第11話
俺は芹沢さんのアパートへ向かう前にパン屋へ寄って、角食と菓子パンをいくつか買った。
ここは安価だが、結構美味しいと評判だ。
…急に思い出した。
今日は最後まで、と芹沢さんに言われている。
果たして俺は大丈夫なのだろか?いろいろと…。
芹沢さんのアパートに着いて、インターホンを押すとパタパタと足音が聞こえて、芹沢さんが出迎えてくれた。
「お帰りなさい。フフ、定時で上がれた様ですね?」
「はい、お陰様で。これ、お土産です」
「あら、パン?真っ直ぐ帰って来てくれたら良かったのに…」
「ご飯もご馳走になる訳ですから、明日の朝にどうぞ食べて下さい。
そうだ、車で来たんですけど、芹沢さんの車の隣に停めちゃいました。大丈夫ですかね?」
「大丈夫ですよ。それより早く上がって下さいな。疲れたでしょう?」
「ええ、朝からトラブルがあったりして…」
部屋に上がると、焼き魚と味噌汁の匂いがした。
あー、なんか両親が生きてた頃を思い出すなぁ。
「まずは、ハイ」と芹沢さんは両手を広げた。
俺は優しく抱き締める。
「良かった~。定時で帰って来てくれて~」
「いや~、かなり勇気だしましたよ。けど、係長は『それが普通だよ』って言ってくれました。
普通じゃないことが、染み付いてたんすねぇ」
「そうなんですねぇ。さ…まずはお茶をお出しますね。
今日の夕飯はエボダイの干物の良いのが入ってたんで、きっと美味しいですよ。
後は、味噌きんぴらごぼうです」
「エボダイですか?久しぶりです。あれ、美味いんですよね」
夕飯をいただきながら、今日のあらましを芹沢さんに伝えた。
「うーん…同僚の方はパニック障害になるほど、事務長さんは酷い方だったんですねぇ?
柏野さんは、今まで大丈夫だったんですか?」
「まあ、気にならないと言えば嘘になりますが、極力気にしない様にしていました。
俺にとっては先日、モールで会った岩佐の方が酷かったので。
ただ、榊さんは事務長にロックオンされてて、かなり執拗に責められていました。
不必要な程に…。
それより、事務長が急に異動することになったんですよ。
明日からは違う方が来るそうで『お前が本部に連絡したのか?』って疑われましてね…。
どこから連絡が行ったものなのか…。
榊さんのお母さん、かな…?」
「私、です」
「…えっ?芹沢さんが?」
「実は私、理事長さんと知り合いなんです。
お仕事の関係で…。それで、ご相談したら、理事長さんの方でも少し、黒野事務長さんの良くない情報を掴んでいたようで、直ぐに動きます、と」
「なるほど…それでなんですね。まあ、事務長の身から出た錆ですが、急な動きでしたので驚きましたよ。…にしても、きんぴらごぼう超美味いっす!」
「亡くなった母から教わった料理の一つなんです」
「味噌のきんぴらごぼうは、初めて食べました。エボダイも脂が乗ってて美味い」
「良かった~。好き嫌いとかあります?」
「いや、ほとんど無いですね。パパイヤがちょっと苦手な位です」
「パパイヤ…私、食べた事無いかも。逆に好きな物は?」
「そうですね…。蕎麦かな?あと、肉も魚も好きですよ」
「お蕎麦ね~。私も好きだな。美味しい所知ってるから今度行きましょう」
「あ…そうだ。明日の晩なんですけど、送別会に出るので遅くなります。だから、自分のアパートに…」
「い・や・で・す!」
「えっ…?」
「…遅くなっても全然良いですから、ここに帰って来て下さいな?」
「…はぁ。けど、毎日だと迷惑になりませんかね?」
「なりませんよ~。提案なのですが、引っ越して来ませんか?家賃が浮きますよ?」
「いや、急にそんな…。ん~、ありなのかな、それ?…と言うか、この部屋に、俺の荷物は入りきらないと思うんですが?」
「大丈夫。隣の部屋を整理すれば、充分かと思います。不要な物等は処分して、私のアパートに来て下さいな?」
「…う~ん。え…?私のアパートって、このアパートは芹沢さんの…」
「ええ、私ここと、駅前のマンション二つのオーナーなんです。他にもいくつか市内に賃貸の物件を所有してます」
「えええっ!?資産家…じゃないですかぁっ?
俺なんかが彼氏でいいんですか?
千崎さんの母親なら門前払いされた挙げ句、物理的にもバッサリ斬られてる所ですよ?
芹沢さんは…、もう少し慎重に相手を選んだ方が…」
「…貴方が、良いのです。ダメですか?いや、ダメだなんて今さら言わせませんけどっ!?」
怖ぁ…。顔がマジだ。
「わかりました…。俺、腎臓を片方売って、それを持参金に婿入りします…」
「アン・ポン・タン!!馬鹿な事言わないで!?お金は確かに大事ですが、それだけではないのです。
貴方が…、見ず知らずの私を助けてくれた事、そして誠実な方だからこそ、選んだの。
腎臓は売らないで下さいね!?」
「はぁ…。けど、いいのかな俺で…。
正直言うと、失恋鬱になって、多分8割くらいしか治ってないと思うんですよ…。
俺の身体感覚だと、鬱は完全に治る事はないんじゃないかと感じています。
そんな俺で…、芹沢さんにとって、果たして良いのか…」
芹沢さんはフッと笑って言った。
「いいじゃないですか?誰だって持病の一つや二つはあるし、心に傷の無い人なんて居ないと思います。
それを持ったまま、しあわせになれば良いだけの話…。
私は、今の貴方ごと、自分もしあわせになって見せます!それで、どうですか?」
…強い。この人は、多分…俺とは基本的な何かが違う…。
「わかりました。俺に出来る事はなんでもやります。宜しくお願いします」
──────────────────────
その後、風呂を頂いて寝る事となった。
今日はベッドの隣に布団は敷いてくれていない。
ベッドの側で俺が立ち竦んでいると、芹沢さんは俺の手を優しく取って言った。
「怖い…ですか?柏野さん?」
「怖くないと言えば…、嘘になりますね。
けど…、大丈夫です」
「私…貴方に謝らなければならない事が…」
芹沢さんは俺の胸に顔を埋めた。
「謝らなければならないこと…ですか?」
「はい…。私……貴方が初めてじゃないんです…。それが…申し訳なくて…」
「ああ、そんなことですか?気にしませんよ?」
「全然…?」
「…まあ、俺も芹沢さんの事が好きなんで、少しモヤっとはしますけど、芹沢さんが今、俺の事好きなら問題ないですよ」
「ごめんなさい…」
芹沢さんは涙を流していた。
「俺が好きなのは、今の芹沢さんです。問題ありません」
そのまま、俺達はベッドへ横になった。
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