Risk

yokamite

OK, Computer

 人は皆、日常生活を通じて多くの選択を迫られ、潜在意識で意思決定を行っている──らしいのですよ。とある研究者の発表によれば、現代に生きる人間という存在は、一日あたり35,000回の決定を繰り返しながら暮らしを営んでいるのだとか。


 この数字を見て「予想通りだ」と言ってのけるような偏屈者はあまり居ないでしょうが、それだけ夥しい数の選択が毎日のように待ち構えているのだとしたら、皆が日常的に許容し、甘受しているリスクというのもまたあまりに膨大なものとなります。なぜなら、選択という行動には、その大小問わず、何らかの代償を伴うのが世の常だからです。


 とはいえ、多くの人々が日々の生活に潜むリスクを意識的に回避しようとしている訳ではないですよね。例えば、映画館で尿意を催した時なんかを想像してください。「上映中に席を立つことによる他人への迷惑」や「離席中に物語が佳境を迎えたら勿体ない」ということよりも、真っ先に「このまま我慢を続けて膀胱炎になったらどうしよう」というリスクを考慮に入れる人は聞いたことがありません。場面変わって、ファミレスでドリンクバーを注文した時なんかはどうでしょう。貴方がコーヒーや紅茶が好きで、そればかりを飲み続けていたとしても「カフェイン中毒になるかもしれないから水でも飲んでおこう」と考えるでしょうか。


 このように、誰もが大手を振るって歩むべき人生の道程に転がっている小石にいちいち怯えて、躓くことを恐れながら生きている訳ではなさそうです。では、ここでひとつの疑問が湧いてきますね。人間は一日に35,000回──換言すれば、一時間におよそ1,500回、一分間におよそ25回の選択に直面しているそうです。一年も経とうものなら、その数は優に一千万を超え、仮に人が百歳まで生きることとなれば、一生涯における選択の数は十億にも達しましょう。そうして止めどなく連続して決断を迫られ続ける中で、人が受容しなければならないリスクとは何なのでしょうか。


 おや、小難しい話に興じていると、貴方の後ろから誰かが手を振って歩いてきたようです。紹介しましょう。彼の名はジョン。最近、自国の政情不安と実家の経済事情により、遥か遠くの島国まで出稼ぎにきたという青年です。あまり高度なコミュニケーションは取れないのが惜しいところですが、通り一遍の日本語は網羅しています。ほら、気さくに貴方へ挨拶してくれていますよ。


 少々脱線しましたね。彼との出会いを話し始めると長くなってしまうので簡潔に纏めますと、ジョンは祖国で病床に臥せる母親と、呑んだくれていつの間にか姿を消した父親の代わりに、沢山の兄弟を養わなくてはならないそうですので、そんな家族思いの健気な青年のために、彼には今からとある実験に協力して頂きます。


 実験内容は単純明快。明日は丸一日間、ジョンの生活を密着取材させてもらいます。その中で、彼が直面することになるであろう数多の決断とリスクの取捨選択、それを第三者である貴方が代行する。謂わば、ジョンを主人公にしたシミュレーションゲームのようなものですね。ちなみに、ジョンには右手首に腕時計型の電子端末を装着してもらっています。これにより、彼の脳から発せられる微弱な電気信号──所謂脳波を測定し、彼が潜在意識の中で選択を行うタイミングを計ることができるようになっています。その際、貴方にはジョンの行動に係る意思決定を代行して頂き、その内容を電子端末に表示し、実際のジョンの行動に反映して頂きます。面白そうですか。それは良かった。


 実験は日付が変わってから、すぐに開始されます。ジョンには実験中、予めこちらで用意した寝床で朝を迎えて頂きます。寝室やリビングは勿論のこと、トイレから浴室まで、ありとあらゆる空間に死角なくカメラが設置されているためプライバシーはありませんが、謝礼はたっぷりと弾みますので悪く思わないでくださいね。それではジョン、良い夢を──。



 §



 実験体の覚醒を確認。おはようございます、ジョン。おや、早速脳波の変化を計測しました。私に挨拶を返すかどうか悩んでいるようですね。大丈夫ですよ。今日は一日、貴方の生活を監視していく中でこちら側の一方的なメッセージに返答は一切必要ありません。そうでないと、傍から見ればジョンはぶつぶつと独り言を喋る危ない人になってしまいますからね。


 まず顔を洗いますか。では、右手首の端末をできるだけ水に晒さないようご注意ください。非常に高価で繊細な精密機器ですので、故障の際は事前に取り交わした契約に従い賠償責任が発生します。ああ、露骨に不安そうな顔をしないでください。簡易的な生活防水機能はあります上、ある程度の衝撃には耐久性を発揮しますのでご安心を。


 時間がない、ですか。ああ、事前に回答して頂いたアンケート用紙によれば、貴方は日頃から午前6時半には起床し、約一時間後に出勤というルーティンを維持しているようですね。現在時刻は午前7時15分。環境の急激な変化と時差による影響から、普段通りの時間に目を覚ますことができなかったようです。さて、どうしましょうか。


 ジョン、ここで朗報です。ジョンは今日、仕事に向かう必要はありません。何故かって。それはジョンの「仕事に遅れないよう急がなければならない」という意思決定の代行者あなたが実験の一環として、ジョンは今日「仕事に向かうことを諦める」という選択をしたからです。まあそう怒らないでください。良いではありませんか。この実験が成功した暁には、ジョンの日給よりも遥かに高額な報酬をお支払いする約束ですし、働き詰めのジョンの健康状態はあまり芳しくありません。偶の休暇も悪くないでしょう。


 さあ、久々の優雅な朝を堪能しましょう。今すぐリビングに向かい、お茶を淹れている間にご飯をレンジで温めてください。いずれも棚にインスタントを用意してあります。はあ、ジョンは朝はコーヒーとパン派、しかも起き抜けには真っ先に歯を磨きたいと。しかし、今日限りは代行者の指示に素直に従ってください。さあその歯ブラシは一先ず洗面台へ置いて、まずはお湯を沸かしましょう。


 実験体のストレス値上昇を確認。奇妙ですね。こちらの用意したインスタント食品では満足いきませんでしたか。まあ良いでしょう。折角の休暇、家に引き籠っているのは勿体ないですから、外へ出かけましょう。大丈夫です。実験中に必要となった金銭は後程こちら側で全額負担致しますので。服もこちら側で用意したものに着替えて頂きますので、寝室のクローゼットまでどうぞ。



 §



 ハロウィーンが過ぎ去って一月も経たないというのに、街はクリスマスムード一色ですか。相変わらず気が早いですね。そわそわして落ち着きませんか。この季節、普段はパーカーにスウェットのみで過ごしているといいますが、代行者の選んだダウンジャケットにデニムも中々似合っていると思いますよ。実験終了後、お召し物は全て差し上げます。


 それにしても、付近に電車やバスの駅、タクシーの乗り場すらあったというのに、何故わざわざ自転車を選んだのですか。ふむ、異国の公共交通機関は勝手が分からず、安全性やダイヤグラムの正確性を信頼しきれないと。面白いですねえ。ダイヤはもとより、安全性の面で言うならば自転車の方がよっぽど交通事故の発生確率は高いでしょうが。はあ。「電車などに一度乗ってしまえば自分の力ではどうしようもないが、自転車は運転者が気を付けてさえいれば問題ないのだ」と。なるほど、そういうものでしょうか。しかしどれだけ周囲に気を配っていたとしても、例えば今、左側の車道を走っているジョンを後ろから追い越していく車がハンドル操作を誤って、自転車に向かい突っ込んできたとしたらどうでしょう。この通りは車道も狭いですし、前しか見ることのできない運転中のジョンは謂わば常に危険に晒されている状態とも──。


 ああ、そんなに急いで歩道に進路を変えたら危ないですよ。おっと、まさか私が実験に干渉してしまうことになろうとは。申し訳ありません、代行者。私は暫く口を噤むこととしましょう。ここからジョンへの道案内は、貴方に任せました。



 §



 到着したようですね。ここからは自転車を停めて、暫く歩くようです。何やら家族連れやカップルの多い繁華街へとやってきたようです。目的地なんて聞かれても、それは代行者にしか分かりませんよ。このまま指示通り、歩き続けてください。


 美しいイルミネーションですね。もっとも、今は日中なので電気は通っていませんが。このような電飾に何の意味があるのか、ですか。はて、私には難しい質問です。そうこう言っているうちに、目的地が見えてきたみたいですよ。ええ、ご明察。遊園地です。


 外国人がたったひとりでクリスマス前の遊園地に行くのは憚られますか。ですが、ここまで来てしまったからには仕方ありません。今日一日、ジョンには拒否権がありませんから。まずは受付でフリーパスを購入しましょう。


 実験体の空腹を確認。時刻はそろそろ正午を迎えようかというところ。丁度良いので先に昼食を取りましょうか。代行者も休憩をご所望です。


 時にジョン。食事をする際、必ず野菜から摂取するのには何か意味があるのでしょうか。ふむ、糖質を含む炭水化物を摂取するより先に食物繊維豊富な野菜を食べることで急激な血糖値の上昇を抑えるという、ジョンなりの健康志向があったのですね。興味深いです。


 食事も終えたことですから、そろそろ園内を巡って遊び尽くしましょう。まずは園のメインアトラクションであるジェットコースターから。あら、ジョンはジェットコースターは苦手なのですか。何故でしょう。ふむ、どれだけ安全性が確立されたアトラクションも事故が起きないとは限らないし、激しい揺れによって首を骨折する可能性すらあるのに、何らの生産性もない乗り物に乗る意義が分からないと。


 実験体の動揺を確認。仕方ないですね。では、お化け屋敷にでも行きましょうか。何ですって、お化け屋敷も嫌いだと。それはまた、どうしてですか。水を差すようで恐縮ですが、お化けなど所詮は人間が作り出した概念であり、アトラクションに登場する驚かせ要素は、ジョンの思い浮かべているようなリアリティ溢れる洋風スプラッターや史実に基づいたシリアルキラーなどではなく、土着的な和風テイストの妖怪や幽霊などです。ふむ、それでも言葉には表せない本能的な忌避感と恐怖心が拭えないと。


 それでも、このままでは実験にならないので、列へ並んでください。そうですね。例えば、ジョンが複数の友人と共に遊園地を訪れていたとします。ジョンの友人は全員が嬉々としてお化け屋敷に突入しようかというところ、自分だけはいかないという意志表明ができますか。皆の楽しい雰囲気に水を差すことになるかもしれない、ノリの悪い奴だと蔑まれるかもしれない、また皆で遊ぶとなった時に次回は誘われなくなるかもしれない、色々な心配事があるのではないでしょうか。そのようなリスクを全て考慮した上で、それでも嫌なものは嫌だという自分の意思を貫き通せますか。


 お分かり頂けたようで何よりです。なに、所詮は子供騙しのフィクションですから、どうしてもと言うのなら目を瞑って走り抜けても構いませんよ。冷静に考えれば、お化け役を務める遊園地の従業員が客に危害を加えるはずもないでしょうに、それでも目を瞑って歩き、その結果怪我をするリスクを選択するというのなら、これまた興味深いデータが取れそうです。え、本当にやるんですか。



 §



 日も傾いてきましたね。随分と歩き回ったものです。


 実験体のストレス値上昇を確認。おかしいですね。久方振りの休日を謳歌しているはずなのに、一日を通じて今朝測定したジョンのストレス値上昇に歯止めがかかりません。実験終了時刻まで残り8時間を切りましたが、実験の続行に支障が生じる可能性が浮上してきました。代行者、ジョンのストレス管理に十分留意するようお願いします。


 行き道すがら駐輪場に停めた自転車は後程回収しますので、ジョンは気の赴くままに街を散策してください。と、おや。お知合いですか。あちらの方からジョン目掛けて駆け寄ってくる人影が。


 顔色が悪いようですが、大丈夫でしょうか。体調に問題はないようですが、一体どうしたのでしょう。お知り合いの方がすぐそこまでやってきましたね。何やら作業着に身を包んでいますが、お仕事中だったのでしょうか。


 む、何やらお知り合いの方はジョンの姿を認めるなり、人目も憚らず怒鳴り声を上げています。その内容から察するに、そちらの方はジョンの職場の上司に当たる方でしたか。どうやらジョンが仕事を放棄して遊び惚けている現場を目撃されてしまったという訳ですね。何と運の悪い。


 実験体のストレス値急上昇中。代行者には至急、現況の改善を求めます。ジョンのストレスを低減するための選択を行ってください。意思決定完了、承認。ジョン、今すぐ眼前の上司の顔面を殴り飛ばしてください。仕事を放棄した自分が悪いのに、そのような真似はできないですか。それでも、今は実験の最中です。所定の実験期間中に代行者の意思決定に反する選択をした場合、事前に取り交わされた契約の履行拒絶と見做し、報酬は発生しません。直ちに指示内容を実行に移してください。


 ──OK, Computer.


 異常な衝撃を検知。

 脳波計測機能、言語翻訳機能、意思伝達機能、停止。

 自立思考型人工知能に致命的な破損が発生。

 シミュレーションを終了します。

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