第4話 不審な男
佐和子にああ言ったものの、史緒は生まれてこの方オカルト方面にさっぱり興味がない。
家にあった怪談集を読んでみたが、いわゆる一般的な四谷怪談や一つ目小僧なんかが載っているだけだ。翌朝登校してから、同級生に話題を怪談にふってはみたものの、出る話は本の内容と大差なかった。
授業が引けてから学校の小さな図書室に足を向ける。
夕暮れの橙色に染まった空間は、本棚と机から伸びる黒々とした影で、美しいコントラストを作り出していた。
人気がないのをいいことに、あちこちから怪談や伝承、民俗学の本を引っ張り出して机に積み上げる。本の山を切り崩すように頁に目を通していると、背後から影が落とされた。
「随分熱心だな」
「あ、先生」
後ろに、担任の小泉が立っていた。三十代に入ったばかりの教師は、積み上げた本の背に目をやって、
「進路希望書を出してないのは、同級でお前だけだぞ。面談には出しておくようにな」
「済みません」
頭を下げる。忘れていたわけではないけれど、何を書くべきか迷って、机の引き出しに入れたままになっていた。
頷くと、小泉は一度出て行って、すぐに手に湯飲みを持って戻ってきた。
「冷めないうちに飲んで、帰りなさい。女学校は良き家庭婦人の育成を旨とする。広く浅く、それ以上の学問は必要ない」
かちんときたが、仕方ない、優等生としては気にしないふりをして頷くしかない。
小泉が出て行ってしまってから、役に立ちそうな本を見繕い、奥のカウンターから自分の図書カードを取り出し、一人で借りる手続きを済ませる。
──もういいや、お茶飲んで帰ろう。
そう思って机に振り向いたとき、そこにはどこかで見た覚えのあるような顔が立っていた。
書生姿の男は、湯飲みからお茶をぐいと飲み干して、
「いただいてます」
至極まじめな顔でそう言った。
「あなたはどこかで会いました、よね」
相手が否定しないので、記憶を探る。そう遠くない過去に会ったことがある。そうだ、白木蓮で会った倶楽部の人だ。
「白木蓮の、倶楽部の人ですよね?」
男は黙って頷く。
「でも、ここ、女学校ですよ?」
校門には警備員がいるし、学校関係者以外の男子は立ち入れないことになっている。
「家族がここに通っているんですよ。帰りが遅かったので中に入れてもらいましたけど、何とか大丈夫だったようです。一応俺も教師なので、すんなりいきました」
「はぁ。それで、どうして図書室に?」
「あなたを捜しました。ですが話は後です。厄介なことになる前にここを出ましょうか」
厄介なこと。思い当たって、史緒の顔は赤くなった。夕日が顔を染めて分からないのが幸いだ。
「逢い引きとか思われても困るので、誰かが来ないうちに帰りましょう」
男は恥ずかしげもなく言うと、史緒を学校の外に連れ出した。
「あの、私も用事が……」
「いいじゃないですか、珈琲を飲むくらいの時間はあるでしょう。自己紹介が遅れましたね。わたしは田中といいます。はい、あなたも自己紹介してください」
「……柏崎です」
「柏崎史緒さんですね。これから宜しくお願いします」
「あの、何をよろしくですか? 倶楽部なら、まだ入るって決めてないのですが。っていうかどうして私の名前知ってるんですか? どこ行くんですか?」
「一気に質問されても困りますね。耳の方は聖徳太子並なんですが、口は一つしかないんですよ。空気の関係で喉から声が出るなら、人類はいつか鼻で喋れるようになるんでしょうかね」
「一気に言わなくていいです」
「じゃあ、まず名前から。どうして知ってると思います?」
一瞬史緒はむっとしたが、彼がからかうような口調ではなかったので、正直に答えてみる。
「新条さんが私の話をしたとか」
「どこに行くと思います?」
「珈琲ですよね。常連の白木蓮じゃないですか?」
「倶楽部に入るのは保留と回答をもらいましたね。では、それでも行こうとするのは、何の話をするからだと思いますか」
「新条さんの家に行った女学校教師って、あなたですか」
「ええ……新聞で読みまして、行きましたよ」
史緒はぴたりと足を止めた。二人の影は後方に長く伸びる。夕暮れは熱い光を投げかけながら、地平線に沈もうとしていた。
「どうしました? 全部答えましたよ。全問正解です」
「知らない人に飴をもらってもついて行っちゃいけないって、きつく言われてますから」
「自己紹介をしたんですし、知らない仲でもないでしょう」
「話ならここで伺います」
史緒は相手の両目を見据えたが、薄茶の、黄金色がかった瞳は彼女に何の感情も読み取らせなかった。
「困りましたね」
田中はくせ毛の頭をかきながら、言葉とは裏腹に、全く困った風もなく言う。
「誘拐犯扱いされるのは心外です」
「立ち話で済む用なら付いていく必要もないでしょう」
「そうですね、では。……小田桐君は、今夜の伯爵婦人開催の舞踏会に出るそうですよ」
「それを報せに、図書室までわざわざ探しに来たんですか?」
再び史緒はむっとしかけて、務めて冷静に振る舞った。駄目だ、最近怒りっぽくなっている気がする。史緒の感情を、彼が知るはずもないのに。
「あなたの所にも招待状が届いているのではないかと思いまして」
「確かに届いていますが、何か」
たとえ届いても、ゴミ箱行きが大半だ。どうしても両親の付き合い上必要な場合には顔を出すけれど。
「お伴させていただけないかと思いまして」
「あなたが?」
史緒は改めて田中を見回した。
やたら煙草を吹かしてばかりいる中年の某子爵と名乗る男やら、少ない髪に色の合わない付け毛を巻き、コルセットで無理矢理ウエストを締め上げた某男爵夫人やらが跳梁跋扈する鹿鳴館。彼らに比べれば、若い将校に化けられなくはない。
「女性のあなた一人で行くのも不審でしょう」
不審なのはそっちだと言いたいところだが、確かにそうだ。行くつもりもないし、父親も兄も欠席の予定になっている。というか、一家揃って、滅多に舞踏会なんて行かない出不精の人間だった。
「まぁ、準備できるのであれば、知り合いということにして連れて行ってもいいですけど」
「良かった。では七時に馬車でお迎えに上がりますね」
どこで服や馬車を調達してくるつもりなんだろう。
では夜に、と彼は手を振って駅の方に向けて歩きかけて、振り向いた。
「ところで、灰被り姫(シンデレラ)の童話を知っていますか?」
「勿論知ってますよ。有名な筋は、継母に虐められた少女が、魔法使いの助けを借りてお城の舞踏会に行き、硝子の靴を落としたのがきっかけで王子様と結ばれるって話でしょう」
「その続きは知ってますか?」
「続き?」
「結ばれた後、二人はどうなったか。魔女はどうなったか」
得体の知れない、今まで聞いたことがない声音に、背筋がぞくりとした。
史緒は顔を見ようと目をこらしたが、逆光で表情は分からない。
声におびえを混じらせないように、ゆっくりと答える。
「いえ、知りません」
「じゃあ、どうしてお話がそこで終わっているか考えてみたことは」
「ハッピーエンドだからじゃないんですか?」
「誰にとっての?」
「誰って、それは」
灰被り姫にとってじゃないか、そう言おうとしたときには、後ろ姿は雑踏に紛れて見えなくなってしまっていた。
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