第3話 死者との再会

 女学校名簿から住所を書き写したメモを片手に、史緒は放課後の夕暮れの道を歩く。


 暦の上でも実際も間違いなく春だったが、朝から太陽は厚い雲に覆われ、うららかさとはかけ離れた、肌寒い道のりだ。


 新条伯爵家は、史緒の家とは白木蓮を挟んで丁度三時の角度にあった。


 商店街を抜けた住宅地には平屋の一軒家が軒を寄せ合うように連なっている。その一つに新条の表札を認める。


 木戸を叩くが返事はない。しばらくして、どちらさまですか、と細い女の声がした。


「柏崎と申します。新条佐和子さんと同じ清和第一の級友です」


 沈黙が少しあり、その後木戸はがたがたという音を立てて開く。


 木戸から姿を見せた中年の女は、赤く腫れた、少したれた目の辺りが佐和子と似ていた。黒い喪服に身を包んだ体は服に着られているように小さく見える。


「新条さんのお母様でいらっしゃいますか?」

「ええ。あの子のこと、学校で聞いたの?」

「はい。こちらは名簿で知りました」

「どうぞ上がってください」


 短い廊下の先の障子を開けると、八畳の和室の奥に黒い仏壇が据え付けられていた。半分ほど燃えた線香の、くゆる煙の向こうに、真新しい位牌が置かれている。


 史緒は手を合わせ、蝋燭の灯りを移した線香を、灰の上に立てた。再び手を合わせて作法に則ってお悔やみの言葉を述べる。


「死んだのは、一昨日の夜から朝にかけてでした」


 佐和子の母は、鬱々とした声で淡々と話した。


「心臓発作だと伺いましたが」

「ええ。体が特別弱いわけでもなかったのに。お医者様も首を傾げてらっしゃいました」

「そう、ですか」

「佐和子は……新条さんでしたね、時折あなたから借りてきた本を夜遅くまで読んでいました。それくらいしか楽しみもなかったんでしょう。私の体が弱く殆ど床にいるのもあって、学校の後に仕事をして帰ってきて。私はあの子には苦労をかけてばかりで、何もしてやれなかったんです」

「仕事ですか?」


 史緒は聞き返した。とても女学生がするようなことではない。


 佐和子の母はためらうように視線を惑わせた後、


「お恥ずかしい話ですが、夫が事業に失敗しまして、その、今は就職先もあり、何とか暮らしていけるのですが、とても女学校の授業料が払える状況ではなくなってしまったのです」


 しかし中退すれば今までの数年が無駄になってしまう。それで佐和子は自分で授業料を稼いでいたのだろう。卒業さえすれば、女子高等師範学校への入学資格が得られる。教師になるならば授業料免除付きで。


「仕事というのは何をしてらしたかご存じですか」

「ええ、カフェーで……何と言ったかしら、白木蓮で女給をしていると。マスターがよくしてくれていると言っていました」

「そうですか」


 史緒は頷いてみせた。が、それは嘘だと思った。佐和子の母は嘘をついているようには見えないが、一般的な女給の時給で、果たして女学校の授業料がまかなえるのだろうか。心に留めておいて、別の質問を投げてみる。


「さっきの話ですが、誰か学校の関係者がこちらに伺ったのですか?」

「ええ、女学校の師範をされている方が見えられました」


 史緒はそれから、学校での佐和子との少ない思い出を一つ二つ、何とか思い出して話した。


 思い出せる事柄がなくなった頃、それではそろそろおいとまします、と言って、新条家を辞し、その足で白木蓮に向かう。


 佐和子の母の瞳からは話している間中、涙が浮かんでは零れ、ハンケチで拭われていた。


 その仕草に心が痛んだ。史緒は、佐和子の死を知ってから、少しだけ泣いた。それだけだ。むしろ──喜んでいないと、言い切れただろうか。


 級友として少しの好感を抱いていた。白木蓮に連れて行ってもらったことに、これから友達になれるのかな、とほんの少し期待した。だが白木蓮で見た佐和子と悠人のどこか親密そうな空気に、少しの嫉妬もしていなかったと、言えるだろうか。


「どうでもいい」


 呟いて思考を無理矢理断ち切った。今は同じ学校だから、だからしょうがなく報せに行く、それだけだ。


 白木蓮の扉をくぐり、席を見回す。この前座った窓際の奥は空席のようだった。


 小田桐を捜しながら、まだ来ていないことにどこかほっとしながら、女給に席を指定して案内してもらう。


「こちらの紅茶と──」


 メニューを受け取って目を上げたところで、史緒は言葉を失った。


 入り口からは観用樹の陰になって見えなかった席に、彼女は座っていた。


「ご注文は……?」

「あの、彼女にも──」

「お二つですか? ポットでお持ちしますから、三杯分くらい入ってますよ。もし後でお連れ様がいらっしゃるなら、冷めないように準備だけしておきますけれど?」


 女給は、彼女の存在など無視したように、疑問の表情で聞いてくる。


 彼女を見ると、口に人差し指を当てて、静かに、のポーズを取っている。


「済みませんでした。紅茶とドーナツをいただきます」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 女給がオーダーを出しに行ってしまってから、史緒は小声で呼びかけた。


「し……新条……さん?」


 彼女はどこからどう見ても、新条佐和子そのものだった。長い艶やかな髪に、控えめそうな顔立ちに。


 不自然なのは──いや、家に帰っていないなら自然と言うべきか──最後に見たときと同じ格好をしている、それだけだ。


 女給はやはり佐和子のことを無視して、紅茶とドーナツを史緒の前に置いていく。


 何を言うべきか、しばし逡巡して、


「ドーナツ、食べます?」


 我ながら間抜けなことを言った、と思いながら暖かいプレーンドーナツを半分に割ると、佐和子はありがとう、と笑ってから首を振った。


「もう食べられないの。死んじゃったから」

「……死んじゃったから?」

「良かった、知ってる人に会えて。死ぬ前のことはこれから何したいか、決めてたけど、死んだ後どうすればいいかなんて、誰も教えてくれなかったんだもの」


 佐和子は、佐和子の顔をして、三日前までからは考えられないように朗らかに笑った。


 とりあえず、史緒は頭を下げる。


「ごめんなさい、あんな風に店を出て行ってしまって」


 佐和子の最後の記憶に残る自分は最低な女でもおかしくない。


「ううん、気にしてないわよ。それより柏崎さんが私を見つけるなんて意外だった。他の人は誰も気付かなかったのよ」

「え……じゃあ。やっぱり、死んで……?」

「そう。死んじゃったから。だから……だから、誰にも見つけてもらえなかった。ほら、こんな風にね」


 佐和子はそう言って、テーブルに手を置く。その手はゆっくり天板の中に沈んでいく。そして全て埋まったところで、手を水面から引き上げるように天板から抜いてみせた。


 史緒は絶句し、それから紅茶で渇いた口の中を湿らせると、


「ごめん、よく分かんない」


 ぞんざいな本音が出た。


「そうよね。私だって意外だもの。生き返れるものなら生き返って、この体験を本にして、一発当ててみせるのに」


 佐和子もまた、ぞんざいな口調で意外なことを言った。


「新条さんて、そんな性格だったっけ?」

「死んだら色々ね、すっきりしちゃった」

「そう、なんだ」


 史緒の描いている白百合のような佐和子のイメージに亀裂が走ったような気がした。が、元々彼女のことは大して知っていたわけでもない。何より自分も猫を被っていたんだし。


「でも、自縛霊って言うのかな、このお店から離れられなくなっちゃったの」

「うん」

「約束してた小田桐さんも私に気付かなかった」


 寂しそうな微笑を佐和子は浮かべた。


「あの、死因は心臓発作だって聞いたんだけど」

「柏崎さんと別れたあの日は私、あれからみんなと少し倶楽部で話をした後で夕方からアルバイトに出かけたのよ。それから先は覚えてないわ。だから死因が何だったかも、分からないの」

「そうなんだ」


 史緒の中で何か引っかかったような気がしたが、違和感の正体はつかめなかった。


「それにしても、驚かないのね」

「これでも充分驚いてるよ。あの……丁寧語を忘れるくらいには」


 死人と話しているのは充分不思議な気持ちがするが、見えてしまうのも話してしまえるのも本当だからしょうがない。


 史緒はそう思うことにした。


「でも自縛霊ってことは何か思い残しがあるからでしょう?」


 疑問を口に出すと、佐和子は長いまつげを伏せてか細い声でええ、と返事をする。


「実は少し前から、小田桐さんとお付き合いしていたの」


 少し前というのが春休み前なのか、直前なのか、後なのか。知ったところでどうにもならないと、訊きたい衝動を抑えて、続く言葉を待つ。


「でも、私は一度も言ったことがなかったの」

「何を?」

「……好きだって、言えなかった」


 佐和子は両手で顔を覆った。


 手の間から涙がこぼれる。幽霊の涙は、幽霊の膝の上で溶けて消えてしまった。


「もう一度だけでいい、逢いたい。わがままなのは分かってる、でも、もう一度だけ逢って伝えたい」


 絞り出すような、佐和子の掠れた声に、史緒は本心の半分とは違う返事をしていた。


「分かった、何とかしてみるから」

「本当? いいの?」

「何とかなるわよ、多分、だけど。私とだってこうやって話せるんだもの、小田桐さんと話せないわけないよ!」


 思わず声が大きくなって、周囲の人が何事だというようにこちらを見た。

 史緒は慌てて咳払いをして、ドーナツを口に詰め込んだ。


「ありがとう」


 顔を上げた佐和子は、やっぱり、見とれるほどの清らかな笑顔だった。


 史緒はドーナツをむしゃむしゃと咀嚼するのと一緒に、余計な言葉を飲み込んで、自分の間抜けな姿がどう映っているか考え、


「ううん、気にしないで」


 精一杯、清らかで汚れない女学生のふりをして見せた。

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