第一章 居場所のない故郷

第2話 アルストロメリア

 羊のようなふわりとした雲が点在する青空。そんな優しい空模様を、眼前に広がる美しい湖が映している。それはまるで嬉々として走り回る子ども達を、母親が見守っているような風景だった。

 この小さな町の娯楽と言えば名産のお菓子、それとこの湖畔へ遊びに来ることくらいだった。幼いアルストロメリアも例に違わず退屈凌ぎにこの湖畔へ遊びに来ていた。右手は父親のゼレナーデと、左手は母親のアザレアと繋いで。

 アルストロメリアはみんなからメリアという愛称で呼ばれていた。彼女の父親であるゼレナーデは静謐な雰囲気を纏う寡黙な男で、かつてはかの有名なエクスターゼ劇団で舞台役者をしていたが今は舞台制作の仕事をしている。母親であるアザレアは素朴な美しさを持つ女性で、他の母親たちに比べてとても若かった。いつもゼレナーデの数歩後ろで品よく佇んでいるような、控えめな印象があった。

 珍しく両親揃って出かけられることに、メリアはいつもよりもはしゃいでいた。両親の間で小さな子羊のようにぴょんぴょんと跳ねている。

 アザレア特製のお菓子を沢山入れたバスケットの蓋をちょっぴり開けると、中からお砂糖のいい香りがした。



「メリア、おやつの時間にはまだ早い。あそこにいるみんなと遊んできたらどうだ?」



父親の指さした方を見れば、自分たちと同じように家族で湖畔に遊びに来ている家族がいた。その中には、お隣に住んでいるリュフトヒェンさんもいる。



「そうする」


「きちんとご挨拶するのよ?」


「はい、お母様」



 素晴らしい反転世界を映す湖が一望できる見晴らしのいい場所に両親が腰を据えるのを見届けてから、メリアは白いドレスの裾を少しだけ持ち上げてリュフトヒェン一家の元へと走って行く。

 家長である脚本家のデルフィニウムが病に罹ったのを機に、フリーデン王国から彼の故郷であるこの町に越してきた。デルフィニウムが亡くなってからは、妻であるクラスペディアが二人の子どもを一人で育てている。

この町で片親なのはリュフトヒェン一家だけだった。クラスペディアは離れた隣国で舞台役者をしていて家を留守にしていることが多いため、リュフトヒェン兄弟はミドルスクールに上がった頃あたりから「可哀想なリュフトヒェン」と揶揄を込めて呼ばれるようになっていた。

 この小さな町では娯楽が少ないために、他と違う者は、噂や悪口の格好の餌食となった。ありもしない噂を立てられ、馬鹿にされ、笑いものにされる。しかしからっとした性格のクラスペディアは、町民の態度を特に気にした様子はなかった。舞台役者としての彼女を尊敬しデルフィニウムが死ぬ前と何ら変わりなく接してくれる者たちだけと交流をしていた。

 リュフトヒェン一家と交流している者の中に、ツェーゲルン一家もいた。クラスペディアとゼレナーデ、それから没したデルフィニウムは若い頃から同じ志の元で演劇の世界に身を置いていたため仲が良く、それぞれが結婚した後も家族ぐるみで仲良くしていた。子どもの年齢も近いことから、子ども達同士もよく一緒に遊ばせようとしていた。



「ごきげんよう、リュフトヒェンさん」


「メリアじゃない、こんにちは。おーいイベリス、メリアにちゃんと挨拶して」



少し小高い丘になっている場所で絵を描いている少年少女たち。その中でもひと際目鼻立ちの整った少年がこちらを振り返る。メリアの顔を見るなり、笑顔を浮かべそこから駆け下りて、あっという間に彼女の前へやって来た。



「やあメリア、今日もお花の様で可愛らしいね」



彼はリュフトヒェンの長男、イベリス。メリアの小さな白い手を取ると、彼はその甲にそっとキスを落とす。



「こ、こんにちはイベリス」



頬を真っ赤に染めるメリアは、すぐに手を背中の後ろへ引っ込めてしまう。美しいブロンドの短髪に碧眼の少年イベリスは、メリアの憧れの人だった。



「そうだ、君も一緒に絵を描くかい?」



急なお誘いに戸惑いイベリスの顔をまっすぐに見ることが出来ないメリアはブロンドの巻き毛を指に絡め、斜め下へ視線を逸らしながらやっとの思いで答える。



「い、いいえ、私は大丈夫。その…あんまり絵が得意じゃないの」


「そう、じゃあまたね」



誘いを断られても気を悪くせず明るい笑顔で手を振る彼に見惚れていると、「あれ?」と疑問符たっぷりの声が頭上から降って来た。



「どうされたんですか」


「うん、エリンジウムがいなくてね」



エリンジウムとはイベリスの妹のことだ。彼女もまたエリンと愛称で呼ばれていたが、その名を呼ぶ者は少ない。と言うのも、気味悪がられ人々に避けられていたために、彼女を呼びとめる人があまりいなかったのだ。

 メリアもこれまでエリンとはあまり接点がなく話したことがなかったので、イベリスと顔立ちが似ていることは知っていてもどのような子であるのかまでは知らなかった。



「いたらお母様が探していたと伝えておきますね」


「ありがとう、助かるよ。あの子すぐ一人でどっか行っちゃうから」



クラスペディアに見送られ、メリアは丘の上で絵を描くイベリスをちょっぴり盗み見てから湖畔の近くへと向かう。

 湖の全貌を見渡すために、ここへ訪れる人は少し湖から離れた場所でお茶を楽しんでいる。人が沢山いる場所が苦手なのか静かな場所にいつもいる印象があるエリンを探すために、人々の賑わいが遠くに聞こえる湖畔近くを散策することにしたのだ。

 エリンはとても目立つ容姿をしていた。この町では見かけない珍しい青みがかった銀髪は、海を越えた他国出身のクラスペディア譲りのものなのだろう。イベリスは母親と同じ碧眼をしていたが、エリンは父親に似て瞳の色は夜空そのものだった。

 十分近く探し回ってもそんなエリンの姿は見当たらず、飽きてきたメリアの意識は直ぐ傍の湖面に向いた。

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