第5話 鹿鳴館にて

 果たして約束通り、田中とか名乗る自称女学校教師は、どこから調達してきたのか、二頭立ての馬車に揺られ、上物の夜会服に身を包んで現れた。燕尾服にホワイト・タイの正装だ。


 あちこちに流れた短い独特の毛も、綺麗になでつけられ、一見何処の海外の将校かと思うほどだった。目鼻立ちは日本的だが目がどこかエキゾティックな趣を漂わせており、髪と目の色が黄金色がかった薄茶色のせいだろう。


 対する史緒も、腰の後ろを膨らませた、濃い青色のベルベットで仕立てた鹿鳴館スタイル(バッスルドレス)に身を包み、結い上げた髪に白椿の精巧な造花を差している。


 そして馬車は一路鹿鳴館へと出発した。


 鹿鳴館。政府からは文明開化を海外に誇示するものとして、西洋からは猿まねの滑稽なものとして、庶民からは栄華と頽廃としてのそれぞれの象徴となった、東洋の意匠を採り入れた西洋建築だ。栄光は建築後数年もしないうちに失われたものの、建物は華族会館に買い取られ、現在も華族の社交場としての体裁を保っている。


 煉瓦造りの二階建ての建物の正面玄関には、菊御紋の幕と、鹿鳴館の文字を模った派手な花瓦斯イルミネーションが瞬いていた。


 史緒は、階段を登りながら、ふと気付いて問いかける。


「そういえば……あなた、踊れるの?」

「今更ですね。踊れますよ」


 自信満々に田中は言う。正直に、意外ねと返すと、


「さっき練習してきました」


 さらりととんでもないことを言った。


「ちょ……」

「扉が開きますよ」


 抗議の声をあげかけた彼女は、大人しく口を閉じた。言いたいことは山ほどあるが、人目があっては無理だ。


 二人が玄関をくぐりクロークに荷物を預けると、係員にダンスホールに案内される。扉が開けば、西洋式の呼び声が響き渡った。


「柏崎清隆男爵令嬢、史緒様──」


 朗々と流れる声は、羞恥プレイであり死刑宣告のように史緒には思われた。何度もやっているが一向に慣れない。


 だが、これもまた予想通り、彼女の名に反応する人は殆どいなかった。


 主催である人の良い伯爵夫人も挨拶に訪れると、すぐにまた元の人の輪に戻ってしまった。


「随分あっさりしてますね」

「ここも政治的な駆け引きの場よ。私は一役人の子に過ぎないからね」


 小声で返答する。


「まぁ、私もいつもはアイスクリームやソーダ目当てだから、同じようなものよ」

「成程」

「でも今日は違うのよね」


 会場を眺め回す。きらびやかなシャンデリアの明かりの下、ひときわカラフルな、若い女性たちが集っている一角があった。ひしめくフリルとレースの中心にいるのは、小田桐悠人だ。今日もにこやかな笑顔と美声を周囲に振りまいて、誰かと視線が合う度に令嬢たちは顔を赤らめたり、黄色い声をあげたりしている。


 人によっては新華族としてやや軽蔑した目線はあるものの、社交界の華形として、女性にはどこの舞踏会でも持て囃され、伯爵夫人も公爵夫人も彼を招くといわれる。凛々しいとはいかないが、柔らかい声もまなざしも髪も、王子様に相応しく、顔に残る幼さが庇護欲をそそるのだろう。


 史緒の視線の先を辿り、田中は彼独特の抑揚のない調子で彼女に尋ねた。


「あなたは彼のことが好きだったんですか?」

「嫌なこと聞くわね」


 一瞬言葉に詰まった彼女は、ぞんざいな口調で言う。ぶしつけはお互い様で、教師らしくもない彼に対しては全く気取ったり猫を被る必要性を感じなかった。彼もそれをいちいち誰かに告げ口しそうなタイプでもない。


「図星ですか」

「今は、何でこんな時にこんな場所にいるのかって、ムカムカしてる」

「新条さんのためですか?」

「それもあるけど。そんな人だとは思わなかったから」

「でも、分かってるんでしょう?」


 からかうような声音が含まれて、史緒は不機嫌さを一層増して、しかも表情には一切出さないよう不断の努力をしながら、返す。


「──何を」

「何も知らないっていうことですよ」

「うん。それに、王子様にはお姫様がお似合いだってね。私はお姫様ってガラじゃないでしょう。あの人たちみたいなお姫様になんて絶対なれない」


 令嬢たちのドレスは色とりどりの、銀座のデパートが提案する流行色。腰をきつく、苦しいほどコルセットで締め上げ、腰当てで膨らませたドレスの先端に薔薇の装飾を施し、造花や生花や鼈甲で髪を飾っていた。


 それぞれ唇に紅を引き白粉をはたき頬紅を差して、おそらく毎日新製品の化粧水やクリームで肌を整え、爪を磨いているのだろう。婦人や令嬢向け雑誌の推奨する通りに。


 そんな彼女たちに囲まれている彼に、今まで近づくこともできなかった。彼の側にはいつも誰かしらいた。近づけば友人くらいにはなれたかもしれないが、勇気がなかった。だから遠巻きに見ていた数年間の思いのたけを手紙にしたためたところで、彼が応えてくれるなんて本心では思ってもいなかった。


「ふられたのは当然。白木蓮で再会した時に顔なんて覚えてられないのも当然だったしね」


 田中は無言ですっくと席を立つと、バニラアイスクリームの乗ったグラスを取ってきて、彼女に差し出した。


「……あ、ありがとう」


 史緒は意表をつかれて、どもりながら受け取る。


「いつもそれくらい素直ならいいと思いますよ」

「うるさい」


 令嬢にあるまじき早さでアイスクリームを食べきると、史緒はドレスの裾を揺らして椅子から立ち上がった。両目には自棄と真剣が半々の割合で同居している。


「行くわよ」

「どこに」

「踊りに行くの。そのうち彼に会えるわ」


 慌てて腕を差し出す田中の肘裏に優雅に手を添えて、ダンスの輪の中に入っていく。


 折しも青く美しきドナウの旋律が流れ始め、どこかの令嬢の一人の手を取って、小田桐もまた踊り始めていた。


「いい、恥をかかせたらただじゃおかないからね」

「承知しました」


 史緒が驚く程、田中は、そつなく円舞曲ワルツを踊った。まずまず及第点をあげていいところだ。自称では一日も練習していないはずだが、とてもそうとは思えなかった。


 二人は、部屋の隅にいる、真剣な表情で楽器を弾き続けるスーツの紳士たちの弦の動きを見計らい、少しずつ小田桐との距離を縮めていった。


 史緒と小田桐の目が合う。


 彼は史緒と田中の顔を交互に見やると、目だけで分かったと頷いた。


 曲の終わりと共に、励ますように、田中の手が史緒の指を放す。彼女は白い手を伸ばす。小田桐の細い指が触れた。史緒は勇気を振り絞って、その手を取る。


 次の曲が始まり、会場は再び賑やかな足音に満たされた。


「できれば君たちには会いたくありませんでした」


 小田桐は史緒にしか分からないように苦笑した。


 間近に顔があるのに、史緒はだが、自分でも不思議なことに怯まなかった。その苦笑のせいかもしれない。言うべきことを言えた。


「新条さんは亡くなりました」

「知ってますよ。新聞で読みました」


 寂しげな表情が浮かぶ。追悼の代わりのように、音楽だけが流れる時間が続く。ややあって、史緒は意を決して口を開いた。


「私が新条さんに最期に会ったのは、あの日なんです。小田桐さんと会い、私が倶楽部を紹介してもらったあの日です。翌日以降学校には来ませんでした」

「死因を疑ってるんですか?」


 驚いたように目を丸くする。


「疑ってる訳じゃないんです。探偵の真似事するつもりも、ないです」

「僕もあの日が最期でしたよ。翌日、待ち合わせをしていた白木蓮には行ってみたけれど、会えなかったんです」

「彼女がアルバイトをしてるのはご存じでしたか?」

「ええ。喫茶店で女給をしてるって言ってましたよ。どこかは恥ずかしがって教えてくれなかったけどね」


 新聞の文面を思い出す。死亡場所は書いてなかった。推定死亡日時も、夜から朝にかけてとはっきりしないようだった。佐和子の母にその夜は帰ってきたのか聞いておけば良かったと後悔した。


 その間にも曲は変わり、別の旋律を奏でていた。


 小田桐の言葉に思いつき、尋ねてみる。


「あの、店名を教えてくれなかったというのは、白木蓮ではなかったということですよね」


 佐和子と話していたときの違和感の正体。


 彼女はアルバイトに“出かけた”と、白木蓮で話していた。つまりバイト先は別の場所だったということだ。


「ああ、流石に倶楽部の皆に、女給姿を見せる勇気はなかったんでしょう。僕はその方が安心できると思ったんですけど、もっといい時給の場所があるからって」


 何となく、嫌だな、と史緒は直感した。佐和子が得体の知れない闇に取り込まれてしまったような気がする。


「休みますか?」


 再び曲が終わると、気遣わしげに訪ねられる。緊張のせいか、お互い息は弾んでいる。だが、ダンスが終われば、またきっと蝶々たちが寄ってきて、彼を取り囲んでしまうだろう。


「まだ平気です」


 再び疲れ始めた脚で床を蹴る。流石に他のご令嬢方の視線が痛くなった頃、周囲に目をやっていた小田桐が、はっと息を呑むのが分かった。同時に来客を告げる声が響く。


「清原正一伯爵及びご令嬢、美江様──」


 視線の先を辿ると、中年の父親を伴ったその少女は、人々のどよめきを破って現れた。


 まばゆいばかりの美しさは、佐和子とは正反対のものだった。佐和子を白百合にたとえるなら、彼女は大輪の薔薇。開いた白い胸元と指にはダイヤが輝き、折れそうなほど細い腰からは華のようにスカートが広がっている。


 しかも伴った父親と不釣り合いになるくらい、物腰優雅な様子だ。周囲の視線を一身に集めても動じず、控えめな笑顔を浮かべている。


「身分ある箱入り娘です。ただし誇れるのは由緒ある血筋だけのね。家の財産は傾きかけ、このままでは遺産を食いつぶす一方でしょう。僕の、いわゆる婚約者ですよ」


 初めて知った事実に、史緒は敬語を忘れた。


「ちょっと待ってください、じゃあ佐和子さんは遊びだったんですか?」

「違う」


 小田桐もまた敬語を使わず、言い切ってから、唇を噛んだ。


「いや、君にとっては同じかもしれないな。新華族には歴史がなく、小田桐家は寄って立つところがその財力しかない。裏付けになる血筋が欲しいんだ。僕も家にとっての駒なんだよ」


 佐和子も知っていた、と言葉を続ける。


「だから彼女は俺に一度も、好きだと言ってくれなかったんだと思う」


 美麗な顔には自嘲が浮かんでいた。


「そんなこと……」


 言いかけて史緒は口を閉ざす。死んだ佐和子が好きだと言ってたなんて、普通の神経なら信じられやしない。まして彼には幽霊の佐和子は見えていなかったという。


 何を言うべきか少しだけ考えてから、史緒は怒ったような口調で言った。


「あなたは臆病者よ」


 会話を続けながら二人の目は、先の伯爵がこちらを見ているのを捕らえていた。ボーイを呼びつけて何事かささやくのが見える。ボーイはそれを恭しく頭を下げて了承すると、楽団の所に行った。


 曲がまた変わり、今度は急にテンポが速くなる。ウィーンナー・ワルツ。


「会議は踊る、されど進まず。閉塞した華族にぴったりだよ。皮肉だね」


 踊り続けていたために、二人の息は切れ始めた。史緒の足はがくがくし始め、床に付いたり、付かなかったりした。さほど踊りが得意ではない史緒が続けられたのは、小田桐のリードが上手かったからだ。


 視界の端で、伯爵が娘に何か言っているのが目に入る。娘が無邪気に頷いて、こちらを、正確には婚約者を見付けたのだろう、大きな目を輝かせた。


 彼女を背にした時、小田桐は顔を歪ませた。


「あんなものだよ。僕も伯爵も。君は無謀だけどね。よく知りもしない男の所に手紙を出して、僕が遊んで捨てるつもりだったらどうするんだろうね」

「……覚えてたのね」

「覚えてるよ。それも仕事のうちだから」


 こともなげに言って、真顔に戻った史緒に、また苦笑する。


「やっぱり幻滅するよね?」


 その顔は、史緒が今まで見た彼の表情の中でも一番素に近いのだろう。年頃のどこにでもいそうな少年のものだった。それはあたかも、側にいても手に届かないと思われていた夢の存在が、階段を下りてきたように感じられた。


「佐和子はこんな僕に、一人、ただ一人、幻滅しないでいてくれた。僕はどこかほっとしてるんだよ、彼女の泣き顔を見ないで済むことに──」


 その先を言いかけたところで、小田桐が急に表情を改めた。


「済みません、彼女が来ました。口説かなくては僕の顔も、彼女の顔も立たないですからね」

「また、会えますか。佐和子さんから預かってきたものがあるの」

「分かった、また白木蓮で」


 彼は言い終えると、ダンスの輪を離れた。


 史緒もまた、床に着地して、散った花びらのように壁に張り付いた。


 小田桐は息を整えると、さも今見つけたかのように、天使の微笑を浮かべながら令嬢に歩み寄っていく。疲れをみじんも感じさせない、見事なまでに優雅な足取りだった。


 史緒はふらつく体を椅子に預け、嘘をついたことを少し申し訳なく思った。


 だが、ああ言わなければ二度と会うことはなかっただろう。彼と白木蓮で会うまでに、佐和子の気持ちを伝える方法を何とか探さなければならない。


 それとも、彼を苦しめるならばいっそ言わない方がいいのだろうか?


 考え事をしているとき、横の椅子に男の影が座った。田中だろうかと思って顔を向けると、田中ではなく見知らぬ男だった。軍服を着ているところを見ると、どこぞの華族の子弟だろう。


「柏崎のお嬢さんが珍しいねぇ」


 酒臭い息に、史緒は顔を逸らした。


「カクテルを一杯頼むよ」


 遊女に対するするような物言いに、背けた顔を僅かにしかめてしまう。


「ボーイをお呼びになるか、ご自分で取りに行かれれば?」

「清和の女学生たちは酒をつぐのが上手いと思ってたんだがね」

「……それはどのような意味で仰っているのでしょうか」

「つい先日亡くなった伯爵令嬢の話さ」


 男は、自分でボーイを呼びつけ、カクテルをあおり、次のグラスにも手を伸ばした。


「貧乏伯爵家の新条佐和子だろ。俺も行ったことがあるんだ」

「何処にですか」

「そりゃ、“曼珠沙華”に決まってるじゃないか」


 店の名は聞いたこともなかったが、どんな店かは容易に予想できた。予想していたことは当たってしまったのだ。カフェーの中でも、珈琲やお酒だけでなく、そこに女性の酌や接待を付加価値として金を取る店に違いなかった。中には春を売る店もある。


「存じません。ごきげんよう」


 慇懃無礼に返事をして、席を立つ。まだ息苦しいが、酒臭い空気を吸っているより何倍もマシだ。


 これ以上変な目に遭う前に帰ろうと視線を周囲に巡らせ、田中の姿を探す。いた。


「いやぁ、すみません、どうもどうも」


 田中はご婦人方の輪の中心にいた。どうもそのエキゾティックさが──史緒には怪しげにしか見えなかったが──受けたらしく、田中は史緒に向けていた感情のないに近い冷静な表情など何処かに吹き飛ばして、頭をかきかき、でれでれしまくっている。


 周囲のご婦人方は手に手にアイスクリームの色とりどりのグラスを持ち、熱心に勧めていた。


 史緒はつかつかと近寄り、


「帰りましょう」

「もう帰るんですか」


 彼は表情を消して向き直った。史緒は眉をひそめ小声で、


「もうって、遊びに来たんじゃないのよ」

「全種類制覇してないんですよ」

「は?」

「アイスクリームですよ。今まで食べずにきたんですが、いやぁ、こんな美味しいものが世の中にはあったんですね」


 そう言う彼の顔は、それはそれは、しごくまじめだった。


「で?」

「あずきとフルーツ味がまだなんです」


 沈黙が流れた。


 史緒はずいと近寄ると、上品に彼の腕を取った。


 足を一歩踏み出し、スカートの下で、足を踏みつける。


 周囲に悟られないようにこやかな笑顔をつくり、ドスのきいた声で、


「……ふざけんなおっさん」

「おっさんは心外ですね」

「突っ込むとこはそこなの? いいから行くわよっ」


 史緒は田中の腕を引っ張って、会場を後にする。彼はと言えば、異議を述べるご婦人方に手を振りつつ、またアイス食べに来ますとお気楽な返事をしていた。そしてふと思いついたように、


「そういえば」

「うん?」


 不機嫌に疑問を発する史緒に、彼はうきうきと告げた。


「馬車呼ばないといけませんよね。来るまで、残りを食べてていいですか」

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