第16話

俺は厨房へと続く通路の壁に背中をもたせかけて呼吸を整えた。


…なぜ、千崎さんが職場に来た!?

まさか日曜日の件で苦情だろうか…?


最後の日だと言うのに、とんでもない事になったぞ…。

平和な一日を…と言う、俺のささやかな願いは聞き届けられなかったようだ。


そろっ…と通路から玄関の方を確認すると、事務所の前で看護師長の岡田さんと話している様子だ…。


これは…、事務所には戻りたくない…!


「柏野さん…」


「うお!びっくりした!大野君か…。君、どうやって後ろから!?」


「施設長室を突っ切って、医務室を抜けて、…後はご想像にお任せするっす」


…なるほどね、裏口からだな。どこか窓から出たのだろう。巨体の割りに身軽な事をする。


「それより、いつも冷静な柏野さんが慌てるなんて、あの女性は何者なんです?」


「…以前、ここに勤めていた人なんだ。俺はあの方とは関わりたくない」


「そうすか…。柏野さんにも話がしたいと言っていましたよ?」


俺に…?


「どうしますか?俺から柏野さんは拒否していると伝えますか?」


…辞めるとはいえ、後輩の前であんまり格好悪い所は見せたくないな…。


「わかった。行くよ」


俺は玄関へと向かった、また言葉で責められたり、やられるにしても…せめて堂々としていよう。




「千崎さん、いや、今は佐藤さんか。俺に何か御用ですか?」


すると彼女は頭を下げた。…?なんだ?


「実は、私は千崎に戻りました。離婚したんです。

…以前の事なんだけど、あれは私が…全部悪かったなって…、それを謝りたかっただけ。

それと、貴方以外に結婚式に出てくれた人達に離婚したことを報告しに、今日はここに来たの」


「そうですか。わかりました」


「この前の、あの女…、彼女なの?」


「そうですが、何か?」


「そう…、なんだ…」


千崎さんはまだ何か言いたげだったが、俺は大野君を伴って事務所へ入って仕事を始めた。





──────────────────────





「わざわざ離婚の報告って、勤めてた職場に必要なんすかねぇ?それに、なんで別れたんでしょうね?」


昼飯の給食を食べながら大野君が聞いてきた。


「別れた理由はわからないな。普通は前の職場に離婚報告なんて、しないというか…俺だったら恥ずかしいから行かないと思うけど、人それぞれなんだろうね」


「…あの方、まだ柏野さんに話したい事があったんじゃないすかね?」


「…俺の方は、話すことはないよ。俺は彼女の結婚式にも出席してないしね」


「そうすか。綺麗な…方でしたね?」


「そうだな。まあ、中身は付き合ってみないとわからないものだと…学んだよ」


「お付き合いが、あったんすか?」


「彼女の中では、付き合いの内に入らないと思うけどね」


「そうすか…。柏野さんが大人な理由が…なんとなくわかりました」


「俺は別に大人じゃないよ」


「いや、傷ついて、経験しないとわからない事って、あると思うんす。経験値があるって、やっぱり大人の条件の一つだと思うんすよ」


「そうかな…。まあ、大野君も無理しない程度で、頑張ってよ」





その後、午後の仕事前に更衣室でロッカーの整理をする事にした。鍵も返却しなきゃな…。


「柏野さんよぉ!」


怒気を含んだ声が聞こえた。



更衣室の入り口を見ると松本だった。


俺より二つ歳下だったかな。

介護職員で、 今時の若者でイケイケ系なのか、常にテンション高めのヤツだ。


なぜか、ここに来るとコイツに会ってしまう。

だから来たくなかったんだよな…。


「なんで、篠原の結婚式に来なかったんですか!?」


面倒な話を振って来たな…。看護師の篠原清香の件か…。


「俺は彼女に嫌われてたからね。だからだよ」


「普通は!同じ職場の同僚なら来るもんだろ!?」


「お前、口の利き方に気をつけろよ?篠原には会議の席でも『私の一番嫌いな人来た!』とか言われてたんだ!彼女の素行を注意したのが原因だがな。

嫌い!と言われてるヤツの結婚式になんか、行ける訳ないだろ?」


「それでも!結婚式には来るのが普通だろうがよ!?」と、松本は左手で俺の胸ぐらを掴んで来た。


俺は左手でヤツの左手甲を捕らえて反転し、詰めた。

ガクン、とヤツの上体が下がる…。

捕らえた手だけではなく、自分の胸を使って極める、外小手という技だ。


「松本…これ以上やるなら覚悟しろ?この体勢から顔面に膝蹴りを喰らって鼻血を出すか?手首を更に挫かれるか?…選べ!」


「…わかった!悪かったぁ!」


「口の!利き方ぁあ!!」


「悪かった…、です」


「…ついでに言っておくぞ。市役所に行く度に、福祉課に勤めてるお前のお袋さんから相談を受けてる。お前が人妻と付き合ってる、家に帰って来ないってな」


「な…にぃ!?」


「戸尾真須美さん…だろ?やめとけ。あの女は、他の男とも付き合ってるぞ。

お袋さんは…、かなり心配してる」


俺はヤツの左手を離し、身体を出口の方へ押しやった。


俺は言った

「結婚式に出る出ないは、個人の自由意志なんだよ。…行け!俺の前から消え失せろ!」


松本は俺を睨みながら更衣室から去っていった。




俺は事務所に戻って佐々木係長にだけ、松本の件を報告した。


「松本なぁ…。変な派閥作って、かなり調子にのってたからな。まあ、君も今日で終わりだから、そこまでにしときなよ」と、ため息混じりに言われた。




その後は、平和に時間が過ぎた。


定時になると、姫倉さんと鉄川さんが挨拶に来てくれた。


姫倉さんから「これ、ちょっとしたプレゼントなんだけど、帰ったら開けてみて?」と小さな箱を受け取った。


「安野は夜勤に入っちゃたから見送りに来れないけど、ウチら三人と係長と大野君からのプレゼントね。また、飲みに誘うからね」と鉄川さんに言われた。


「今日まで、お世話になりました。至らない俺でしたが、皆さんのお陰で今日まで勤める事が出来ました。ありがとうございました」


「身体に気をつけてな」と、係長から握手を求められて、固く握った。




こんな職場ではあったが、終わりは良かった。

皆さん、お元気で。


帰りの足で、次の職場の面接に向かう。


見山先生は、どんな方だろう?




──────────────────────




居酒屋『酒呑童子』…本町の飲み屋街のほぼ中心に位置する居酒屋だ。


外装が赤を基調としていて、とても目立つ。


…ふむ。俺は履歴書が入った鞄を小脇に抱えて、暖簾を潜った。


「らっしゃいやーせー」景気の良い声が聞こえて、恰幅のいい中年男性が出てきた。


この人が…見山先生?栄心武館の中国武術コースの先生と聞いている…。いかにも強そうだ。


「あ、昨日のジンジャーエール君だ」と、その脇から出てきた人は如何にも普通な感じ…。

だが、チョビ髭を生やしていた。

あれ?…どこかで…会った…ような?

気のせいか?


「あの、面接に伺いました柏野恵介です」


「見山です。奥が事務所なんだ、こっちに来て」


チョビ髭さんの方が見山先生だったとは…。


促されてスタッフ・オンリーと書かれたドアを入ると、こざっぱりとした事務所だった。


「そこのソファに座って。履歴書は持って来てるかな?」


「はい、こちらになります」と、白い封筒を見山先生に手渡した。


「栄光先生からも聞いていたけどさ、君は大変な所に勤めてたね?」


「…まあ、そうですね。いろいろ大変でした」


「黒野さんは、事務長会でも総スカンを喰らっていたそうじゃないの?

代理で君が出ていて、他所の事務長から嫌味を言われてたんだってね?

…よく今まで頑張ってきたね?」


「見山先生は、かなりお詳しいんですね?」


「この仕事をしてると、いろんな情報を耳にするからね。来週から来れるのかな?」


「はい。来週の月曜日からお願いしたいと思います」


「ここでいい?それともバーの方がいいかな?」


「バーも、経営されてるんですか?」


「昨夜、君と会ってるんだよ。クラウンでね」


「あ…思い出しました!バーテンをされて…いましたね」


「そうそう。僕の中では君は『ジンジャーエール君』ってアダ名なんだよ。あんな綺麗な女性から口説かれて、断ってるんだもの。驚いたよ」


「…お恥ずかしい」


「まあ、みんないろいろあるよね。ま、最初は居酒屋で働いて貰おうかな。まずはホールとレジと皿洗いだね。で、給与がこれくらい…」と、見山先生はいつの間にか持っていた電卓を叩いた。

…あれ?予想してたより良い金額だ。


「…少ないかな?」


「いえ、それで結構です。宜しくお願い致します。あと、不動産のオーナーの助手の仕事もありまして、ダブル・ワークでもよろしいでしょうか?」


「構わないよ。じゃあ、月曜日の16時にはここに出勤しててね。うちは23時閉店で、帰れるのが24時頃になる。それでいいかな?」


「構いません。宜しくお願い致します」


「あと、僕のことはオーナーって呼んでね。先生は道場でだけだから。バーの方に居ることが多いけど、たまにこっちにも顔を出すからね」



面接も無事に終わったな…。


車に乗ろうとしたら、スマホの着信が鳴った。姫倉さんからだった。


出ると「柏野さん、聞いた!?」とちょっと甲高い声だった。


「え?何をですか?」


「千崎さんの離婚の原因!」


「離婚したとは聞きましたが、理由までは…」


「…そうなんだ。知りたい?」


「あまり興味が無いというか…、けど聞いておきます」


「そう、わかった。日曜日に千崎さん夫婦と、千崎さんのお母さんとで買い物に行った帰りに…旦那さんが運転中に急に発作を起こして、車が電柱に突っ込んだんですって。

どうやら、癲癇の発作があるのを、ずっと言わないで隠していたみたいなの…。

それで、千崎さんのお母さんが激怒して、向こうの親と大喧嘩になって…、月曜日の夕方には離婚届けを提出したって話だったわ。

…柏野さん、どう思う?」


「う~ん。どう思うと言われても…。

俺、千崎さんの事で失恋鬱になってから、彼女に関する事に対しては感情を遮断するようにして来たんですよ。

なので、なんとも思わないのが正直な所です」


「もう!ザマアミロとか思わないの…?」


「いや…なんか捨てられた旦那さんが、ちょっと気の毒というか…」


「貴方ねぇ、人が良すぎるわよ!まあ、そうよねぇ…いきなり離婚にまでは…。いや、どうなんだろ?…にしても、スピード感がありすぎる気がするのよね」


「本当ですね。…あの、姫倉さん?」


「なに?」


「俺の事で落ち込んでるって、鉄川さんから聞きました。申し訳ありません、俺なんかのせいで…」


「それは、いいのよぅ…。けど、私が本気だったって、わかったでしょう?」


「まあ、そうですね…。俺、女性からあんなストレートに告白されたのなんて、生まれて初めてだったんです。

だから一生…、貴女の事…忘れません」


「…そう?ありがと。また縁がある事を祈るわ」


「はい。姫倉さんも、お元気で」


「じゃあ、またね」





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