孤独な蠱毒 - アイロニー・コロニー - その5
ヌチャリ。
玄関に一歩踏み込んだ感触がそれだ。
玄関はいってすぐにキッチンのフローリングは、湿気と埃と黒カビでヌメっているらしい。
転んだりするとドロドロになりそうなので、慎重に踏み込んでいく。
フローリングの上のハズなのに、靴が踏みしめる音はどこか湿った粘着質。その音そのものが恐怖を煽ってくる。
澱みを感じるすえた匂いを堪えながら、さっさと進んでいく綺興ちゃんを追いかける。
廊下も兼ねたキッチンの端にドアがある。正面と左。
「うわぁ、ちょっとドアノブ触るの怖いな」
そんなことを独りごちながら、綺興ちゃんはドアノブを開けた。
ゾワリ――と、鳥肌がたつ。
明らかに何かが一斉に動いたように見えたのに、やっぱり綺興ちゃんはなにも見えていないらしい。
玄関の明かりだけだと足りないからか、綺興ちゃんはスマホのライト機能を音にして、六畳ほどの部屋を照らす。
外から光が入らない。
音もどこか遠く。
人の近づかない建物の中にある、忘れ去られた暗い部屋。
部屋そのものが、光を浴びたのはきっと久しぶり。
この部屋に置いてあるいろんなモノが、埃、湿気、黒カビなどで黒ずんでいる。
それが、まるで光を拒絶するかのように、私には見えた。
「ボロいけど、間取りとか広さとかよい感じだねぇ」
「…………」
なんだろう。違和感。
この部屋、何かおかしい。
「リビングとして使ってたんだろうなぁ」
部屋の隅には大きめの本棚がある。
湿気とカビ、そしてそこに乗る本の重みにやられて中板は折れて崩れている。
部屋の中央には、こたつ机。こたつ布団はどこかに片づけてあるんだろう。
机を挟んで左側にはテレビ。対面には汚れとカビで見るも無惨な姿になったキャラクターモノの座布団と、有名なマスコット系キャラクターのぬいぐるみ。
「うわ。カビだらけのぬいぐるみ怖ッ」
綺興ちゃんはのんきな感想を口にする。
確かに怖い。怖いんだけど、見た目とは別種の怖さを感じる。
なんだろう。
私自身の持つ能力そのものが、私に警鐘を鳴らしているような落ち着かなさがある。
見落としている気がする。何かを。
気がついて、逃げ出さなければならない何かを、私はすでに目にしているんじゃないかって――そういう感覚。
「隣の部屋も見て見よう」
綺興ちゃんはたぶん怖いとも思ってない。ただの廃墟探索の感じで動き回ってる。
ふと、テレビの横にある化粧台に目がいく。
半分ほど残っている化粧水のボトルがある。中身はすっかり濁ってしまっているようだ。
美容の為の液体が、美から遠ざかった姿になっているのには思うことがある。
……て、半分ほど残っている?
ふと思いつき、自分のスマホを取り出して、ライトを点灯させて部屋を巡らせる。
ゴミ箱は二つある。
恐らくは可燃ゴミと不燃ゴミ。
元々の家主は、そういうのを気にしてちゃんと分別する人だったんだろう。
だけど、そこはどうでもいい。
ゴミ箱にはそれぞれ半分ほどゴミが入っている。
埃やカビでぐちゃぐちゃだけど、生活感を感じるゴミ箱だ。
「そうだよ。生活感。そもそも、それを感じるのっておかしくない?」
気づいた。気づいてしまった。
虫の正体は分からない。だけど、さすがにちょっとこれはおかしい。
この手の廃アパートって住民が退去してから放置されているんじゃあないの?
仮に人が住んでいるのだとしたら、ここまで部屋の中が汚れているのはおかしい。
能力を使ってさらに部屋を見回す。
カサカサという音があちこちから聞こえてくるのは、部屋に入り込んだ虫だろうか。
生活感が残っているということは、単純にゴキブリとかが涌きやすいってことだろうし。
あるいは、入って来る時に見た虫たちがこちらを監視しているのか……。
もう少し時間を調整しながら見回す。
すると、グチャグチャクチュクチュという水音が視界に入るようになる。
私はその音に手を伸ばす。
そして、漠然と感じ取った情報は、女性が腰を振っているイメージ。
「…………」
一人遊びなのか、誰かを連れ込んでいるのかは分からないけど。
アンアンという文字も視える。
そっかー……ふつうの声は視えないけど、言語としての意味を持たない音は視えるのか。
喘ぎ声もだし、たぶん悲鳴や雄叫びなんかも視えるんだろうな。これは新しい発見かもしれない。
ともあれ、男性と思われる声は視えないから、一人遊びかな?
いやそこを追求する必要はないんだけど……。
「こっちは和室だぁ」
綺興ちゃんののんきな声が聞こえてくる。
もう一つの部屋に入ったのだろう。
小さく息を吐き、私もそちらへ向かう。
まずはリビングからキッチンへ――
「……ここでも喘ぎ声や水音が視えるんだ……」
ここに住んでた人はいつでもどこでも遊んでいたのだろうか。
それにしても、時間を指定せず視ているからか、虫の動く音と水音と喘ぎが同時に視える。なんか変な感じだ。
まぁなんだ……文字とはいえ、そういう事情というか情事というかが見えてくるのは――何となく気恥ずかしい。
私は自分が少し赤くなっているのを自覚しながら能力を解除する。
それからリビングを出てすぐ隣のドアを開いた。
小さな廊下。正面はトイレ。左手は浴室。右手のドアから明かりが見える。
私も和室へと足を踏み入れた。
湿気とカビでボロボロの畳を踏みしめると、フローリングで感じた感触よりもイヤな感触がする。
そのことに顔をしかめながら、入り口そばに立って部屋を見回している綺興ちゃんの横に立つ。
部屋には布団が敷っぱなしだ。
掛け布団が乱れて、タオルケットが丸まって――カビと埃でぐちゃぐちゃでなければ、さっきまで誰かが寝ていたようにも見えて……。
部屋にあるクローゼットは、本棚同様に壊れてしまって中身が落ちている。
少しハデな衣装が多い。
夜のお仕事……キャバクラとか風俗とかそっち系の人だったのかもしれない。
……そう。それが分かるくらいには、服が残っている。
まるで、ここに住んでいた人が急に居なくなってしまったようじゃないか。
ふと思い、視る文字の時間を調整しながら周囲を見回す。そして、定期的に浮かび上がっていた喘ぎ声が、あるタイミングを境に全く視えなくなってしまった。
なくなる直前くらいの喘ぎ声は、これまでと質が違う気がするけど、まぁそこはいいや。
ともあれ、この感じ。私が感じたことは、まるで――で済まない話かもしれない。
とどのつまり――この部屋にいた女性は、ある日、突然姿を消したのだろう。言ってしまえば神隠し。
私たちがこのままここに留まっていた場合、神隠しに会わない保証はない。何より会ってしまった時、そのあと自分たちがどうなるのかが分からない。
だけど、きっと、ロクな目には会わないだろう。
「出よう。綺興ちゃん」
能力を解除して、綺興ちゃんに告げる。
「え? なに怖くなった?」
「違う。何かがおかしい。この部屋……本気でマズい気がする」
「なになに? もしかして存歌。そういうの分かっちゃうタイプ?」
「そうかもしれない。だから出よう」
「個人的には何かでるか気になるんだけど」
ダメだ。
綺興ちゃんと、私で抱いている危機感に差がありすぎる。
むしろ、なまじ霊感があるっぽいことを言ったせいで、好奇心が強くなりすぎちゃってる。
「明らかに人が住んでないのに、生活感が残っているのがおかしいんだよ」
学校とか病院とかの廃墟には備品などが残ってたりするらしいけど、ここはアパート。
理由や原因はともあれ、住人が退去してだれも住んでいないはずの場所。
取り壊すにしろ放置するにしろ、ここまで住民の私物が残ったままというのは珍しいはずだ。
つまりそれは――
「それって、片づけられない理由とかがあるんじゃないかな?」
仮にその原因がお化けとかが出るから……みたいな話だった場合、ここに出るのはロクな存在じゃないはず。
だから、私は今すぐに外に出たい。
たぶん――何かが起きてからじゃあ手遅れになるだろうから。
「つまり本物の怪異とかに会える?」
綺興ちゃんの目が輝いた。
だめだ、通じない。伝わらない。
彼女が悪いんじゃない。
触れてきたモノの差のようなものなんだと思う。
私は、音が視えるというオカルト寄りの現象を知っている。私自身がそういうオカルト寄りの存在だっていう自覚は多少ある。
その自覚は孤独でもあって。
だけど今はそうして感じていた孤独が危機を知らせる役割を果たしている。
だけどそれは、私だけが感じる直感でしかない。
そういう感覚と直感だけが働いているから、綺興ちゃんに伝わらないし伝えられない。
文字通り見ている世界とか感じている世界が違うんだ。
どうしよう。このままじゃダメだ。
この和室にこれ以上、踏み込んではいけない気がする。とどまっちゃいけない気がするのに……!
「お願い綺興ちゃん。これ以上は、本当にダメだから」
理由は分からない。でも分水嶺のライン上にいるような気がして落ち着かない。
「気にしすぎだって」
ああ、もう。
やっぱりネタでも先っぽだけとか言う人はアテにならないんだからッ!
私は前に出て、綺興ちゃんが先に進まないように押さえようとする。
その途中で、布団の上に足が乗る。
くちゅり――と、湿っぽい音がして、私と綺興ちゃんは視線を動かす。
極めて黒に近い赤黒い液体。
どこか粘性も感じるそれが、布団から滲み出している。
「え? 血?」
綺興ちゃんの顔が僅かに青ざめる。
たぶん、血とは違うと思うんだけど……でも、おかげで綺興ちゃんの中で、この部屋の不気味さが現実との地続きになってくれた。
「この部屋に住んでた人の血かも」
「え?」
なので、申し訳ないけれど追撃するように言葉を口にした。
「だから出よう。中がそのまま放置されてた意味を考えると、長居はよくないかも」
「う、うん」
よし説得成功。
あとは一緒に外に――……!?
滲み出た液体から、黒い虫が出てきた気がした。
「綺興ちゃん、急いでッ!」
「え? え?」
「いいからッ!」
見間違いじゃなければ……
私は恐る恐る、敷布団につま先をかけてひっくり返す。
次の瞬間、どろりとした極めて黒に近い赤黒い液体が広がり出る。
そして、岩をどかした時に虫たちが右往左往するかのように、その液体の中からゴキブリや、蜘蛛、ムカデ……さらにはサソリに他にも色々な不気味な姿をした、液体と同じ色の虫たちが溢れ出てきた。
虫。虫。虫。虫。虫。虫。虫。
蟲。蟲。蟲。蟲。蟲。蟲。蟲。
カサカサ、ゾロゾロ、ガサガサ、グチョグチョ、ニョロニョロ。
能力を発動した覚えがないのに、そういう文字が踊るのが視えた気がした。
「……ヒッ……」
喉がなる。
やらなきゃ良かったと思いながら、私は和室から飛び出した。
バランスを崩してキッチンで転びそうになった時に、慌ててシンクの端に手を置く。
何かを潰したような……グチャリとした感触と、直後に感じるヌルリともドロリともする感覚に、泣きたくなる。
それでも私は転ぶことなく、なんとか部屋から飛び出すことに成功した。
そして勢いのまま、私たちはアパートから離れていった。
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そんな私たちの背後で、開けはなったままの玄関のドアを巨大なムカデのような影が閉じていることに、私は気づいていなかった。
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