第10話

俺は一度アパートへ戻って身支度を整えた。


後は、今夜も芹沢さんの部屋へ泊まる事になるだろうから、着替え等をデイバッグへ詰めた。


…俺の部屋が、俺を恋しがっているような、そんな気がした。


職場のロッカーは事情があって使いたくないので、車に荷物を積み込んで出勤することにした。ガソリン代の節約でいつもは徒歩だ。


俺の愛車はガンメタのジムニー。


コイツに、正真正銘の彼女を乗せる日が来るとは思わなかったな…。



職場に着くと、正面玄関口に人がうずくまっていた。


あれは…榊さん!?


事務長からのパワハラでパニック障害を起こして休職中のはずだが…、なぜここに?


俺は駆け寄り、声をかけた。


「榊さん!?大丈夫ですか?」


「柏野…さ…ん?」


「休職中ですよね?なぜここに?」


「休職…期間の…延長の診断書を…出しに…」


過呼吸だ…。過換気症候群、パニックになりかけてる。


「榊さん。呼吸に意識を集中して、吐く息を長く、吸う息は短く。大丈夫、俺が傍にいます」


「うっぅっ…!大丈夫かな…、と、思った、けどダメ…事務長に会う事に、なるかと、思うと、怖くてぇ…」


「大丈夫、診断書は俺が預かります。これは…一人では…」


俺はスマホで事務所へ電話して加勢を頼んだ。


佐々木係長が駆けつけてくれ、事情を説明した。


もう、いつもの出勤時間…と言っても7時30分を過ぎていた。事務長に怒られるの確定だ…。


「係長、俺は榊さんを病院に送って、彼女の親に来て貰うようにします。事務長へ話を通しておいて下さい」


「わかった。この状況じゃ仕方ないな」



係長と俺でジムニーへ榊さんを乗せて、彼女のかかりつけの病院へ送った。


そして、彼女から自宅の電話番号を聞いて母親に来て貰う事になった。



…これ、定時じゃ帰れないんじゃないかなぁ…。


今日は入所判定会議もあるし、市役所へ手続きに行く用事もある。


考えながら榊さんを看病していたら母親が来て、後をお願いした。


黒野事務長…、頭から湯気を出して怒ってそうだが…。俺、大丈夫だろうか?



職場へ戻ると事務長の姿がなかった。いつもは、動かざること山の如し…の方なのだが…。


「あ、お疲れ柏野君。まずは一息入れなよ」と佐々木係長は言いながらも、高速で書類を処理していた。


「お疲れっすー。大変でしたね?」と、俺の後任になる大野君がコーヒーを淹れてくれた。


彼は俺より二つ年下なのだが、角刈りで恰幅が良く、顔は浅黒い。かなり落ち着いた雰囲気だ。

だからか、なんとなく年齢よりも老けて見えてしまう。


面接の際に事務長から「君かぁ~、38歳の元自衛隊員の方は?」と言われてショックを受けていた程だ。


「事務長は?」と俺が聞くと、大野君の代わりに佐々木係長が声を潜めて話し出した。


「柏野君が榊さんを病院に連れて行ってる間に、本部の瀬戸常務から電話があってね…。緊急で呼び出された。

君の事を話したら、事務長は目からビームが出そうな位に怒ってたんだけどねぇ…。

瀬戸常務からの電話では一気に真っ青になってた。あれは、ちょっとヤバいかも知れない…」


「ヤバい…と言いますと?」


「異動、かな…」


「えっ!?」


「瀬戸常務が出て来ると、そのパターンが多い。あるいはクビかな…。

これまでの、いろいろがバレて…。

それより、僕も決まった。

君より2ヶ月程後になるが、ここを辞める。

今朝、事務長にも伝えた」


「次が決まったんですね?良かったですね」


「うん。横浜の療養型の病院で、事務長で勤める事になった。実家にも近いしね」


「栄転ですね!おめでとうございます」


「君は、次の仕事は?」


「居酒屋で働かせて貰う事になりました」


「…福祉の仕事には、就かないのかい?」


「う~ん。他の仕事もしてみたいんですよ。

綺麗サッパリ、辞めます!」


「そうか…。君らしいと言うか…、もったいない気もするけど、良い機会なのかも知れないね」




その後、大野君に市役所へ行って貰い、俺は入所判定会議に出た。

相談員は必要書類の準備だけではなく、司会進行もする役目がある。


会議が終わると、看護師の姫倉さんから声をかけられた。


「柏野さん、ちょっといいかな?」


「なんでしょう?」


「職場でやったのとは別の、小規模な送別会をしたいの。明日の夜、空いてる?」


「ええと…大丈夫だと思います。誰々が来るんですか?」


「私と、安野と鉄川。ダメかしら?」


「いえ。女子ばっかりですけど、俺が行ってもいいんですか?」


「いいから声をかけてるのよ?じゃあ明日、蓬坂近くの『浜風』って名前の居酒屋でね。

場所は後でメールするわ」


「わかりました」



姫倉さんは、俺より後で入って来た方なのだが、年齢が俺と同じと言うこともあってか、何かと気さくに話しかけてくれる。


俺は昼飯は職場で給食を頼んでいる。

入所されている高齢者の方々への食事と同じなので、栄養バランスも良いし、身体に優しい。


一人暮らしの俺にとっては貴重な栄養源で、ありがたかったが、これとも後2日でおさらばだ。


…ここまでは、思ったよりなんとなく順調だ。

事務長が帰って来たらどうなるかわからないが…。



その後、大野君に利用者様との相談支援の方法やフェースシート、レセプト書類の作り方のコツや、パソコン操作を教えながら16時近くなり、黒野事務長が戻って来た…。


顔面蒼白で、なんだかやつれている?

元々、かなりメタボな方なので、やつれているのは全くの気のせいだろうが…。


事務所へ入って来るなり事務長は言った。


「柏野ぉ…。お前が、本部に連絡したのかっ?」と聞かれた。


???…「なんの、事でしょうか?」


「お前じゃない…のか?俺の事を…いろいろと…」


「本部と連絡を取ることは、俺はまずありませんよ?どうされたんですか?」


「…異動に、なった」


「えっ?どちらに…」


「岩見沢だ…」


「それって、どこすか?」と大野君が聞いた。

俺は頭の中で日本地図を思い出しながら答えた。


「北海道だよ。札幌から一時間位の所かな…。

あそこに系列なんて、ありましたっけ?」


「…ない」


「ないのに異動なんすか?」


「…新設する療養型病院の準備室だ」


新設かぁ…。そりゃあ大変な役割だな。


「随分と急でしたね?」と怪訝に佐々木係長が聞くと


「…俺は週末には、もう向こうに行かなければならない。今日はもう帰って準備に入る。

明日からは八萩が事務長でここに来る。

じゃあな…」


そう言って事務長は肩を落として帰って行った。




定時となり、俺は勇気を出してタイムカードを押した。


「係長…すみません。俺、帰ります」


「柏野君…」


やっぱり、ダメか…?

係長も、事務長に洗脳されていたりするのか…?


「柏野君、それが普通なんだよ。僕も間も無く上がる。また明日」


はい、と俺は返事をして、職場を後にした。


明るい内に帰れるなんて、初めてだ。

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