第2話 新学期

 新学期に入った。


 家庭婦人の心得などの長々しい始業式の挨拶と、休み中の課題の提出など諸々が済んで、史緒がブーツの足下をふらつかせながら廊下に出ると、見知った顔が小走りに近づいてきた。


「お姉様、どうしてお休み中、お返事をくださらなかったのですか」


 目を潤ませた下級生の子羊だ。慌てて名前を思いそうとしたところ、畳みかけられて思考を遮られる。


「私、お待ち申し上げておりましたのに! こんなにお慕いしておりますのに」

「えぇと──」


 顔は覚えている。ふわふわした癖毛が悩みの二年下の女の子だ。確かまっすぐなぬばたまの黒髪が憧れですだの、琥珀のように煌めく瞳にチャームされた、とかいう文面の手紙を去年の秋頃から渡され続けていた。


 夢二やら華宵やらの浪漫チックな便せんに、一言で済むことを虚飾の限りを尽くして述べられた手紙を、少女趣味だと切って捨てるにはまだ史緒自身も少女だったが、大分辟易させられている。


 それとなく止めるように言ったり、手紙でもやんわりと避ける返事をしているのだが、乙女というのはそんなものでも、後生大事に枕の下に引いて眠るとかいう返事を寄越すのだから始末が悪い。素直に断ればいいのだろうが、手紙を渡してくるのは、傷ついてその場で泣き出しかねないような少女ばっかりだ。


 嗚呼、“面倒くさい”──これほどまでに心情を端的に表すことのできる単純明快シンプルで人口に膾炙した言葉が、今まで市民権を得ても市長になれなかったのは何故だろうかと首を傾げるほどだ。名誉市民くらいにはしてあげてもいい、と個人的に思っている。


 それでも学校の期間中には簡単な返事をしていたが、休み中は気が抜けてすっかり忘れていた。史緒も失恋したばかりで心はささくれ立ち、言葉を選ぶ余裕がなさそうで、むげに断るのも気が引けるから落ち着いた頃に、などと考えてそのままにしていた。春の新作レターセットで書かれた桜色の手紙も、どこかに埋もれているだろう。


 何とか言い訳を考えようとしていたとき、廊下の先から声がかかった。


「柏崎さん、先生が呼んでいらっしゃるわよ」

「分かったわ。では申し訳ないけれど、ごきげんよう、また今度ね」


 史緒は何とか下級生を振り切り、おさげの少女の元に矢絣の小袖を翻して駆け寄った。


「ありがとう、新条さん」

「いいのよ」


 新条佐和子は、みごとな緑の黒髪に、通った目鼻立ちの、ちょっと気後れしてしまいそうな美人だ。山吹色の小袖に、濃い緑の袴の、すがすがしい色が似合っている。だがその小袖も袴も、よく見ればかなり着古されているのが分かる。


 彼女は新条伯爵家の令嬢だった。伯爵は二年ほど前に事業に失敗し、今は伯爵家とは名ばかりの庶民に成り下がってると噂されていた。


 その娘たる彼女は、身分の自負からくるものか、普段は大人しく目立たないのに、人に同調することも少なく、人をどこか寄せ付けない雰囲気で、級友たちからはすましてるなんて陰口をたたかれて、遠巻きにされる存在だった。


 それに時折出る共通の話題、親の事業や財産のあれこれの話には加われないし、春の新作の着物も、ましてやレターセットなんて持っているところを見たこともない。誰も話を振りにくいのだった。


 史緒も何度か本を貸し借りしたことがあるくらいで、たいして話したことはないが、彼女の誰にも媚びない、自分の意見をはっきり言う態度は何となく好ましく思っている。


「いいえ、助かったわ」

「彼女、可愛いわね。下級生?」

「ええ。二年下で、その、名前、名前は──そう、中村さん……いえ、早川さんだったかしら」


 ……駄目だ、喉まで出かかっているのに思い出せない。


「柏崎さんは下級生に人気があるものね」

「そうかしら?」

「ええ、有名よ」


 彼女は桔梗のように控えめに微笑んだ。


「あなたを訪ねて、下級生が時折来るのよ。机に手紙を置いていくのを見ることもあるわ。私は、教室の中にいることが多いから」

「そうかもしれないわね、何でかしら」

「柏崎さんは優等生だけど、どこか小さい子のような、放っておけない雰囲気があるのよね」


 それは下級生と同じようなレベルだから親しみやすいってことなんだろうか。


 思わず真顔で見返すと、佐和子は驚きもせず、意外なことにくすくすと笑っていた。こんな顔ができるんだ、と見直してしまうほど、優しげで楽しそうで、思わず史緒も本音を漏らしてしまう。


「私、姉妹ごっこ(エス)には興味がないのよ。妹も特別欲しくないし、兄も二人いるから兄弟はもう充分」

「それを知ったらあの子たちが寂しがるわね」

「どちらにしても今年一年で卒業よ。親しくしても、いなくなったら余計寂しいと思うわ」

「分かっているからこそ、思い出のよすがに、憧れのお姉様からお手紙を貰いたいんじゃないかしらね」


 佐和子こそ姉みたいなことを言うなと史緒は思った。


「卒業か……」


 このまま学校内に留まってもまた下級生に捕まるだけだろう。史緒はそのまま佐和子と一緒に登下校口に向かった。


「卒業後の進路は決まってらっしゃるの?」


 聞いてしまって良いものだろうか、と思いながら、つい質問してしまう。


「私、高等師範女学校に進学するつもりなの」

「新条さんは先生になられるの?」

「ええ」


 迷いもなくしっかりと、彼女は頷いた。


「そのために学校に行かせてもらってるのよ」


 確かに、高等師範女学校は、今通っている高等女学校卒業が入学資格だ。そして、彼女がその進路を選ぶ理由も予想がついた。その学校は、卒業後、教師になるのを前提に授業料を免除される。逆に言えば、授業料免除の上就職も保証されているということになる。


 噂で聞く柏崎伯爵家の経済状況と彼女の生真面目さを考えれば、それはふさわしい進路に思えた。


「柏崎さんは?」


 逆に聞き返されて、史緒はどきりとして、言葉をさまよわせた。


「私──私はまだ、決めていないの」


 そう、と返事をして、佐和子は何かを考えているようだった。やがて校門をくぐった頃、ふいに、


「柏崎さんはもう帰宅されるの?」

「ええ。何か?」

「良かったらカフェーに寄って行きましょう。いいお店を知っているのよ」


 寄り道は校則上御法度だった。


 女学校で品行方正・成績優秀を自認していた史緒は、寄り道をしたことはない。


 だがそれは本当は、寄り道をしてまでしたいことがなかっただけだ。寄り道を一緒にしたいと思える友人もいなかった。


 史緒に向けられる佐和子の笑顔は何も含むところがなく、たまにはいいかな、と、史緒は人生初の寄り道をすることにした。


 彼女の言ういいお店──神田の裏道にひっそりとたたずむカフェー“白木蓮”は、ボックス席の上からカラフルな電灯が下がっている、モダンな内装の店だった。


 窓際の、しかし外からは見えない観用樹の陰の席を慣れたように陣取った佐和子は、縞模様の着物にフリル付きのエプロンを付けた女給さんからメニューを受け取った。


「どれにする?」


 開いたメニューを、二人して額を付き合わせるようにのぞき込む。


 どうやら珈琲がメインのお店らしかった。軽食はライスカレーやサンドウィッチなど、基本的なところは押さえてある。


「ミルク入りの珈琲にするわ」

「じゃあ、注文するわね」


 佐和子は女給を呼ぶと、珈琲二つ、一つはミルク入りで、と注文した。


 芳香の昇り立つ白いカップが二つテーブルに置かれると、彼女は史緒が飲むのを黙って見ていた。


「どう、口に合うかしら」

「え……ええ」


 そつなく頷こうとして、言葉に詰まってしまう。佐和子は気を悪くした風もなく、


「無理しないでいいのよ」

「うん、多分美味しい……のだと思うの。でもごめんなさい、珈琲自体の味の違いが分かるほど、飲んでいないものだから」


 佐和子は飲み慣れているのだろう、砂糖も入れずに濃い褐色の液体を平然と口にした。史緒であれば苦くて顔をしかめそうなところだ。


「新条さんはよくカフェーにいらっしゃるの?」

「たまによ。ここで活動する倶楽部に参加しているから」

「……クラブ……?」

「異国の方は、カフェーで趣味や奉仕を共通の話題にして交流なさっているそうよ。日本でも銀座では、作家の方たちや文士の方たちが文学談義に花を咲かせていらっしゃるらしいの。その真似事よ。もっとも、文学だけじゃなくて、色々なことを話し合うのよ」


 学校での佐和子は、もの静かな優等生で、休み時間も本を読んでいるか勉強しているかのどちらかだった。史緒が貸し借りしたことのある本も、普通の女学生が読むような本だ。倶楽部などという進歩的な趣味を持っているとは思わなかった。


「たとえば、最近読んだ本や、洋装のこと、お料理のこと……時には政治のことも。取り留めのない話もあるけれど、役に立つことも沢山あるのよ」

「私たちの学校では聞いたことがないけれど、他の女学校の方もいらしてるの?」

「学生の方だけではないわよ。それに男の方もいるの。だから学校には内緒よ」

 佐和子はそう言うと、視線を扉の方に向けた。


 丁度ベルを鳴らして入ってきたのは詰め襟の男子学生で、背丈は標準身長の史緒より少し高いくらいの小柄な少年だった。こちらに気付いたのか、つかつかと近寄ってくる。


「お待たせ」

「柏崎さん、こちらは小田桐さん。お隣の高等学校に通われているのよ。小田桐さん、こちらは女学校の級友で、柏崎さんよ」


 史緒は目を丸くしてじっと小田桐という学生を見ていたが、佐和子の声に含まれた微妙な色香に、


「はじめまして、柏崎史緒と申します」


 取り繕って初対面を装うことに成功した。


「……はじめまして、小田桐悠人です」


 彼も、にっこりと、人なつこい笑顔を浮かべ、童顔に似合った幼い柔らかい声で挨拶する。


 史緒はほっとしたような、少し残念な、小憎らしい気分になった。


 彼──小田桐悠人は、春休み前に史緒をふったその人だった。自己紹介されなくても知っている。何年も前から。が、あちらは史緒のことなどきれいさっぱり忘れていても不思議はない。


「今日は一人?」

「後から先生も来るって言ってましたよ。──あ、お姉さん、僕も珈琲一つください」


 何気なく注文する仕草も様になっていて、美少年の笑顔に、女給の顔がさっと赤くなる。それに、佐和子の頬も心なしかまた、白百合に朱が差したようだった。


 佐和子はその後も倶楽部について説明してくれるが、史緒の尻は落ち着かない。小田桐の分の珈琲が来る前に自身のカップから飲み干してしまうと、腰を浮かせた。


「あの、実は今日用事があってもう帰らないと──ひゃっ!」


 立ち上がりかけたところを背後から肩を叩かれて、史緒は奇妙な声をあげた。


「やぁやぁ、新人はえび茶式部のハイカラさんですか」


 振り向くと、立っていたのは背の高い男だった。年齢は、史緒より幾つか上、いや、もしかすると十くらいは上だろうか。和服の中に白い立襟シャツを着て袴と草履をはいた書生風の出で立ちも相まって、年齢不詳の感を、見る人々に与える。


「そんなところで立ってないで座ったらどうです? すみません、女給さん、珈琲二つ」

「あの、いいです、私もう帰りますから」


 史緒は猫を被るのも忘れて、五銭銅貨をテーブルに叩きつけるように置き、そのまま、目を丸くしている女給の横を駆け抜けた。


「柏崎さん、待って」


 引き留めてくれるのは、嬉しくないわけではない。ただ二人を見ているのが辛くて、心臓がぎゅっと捕まれたような気分になる。何となく分かってしまったのだ、二人が恋人同士だということを。


「ごめんなさい、せっかくだけど──急がないと待ち合わせに遅れるから」


 待ち合わせる人なんていないのに、下らない嘘が口をついて出た。


 その後で取って付けたように自分で理由をひねり出す。


 そう、早く帰ってまるの世話をしないと。


「新条さん、また明日学校でね」


 申し訳なさそうな佐和子の顔を振りきって、史緒はカフェーの扉を押し開けた。


 しかし家に帰っても、まるは何処かに出かけているのか、姿は見えず。


 学校で佐和子の顔を見ることは、再びなかった。


 翌日も、その翌日になっても、無遅刻無欠席の優等生だったはずの佐和子の姿は、教室にはなかった。夜、何の気なしに親が読んでいる夕刊を覗き込んだとき、彼女を見つけた。


 女学生変死──見出しの下に書かれた、新条佐和子のその名を。

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