Parfect days

 ルーリードの声が東京の街並みにこんなに合うなんて知らなかった。


 最後のシーンすごかったな。でも「すごかったな」というレビューで想像されうるものとは程遠いシーンだ。

 役所広司の無言の演技に始終引き込まれた。もともとそういう芝居が上手い印象はあったが、何か境地に達していたのでは。


 好き嫌いは分かれるだろう作品。好き側だった。


 東京の街並みの映像がどれもこれも良かった。普段見ているものと何ら変わりないまま作品になっていた。

 美化せずに美を見出している、ということなのかもしれない。


 最初の一日分の場面だけで、毎日これが繰り返されているとわからせるのがすごい。そしてこれがパーフェクトデイズなのだと納得できる。本人が満足しているからというだけではなく、本当に完璧なのだ。

 そういう繰り返しで物語が始まる場合、展開としてはそれが変化するのがお決まりのはずだが、終わるわけでも広がるわけでも何かを成し遂げるわけでもなく、ただブレのような変化を含んで続き、けれども確かに何かが変わったというような終わりだと思った。

 そしてまたこの日々が続いていく、という余韻が物語の終わり方として最も好きだ。


 空を見上げる。音楽を聴く。植物を育てる。本を読む。道を掃く音で目覚める。適度な飲酒をする。木漏れ日に気がつく。写真を撮る。行きつけの飲み屋を持つ。神社にお参りする。仕事をする。習慣を持つ。

 生き方の指針か。

 人によって、人生の置かれる状況によって、どこが響くか全く違うだろう。

 自分で感じる、ということの大切さを私は考えていた。受け身で生きない。自分が良いと思うもの、心地よいと思うもの、それらを自ら選ぶ。感じに行く。


 平山の過去はなんとなくほのめかされるものはあるが、「いろいろあったんだな」とただ思わせるのみ。日々とはそういうものだと思う。

 実際には衝撃の過去なんてものはほとんどの場合なく、みんなただいろいろあってここまで来ているのだ。けどその“いろいろあって”感も特に強調されるものではない。すべてはこちらがなんとなく察するのみ。


 The Velvet UndergroundやOtis ReddingやPatti Smithを聴く肉体労働者も文庫本を読むことを日課とする肉体労働者もいません。

 あの人たちは軽のワゴンの前に箱ティッシュ置いて、AMラジオ聴いて、競馬か競艇行って、家に神棚があって、銭湯行って、4Lの大容量の焼酎飲んで寝てるよ。それはそれで完璧な日々だ。

 肉体労働者の現実と違う、という批判はあるだろうと思う。しかし現実をその通りに描くことが、良い作品であることと関係あるだろうか。

 ただカセットテープで古い音楽聴かされて「これ好きかも」と言うおしゃれな若い女の子はいます。それはいます。


 肉体労働者と文化的趣味、という組み合わせはどうしてか魅力的だ。


 スナックはおじさんたちの社交場。

 銭湯もおじさんたちの無言の社交場。


 行きつけの飲み屋と同じくらい行きつけの神社ってほしくない?


 石川さゆりに最初気づかなかったのだが、気づかなくても「やたらいい声のママだな」と思ったのでやっぱあの人はすごい。


 欧米人にTOKYOってどう見えているんだろうか。ブルーカラーの労働者と高所得者が同じ人種であること。

 そして見るからに低所得者向けの古い木造アパートが、エリアで分けられずに一つの町に共存しているところ。(確かに目黒や代官山と押上の下町は違うかもしれないが、海外のあるところにはある「貧民街」とか「貧しくて治安が悪いエリア」は日本にはない)

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