に私はこの町から出ることが出来ないわ」
この小さな町には、女性は町を出てはいけないという慣習がある。というのも、閉鎖的なこの町の人間には、人口を一定に保ちたいという思いがあるからだ。それなりに栄えている今の町が過疎化しない為にも、子を産む女性を町の外へ出したくなかったのだ。そんな窮屈な慣習があるのはこの小国でこの町だけだったが。
だから、まだ十六やそこらの娘が町外に夢や希望を持つ前に、見合いをさせ子どもを産ませるのが一般的だった。
この慣習に何の疑問も持たずに結婚し、子を産み、育児をするのがこの町の女性の当たり前に歩む人生で、アザレアもその当たり前に一度だって疑問を抱いたことはなかった。そういうものとして受け入れてきたのだ。
「そうだったね、失念していたよ」
しかしイベリスにとって、それは当たり前のことではなかった。彼が男性だということも理由の一つだろうが、一番は彼の母親が多国出身というのが大きい。クラスペディアは演劇が盛んな海を越えたフリーデン王国で生まれ育った女性だ。
当時役者をしていたゼレナーデや脚本家であるデルフィニウムに出会ったのも、彼女の故郷で一番名のあるエクスターゼ劇団だ。デルフィニウムと結婚し彼が病に罹ったのをきっかけに彼女は彼の劇団を去ったが、エクスターゼ劇団を退団した今も隣国で新しい劇団を立ち上げ、今も活躍している現役役者だ。
そんな革新的な母親を持つイベリスにとって、この町の閉鎖的な規則はつまらないもののように思えた。しかし、そのつまらないものがアザレアにとっては人生の基盤となっていることも理解していた。
「けど、あの慣習は暗黙だろう?。それなのに、あなたはこの町を出てみようと思ったことはなかったの?」
「ええ。考えたこともないわ。だって私にとってはそれが辺り前だったんだもの。それに町を出ようと考えるのは恥だと教えられて育ったから」
「ふうん」
好奇心旺盛な女性や、この町の在り方に反発する女性がいなかったわけではないだろうに、とイベリスは思った。疑問が顔に出ていたのか、アザレアはイベリスのそんな表情を見て苦笑する。
「それに男性は必要であればいつでも船に乗ることが出来るけれど、女性は一人前とみなされる十六になっても乗船しようとすれば殴られて無理やりにでも町に連れ戻されると聞くわ」
それが何を意味するのか、イベリスにも何となく想像はついた。町を出ようとした女性は、その後死ぬまで町の人間から後ろ指を指される人生が待っているのだろう。それが恐ろしくて、町の外へ出たいと望む女性たちであっても自らこの町に留まることを選んでいるのだ。
「そろそろ行くよ。ゼレナーデさんも今日は会場にいるし、そう長居は出来ない」
背中に回されていた腕を名残惜しそうに解くと、イベリスは体を離して部屋の扉へと向かう。
「あ、そうだ。僕に会いに来てほしい時眩暈と言って会場を離れるの、やめた方がいいかもしれないね」
「あら、名案だと思ったのだけれど」
アザレアが体調の悪い自分を見られるのが嫌いだということは、この小さな町で暮らす者なら誰でも知っている。だからこそ、こうして密やかに会うことも叶うのだ。
「メリアは聡い子だからね。気をつけないと僕たちの関係に気がついてしまうよ?」
「そう…わかったわ。また新しく別の合言葉を考えましょう」
夫が居ながら娘の友人と肉体関係を持っていることに罪悪感はあるようだが、アザレアがこの関係を止めようと切り出したことは一度もない。それだけ彼女がゼレナーデとの結婚生活の中で寂しさを味わってきたということなのかもしれない。
そんなアザレアの不憫さも、イベリスにとっては堪らなく愛おしく思えた。年上の女性が寂しさ故に自分を求める。そしていつしか、夫がいながら自分がいなくては生きていけないほど堕ちていく彼女を想像するだけでゾクゾクした。
「まあエリンは僕らの関係に気がついているようだけど…言わないだろうね、メリアのために」
そう小さな声で呟いたイベリスの言葉をアザレアは聞き取ることが出来ず、はだけたドレスの胸元を直しながら首を傾げるのだった。
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