灰被リ姫(シンデレラ)ノ魔女

有沢楓

第1話 うららかな、春の日

 屋敷を取り囲む小さな庭は、花壇もなく、菜園や畑がその殆どを占めていたが、たった一本だけ、古い桜の木がある。


 一人の老女が春うららかな昼下がり、微笑みを浮かべて、眠るように息を引き取った。葬儀を終え主を失った部屋の西向きの窓からは、手を伸ばせば届くところに、桜の枝があった。


 日だまりで、一匹の三毛猫が丸くなっている。日が傾いてそこが日陰になる度に、口を開けてあくびをすると、丁度良い位置を探してまたしばらくまどろんだ。


 横では少女が、猫を起こさないように静かに、荷物を段ボールに詰めていた。その手は、時折何か考えているように眉根を寄せるためにしばしば中断した。


 それでも、元々私物を持たない人だったから、衣類や使いさしの化粧品、本や手紙などを詰めてしまうと、六畳ほどの扇形の洋間は閑散とした。


 家具にしても、ベッドにビューロー、椅子、それに窓辺に揺り椅子があるだけだ。


「史緒さん、片付けは終わった?」


 扉が軽くノックされて少女が振り向くと、母の八重が立っていた。身内の葬儀の最中も前後も、変わらずどこか間延びした声で、


「早く階下した に降りていらっしゃい」

「はぁい」


 史緒は気だるげに返事をし、段ボールを部屋の片隅に積み上げる。


 無造作な動作がうっかりどんと大きな音を立てた。寝言を言っていた三毛猫の耳はぴんと立ち上がり、びくんと体を起こすと、きょろきょろと辺りを見回した。


「ごめんね、まる」


 まると呼ばれた猫は、ふにゃあぁ、とあくび混じりの抗議の声をあげると、史緒のシャツの胸に飛び込んできた。慌てて両腕で受け止める。


 この雄猫は部屋の主であった史緒の祖母が拾ってきたそうで、彼女が物心ついた頃から家にいた。両親に言っても同じ答えが返ってくるので、いつから家にいるのか、何歳なのか、正確なところは分からない。


 祖母が他界してからしばらく家出をしていたが、世間一般の噂通り猫は家に居着くものらしく、この部屋にいつの間にか戻ってきていた。


 まるを抱えて一階の食堂に降りると、テーブルに着いて新聞を読んでいた若い男が顔を上げた。新聞を畳んで、湯飲みから緑茶を一口すすると、


「終わったか? ……ってなんだその格好は」


 優しげな顔を不機嫌にして、抗議の声をあげた。


 史緒は、口を閉じてさえいれば、端正な顔だちをしているお嬢さんに見える。


 長いまつげに彩られた大きな二重の眼に、薄く透き通った茶色の瞳、すっきりと通った鼻に小さい薔薇色の唇。


 それも今は台無しだ。艶やかな髪をリボンで無造作に縛った上、彼が着古したシャツに、見たこともないだぶだぶのハーフパンツをはいている。よくよく見ればこれも古いズボンを途中で断ったものだった。


 十六の年頃の娘にしてはあるまじき格好だ。


「これ? 宗二お兄ちゃんの、お母さんに貰っちゃった」


 史緒は屈託なく歯を見せて笑った。


「貰っちゃった、じゃないだろ。母さん?」

「いいじゃない、どうせ捨てる予定だったんだし、家の中の掃除用にしておけば」


 母に助けを求めるも、八重もまた史緒よりは上品にだが屈託なく、笑う。


「あのなぁ。腐っても柏崎男爵家の一員であるお前が、」

「あらあら、名前負けして腐ってるんだからいいじゃない」

「そうそう、御一新のお情けで華族にしてもらったはいいけど、持ってるのはこの家と変わらぬ官職だけじゃない。他の方々みたいに上品ぶっても今更よ」


 史緒に続いて再び八重が、息子に遠慮なく言い放つ。


「あなただって、そんなひげ似合ってもないんだから、無理して生やすのやめちゃいなさいよ」

「全く、うちの女どもは……」


 宗二はため息をついて、本人も不本意に伸ばしている口ひげを鬱陶しそうに撫でた。


「これが優等を貰ってる女学生の言葉かよ」

「女学校じゃ、猫被らないと浮くんだよ」


 史緒が椅子に座ると、八重がテーブルにうさぎ型に切ったりんごを置く。


 まるをひざに抱きかかえ、左手で喉をくすぐりながら、右手でりんごをかじる。


 その様子を見た兄には再びため息をつかれたが、兄が本心ではそれほど嫌がっていないのを知っていたから、構うことはない。それにこうなった理由には育った環境も十分にある。


 柏崎男爵家──明治の御一新以降の改革で、華族と定められた階級・公候伯子男爵の末席のランクに位置するも、財産と言えば神田にほど近い場所にある、この小さな洋館と土地だけ。


 誇れるのは古くから続く血筋だけで、平安時代は図書寮で書物や紙墨の管理をしていたという。これが役職の名前や役割は少しずつ変えつつも、大正も二桁になった今まで続いている、官職であり家業だった。


 現在の当主である兄妹の父、八重の夫である柏崎男爵も、図書の管理をして過ごしていた。


 その仕事柄か、家には様々な書物雑誌、古典から発禁処分を受けたはずの号の『青鞜』まで平然と本棚に並んでいた。両親も咎めることがなかったので、史緒兄妹もそれらを読んで育っている。最近のお気に入りは『文芸倶楽部』で連載中の『半七捕物帖』だ。


「そうだろうなぁ。ところで、片付けの方は進んでるのか」

「あとは私の荷物を入れるだけ」


 祖母が亡くなって、二階の角部屋は、史緒の部屋になる予定だった。今まで使っていた部屋の陽当たりが悪いので、そちらはいくらあっても足りない書庫に最適と、家族会議で全会一致で可決していた。部屋は若干狭くなるが、彼女自身、桜が見える日当たりの良い部屋は祖母の生前から気に入っていた。


 ついでにまるの面倒も、主に史緒が引き受けることになったが。


「そっちこそ、何でこんな早く帰って来てるの」


 時計を見れば、まだ午後三時を過ぎたばかりだ。


「今日はまた東京の方に行かなきゃならないから、一旦着替えに寄っただけだよ」


 宗二は答える。確かに、スーツはところどころ皺になってるが、シャツは洗い立てで糊が効いているようだった。


「社会人は大変ねー」

「おい、棒読みだぞ。ちっとも思ってないだろ」

「そんなことないよ。ただ……」

「ただ、何だ?」


 ──ただちょっと、羨ましいからいじめてみたくなるだけだ。


 史緒はりんごと一緒に言葉を飲み込んで、何でもない、と首を振った。


 りんごに次々と手が伸ばされて、器は瞬く間に空になった。いつの間にか、まるも小さなリンゴの欠片を両手で押さえて食べている。


 史緒は耳の間を撫でながら、ぼんやりと考える。


 猫のように気ままにもなれないし、兄のように父の仕事を継ぐこともできない。


 もう十六歳、高等女学校も五年のうち四年を過ごしたというのに、未来はまるでぼんやりとして掴み所がない。


 職業婦人になるには、まだ自信が足りない。良妻賢母のための授業は、役に立たないことはないけれど、どうせ家庭人になるのだからという前提で成り立っている。他の職業婦人たちのように世間の荒波を乗り越えてやっていけるのか分からない。


 もう少し決断を先に延ばすために、勉強だけはしておいて選択肢を増やすことしか思いつかない。


 それに、勉学は何となく性に合っていた。どうせならこのまま学問を続けて、帝国大学を受験でもしてみようかとも思う。巷では女の学問は生意気だとか言われてはいるが、女子大学生のきりりとした姿は憧れる。相当な学力が必要だというし、尤も、親の承諾がなければ始まらない。この際に立ちはだかる一般論は“どうせ結婚して家庭に入る”から、“高度な勉学など必要ない”という点で、自身も今どうしてもしたい学問があるかというと否だ。


 かと言って他の女学生たちのように、卒業したら花嫁修業をして、親の決めた、家の格に釣り合った相手と結婚する──放任主義の両親が強制するとは思えなかったが──ことや、そうでなくても誰かの奥さんになることを、当たり前のように受け入れることも、夫婦生活を想像することもできなかった。


 それに、春休みに入る前に……失恋したばかりだった。


 相手は女学校のすぐ側にある高等学校の生徒で、女学生にとってはそこそこの有名人。上級生から下級生まで黄色い声をあげる、小田桐子爵家の次男だ。


 御一新で勲功を立てて華族の仲間入りをした新華族で、旧家からは新参だとか蔑まれたりすることもあるけれど、家柄だけの名ばかり華族が多い中で、実家が金持ちで、姑の面倒を見なくて良い次男坊ということで人気があった。だけでなく、何より紳士的で女性に優しいので誰からも好かれるタイプの人間だ。


 そんな彼のどことなく陰があるところに惹かれたものの、人気があればあるだけ恋敵の数も多く、おまけに彼自身が誰にもなびかないので、見事告白して玉砕したというわけだ。


 あれは今思い出しても若気の至り、痛恨の出来事だった。


「そんなことより」


 思考が嫌な方向に行ってしまいそうなので、強引に話題を変える。


「桜子おばあちゃんの部屋、狭くないかな」

「狭くなるのは承知で入るんだろ?」

「そうなんだけど。何て言うか、こう……なんか間取りが変って言うか」


 荷物を整理していて思ったのだが、廊下の長さと部屋の広さが合っていないような気がする。隣の部屋に入ってみればいいのかもしれないが、かつての祖父の部屋は今両親の寝室になっていて、滅多に入ることもない。


「そうか? 全然気付かないけど。母さんは?」


 八重は唇に手を当ててうーん、と考え込み、


「何も変じゃないと思うわよ。壁が厚いからかしらねぇ」

「そっか、気のせいかな」


 りんごを食べ終えたまるが頭をもたげ、史緒を見上げた。その目は何となく真剣に見える。史緒はどうしたのかと思って注視したが、彼は口を開けたかと思うと大きなあくびをした。拍子抜けした彼女は、まるを日当たりの良い床の上に寝かせてやる。


「じゃあ、また片付け始めるよ。ごちそうさま」


 史緒は二階への階段を登って行った。

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