三月の子供たち/洸村静樹

第三十七回太宰治賞の最終候補作とのこと。


 この小説の何を引きずっているのか考えたら、これは良かったライブの余韻だ。


 2010年東北。荒浜の海岸に設営されたステージでの演奏場面から始まる。

 大学の軽音サークルで出会い、バンドを組んだカワノベとキクとリュウ。

 最初からほのめかされる、震災。


 スリーピースバンド。その構成だけで、他にはない潔い魅力がある。バンドが成り立つ最小単位。

 完璧なバンドメンバーの出会いって夢見てしまうよね。どんな実力者でも、パートが揃わないとバンドは完成しない。

 そういう出会いで起こる奇跡みたいなライブ。

 誰も望まないまま解散するしかなかったバンドの解散は解散の中で一番悲しい。


 ベーシストでありボーカリストのリュウ、彼の圧倒的な魅力と危うさと儚さ。そして主人公の音楽への切実さ。それらの喪失によって描かれる震災。というのを核として読んだ。震災によって失われた、という原因と結果とは逆に、失われたことによって震災というものが浮かび上がってくる。


 作者の記憶がたくさん盛り込まれているのであろう、サークルの些細な描写が生き生きしていて楽しい。

 防音パネルの貼られた汚い部室とか、借り物の楽器、合板でできたステージ、借りたCDの感想を話す学食、サークルに一人はいるめちゃくちゃ上手い先輩、三、四年生あたりにいる車持ってる先輩、学祭、原付、ドラムセットで裸足になること、当たり前に堅い職業へ進んでいく先輩たちの進路。

 主人公たちと一つ違いの軽音大学生だった私には、知っているものだらけだった。共感というか、同じ側だと思った。


「『オエイシスは曲と歌はいいけど、パンクだからなあ』リュウはわざとマンチェスター訛りで発音した。リュウにとってパンクとは、つまり下手という意味だ。」(P143)

 ここ、テクニックのある軽音大学生の見本みたいなこと言っててニヤニヤした。友達かと思った。oasisのことオエイシスって呼びがちなのなんでなんだ。ていうかそれ全国共通なんだ。


 こんな軽音サークルもこんな大学生も、日本中に腐るほどいる。

 私は彼らと同輩だったかもしれないし、彼らは私と同じように卒業したかもしれない。

 震災という特別な経験ではなく、あまりにも簡単に想像できる誰かの人生の中に、たまたま震災があってしまったことがつらかった。

(ただしこれは作者の意図する受け取り方ではないと思う。主人公が学生時代に出会った仲間、唯一無二の才能を持ったリュウ。彼らとともにしか到達できなかった景色。失われたのはそういうものだと思う。)


 ◇


 若干概念的というか説明的なところや、音楽とそれ以外の書き込みレベルの差、話の展開がまあ予想の範囲内だとか、選評見る限りそのへんが評価されなかったのだと思う。


「~わよ」「~なのかい?」みたいな言葉遣いや、あと会話の流れには違和感なかったわけでもない。

 その美学もわかる。わかるけどさあ。(完全にイメージだけど作者は村上春樹好きでは。)

 だって作中が2009年で、19歳の男に向かって

「逆に聞くわね、あなたたちにとって、音楽って何なのかしら?」(P146)

 なんて訊ねてくる女性が登場したら、普通に20歳くらい年上の人だと想像するじゃん。タメとは思わないじゃん。

 あと、偶然出会って話しかけた女の子に対して

「自己紹介がまだだったね」

 つって名乗ったりするだろうか。


 クオリティとは別のところで感動しちゃうのは、音楽ではよくあるんだけどな。オエイシスみたいに。別にオアシスをパンクだと言っているわけではないですが。


 ◇


 いわゆる「バンドマンの彼女」であるケイが、ヒロインでもミューズでもなく、別の一人の表現者だったことはとても良かった。この作品がきちんと評価される際には、その部分はもれなく評価されてほしい。

 ミューズ、となるものがいたとすれば、それはむしろリュウの方かもしれない。

 しかしそのリュウの不在を演奏で実感する、もっとも感情に直結する描写で「才能」という言葉は、使ってほしくなかった。それは外側から言い表すときに使う言葉だ。


 冒頭の荒浜のステージが、震災前最後の場面になる。

 読み返すたびにつらい。

 死による完成、失われることによって永遠になってしまうものがあった。

 世界の全てかのように思われた音楽が、さらに大きな事象に巻き込まれていってしまった。

「太平洋を広がっていく波紋をイメージしながら、クリアトーンでアルペジオを響かせる。」

「音楽が全景を現す。闇の中で焚いたフラッシュに映り込んでしまった大聖堂のように。」

 大きなモチーフが、その後のさらに大きな事象につながって見える。

 だからこそ、この美しい比喩を活かすためにも、ケイの写真による視覚表現と、主人公の音楽表現はもっと絡んでほしかった。それによってバンドの音楽が完成する。そして全てが失われる。

 異なる楽器が一つに絡むように、物語の要素はもっと一つのところに収束するべきだった。


「そして僕たちに約束された時間は終わる」(P177)

 ライブの持ち時間と震災前の二重の意味で書かれていることに、二度目に読んで気がつき息が詰まった(一度目はつらすぎて全速力で読んでた)。


 ◇


 自分だったら、ケイと親しくなるのはリュウだと考えると思う。

 主人公の、リュウに対する思い、ケイに対する思い、二人に対する思い。リュウの音楽に対する思い、ケイの写真に対する思い。そして、自身の音楽に対する思い。

 そういうものが区別のつかないまま主人公の中に降り積もっていく。自分が何を求めているのかはっきりとわからないまま、彼はギターを上達させることしかできない。見えてくるバンドの音楽の全景の向こうで、あと少しで全てがわかると彼はやみくもに信じている。音楽を信じている。それらは二人とともに失われ、何もわからなくなった彼だけが年齢を重ねていく。





 自分は読書も学びや教養ではなく娯楽なので、戦争や災害とか、考えさせるようなものをわざわざ読んでこなかった。

 創作物は事実をどこまで表現しきれるのか、受け手はそれをどこまで受け取れるのか、疑問というより不安がある。

 こんなひどいことがありましたと正確な事実を記録するのではなく、喪失の追体験によって人の中に残す、というのは物語の意味のひとつなのかもしれないと今回思った。

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