第6話 帰路での襲撃

 鹿鳴館を出る頃には、夜十一時を回っていた。 


 田中は、お土産に包んでもらったアイスクリームを抱えて、馬車の座席でにやにやしている。史緒があきれ顔でため息を吐くと、彼はまた真顔に戻った。


「どうしました」

「どうしました、じゃないわよ。何しに行ったか覚えてるの」

「何か聞けましたか」


 ──何だ、覚えてるんじゃないか。彼女は心の中で悪態をついた。とはいえ、言っていいものかどうか逡巡する。が、結局、史緒は小田桐と話した一部始終を、田中に話すことにした。


「成程。彼女があの日、白木蓮の後に行く可能性があるのは、その店だと」


 史緒自身は幽霊の佐和子から、行く予定だったところまでは聞いてあるが、流石にそこまで話すわけにはいかない。あくまで可能性として話を進める。


「そこでトラブルに巻き込まれたんじゃないかと思うんです。確証はないですけどね。店じゃなくて、店の外での客とのトラブルかもしれないし、帰り道かもしれないし」


 良き家庭婦人の育成──東京で目指された女性教育の最たる目標がそれだった。


 けれど。女性には処女性を求めつつ、花街は発展しいかがわしいカフェーは減る様子もなく、そこで働く女性を必要とした。好んで働く女性ばかりではとてもまかなえないくらいに。故に騙され身を落とした者もいた。


 あるいは信じた異性にもてあそばれた挙げ句死を選ぶ者もいた。


 職業婦人が上司や取引先に体を求められた話なども、警鐘として婦人雑誌に告白する女性もいた。先進的であることは貞淑でないと見られることも多い。


 小田桐悠人が史緒に指摘したのも、その種の軽佻浮薄さだ。正しくは、軽佻浮薄と決めつけられ、家庭婦人になる前のモラトリアムを構築する学校内のあの特殊な雰囲気。


 史緒も、その辺のご令嬢と変わらないと指摘されるのは確かに愉快ではなかったが、生きるために将来を見据え、自身で道を決めた佐和子に比べたら、背負っているものも覚悟も全く違うのは確かだった。彼は、そんな佐和子だから恋人にしたのだろうか。


 考えても分からないが、そんな女学生の一人の自分でも、苦しいものは苦しい時がある。あの日振り切ってしまった桜色の手紙の下級生に、落ち着いたら返事を書こうと決めた。


「それにしても、どうしてあなたは、そんなに彼女を気にするんですか?」

「え?」

「同級生が心臓発作で亡くなった。お医者様が判断されたんでしょう。別にあなたがどうこうするものじゃないと思うんですが。終わったことなんじゃないんですか」

「それは──理由を話しても」


 笑われるに決まっている。幽霊に頼まれただなどと誰が信じるだろう。


「理由を聞かせてください。あなたは彼女をダシにして小田桐君との縁を繋げるほど、器用ではなさそうですしね」

「まさか。それを言うなら、同級生でもない、倶楽部仲間のあなたが、どうして新条さんを気になさるんですか」

「痛いところを突かれましたね」


 ちっとも痛くなさそうに言う。このときには彼の飄々とした雰囲気に、史緒も大分慣れてきていた。表情はいつも無表情に近いが、内面ではそれなりに感情があるらしいのも分かる。未だに女学校の教師だとは信じられないが。


 が、ふいに、馬車が止まって会話は打ち切られた。史緒はカーテンを開けて外を覗こうとして、手で制される。


「出ますよ」

「へ?」


 手を捕まれたと思うと同時に、転がり落ちるように夜の闇の中に投げ出されていた。


 何とか地面に着地したとき、背後で硝子の割れる高い音が響く。土埃に咳き込んで見上げた時、視界に映ったのは、馬に倒れ込むようにしなだれかかっている御者の姿だった。


 慌てて周囲に視線を走らせるが、暗闇の中、ぽつぽつと道の両側にともる瓦斯ガス灯によって、道がぼんやりと浮かび上がっているだけだ。月は細く、糸杉のように頼りなかった。 


 見える範囲での人影は二人以外にない。もっとも、商店街の軒先に、道ばたに積み上げられた台車の影にと、隠れるところはいくらでもありそうだった。


 周囲を、まるで見通すように目をこらしていた田中は、


「もう大丈夫のようですね」


 座席を確かめるようとする史緒をまた手で遮った。


「嗅がない方がいいです。しかし困りましたね。レンタル代も結構したんですが……」


 視線も遮るようにして馬車の中を一人で見る田中に、史緒は背伸びして、背中越しに覗き込んだ。細部までははっきりとは見えないが、ベルベットの座席は破れ、床では液体が湯気を立てていた。アイスクリームの入った箱だけは奇跡的に無事だった。


「これじゃ馬車には乗れませんね。徒歩でお送りしま……っと」


 田中はふらついて、馬車の側面に手を突いてしまった。


「どこかひねったの?」

「いや、ちょっとめまいがしただけです。これでも繊細で通ってますので」


 史緒は手を伸ばす。ぺとり。額は、酷い熱があった。


「熱あるじゃないですか」

「ちょ、ちょっと」


 史緒は抵抗する田中の脇の下にするりと入り込むと、体を担ぐように支えて夜道を歩き出した。見覚えのある周囲の風景からすると、家まで徒歩で十分もない距離だ。男一人抱えても、三十分もかからないだろう。


「いいからちゃんと歩いて。重いから」

「面目ない……あ」


 思い出したような声をあげる田中の顔を、心配そうに覗き込む。


「どこか痛い?」

「折角いただいたアイスが溶けちゃいますよね」


 覗き込んだ顔を引きつらせながら、史緒はまた顔を正面に向けた。


「どんだけアイスが食べたいんですか」

「三食アイスでもいいくらいです」

「そうですか。しかし見た目の割には軽いですね」

「あー、そうですか。気のせいですよ」


 長身の男性を一人抱えているというのに、大して重くない。こんな場合にはむしろ歓迎すべきだったので、史緒もそれ以上追求はしなかった。


 住宅街の端に、二階建ての小さな庭付きの建物がある。外から見て、辛うじてお屋敷と呼べる家の門扉に辿り着くと、彼は体を起こして、もう帰ります、と言った。


「恩人にそんなことできないわよ」

「御者の人もそのままにするわけにはいきませんし」

「後で家の者に迎えに行かせるから」

「一人で帰れますから。流石にお屋敷に上がり込むわけには」

「先生が一緒に舞踏会に行くことは家族に話してあるから、大丈夫」


 もう家人はどうせ寝静まっているのだ。今日一日はゆっくり眠れるだろう。明日になって弁明すればいい。ノッカーを叩くと、


「まぁまぁ、どうされたんですか? そちらの方は一体?」


 住み込みの女中が寝間着の上に羽織った綿入れを胸の前でかき寄せながら、寝ぼけ眼で扉を開けてくれる。


「舞踏会の帰りに物盗りに遭ったの。危ないところをこの方に助けていただいたのよ。体調を崩されたみたいだから、今夜は泊めてあげて。それから、通りにまだ御者が倒れてるかもしれないわ。誰か人をやってくれないかしら」


 年老いた女中は、皺の深い目を見開いて、おろおろと頬に手を当てる。


「それはとんだことでしたね。お嬢様もそちらの方も、お怪我はございませんでしたか」

「怪我はしてないわ、大丈夫よ」


 頷いてみせると、女中は胸に手をやって、ほーっと長い息を吐く。


「それは不幸中の幸いでした。そうそう、お部屋ですけど、今空いているのは応接間のソファしかございませんよ」

「祖母の部屋が空いてるでしょう。そこに布団を敷くわ」


 まだ史緒の荷物は入れきっていないので、空き部屋になっている。


「私が彼を運ぶから、水を持ってきてくれない?」


 片腕を手すりに付く田中を支え、短い階段を上がり、片付けたばかりの祖母の部屋の扉を開く。電灯を付ける。まるを起こしてしまうかと思ったが、今夜はここにはいないようだった。


「ちょっと待っててくださいね」


 一旦窓辺の椅子に座らせて、ベッドに来客用の布団を敷く。ベッドの縁に座らせてると、彼は靴を緩慢な仕草で脱ぎ、倒れるように転がった。掛け布団を被せていると、


「お薬と水をお持ちしました」


 丁度女中が薬箱と水差しと桶、タオル等一式を大きなカゴに入れて持ってきてくれた。


「ありがとう」


 受け取って、ベッドに向き直った時、半ば叫ぶような声が背中に浴びせられた。


「まあ、お嬢様! それはどうなさったんですか!」


 視線を辿り──ぞっとした。


 ドレスの盛り上がった部分が、溶けて、千々に破られていた。


 もし田中が手を引いてくれなかったら、逃げるのが遅れていたら、服だけでは済まなかった。


「何でもない、大丈夫。両親には明日話すから言わないでおいて」

「でも、警察に通報した方が宜しいんじゃないですか……?」


 不安げな女中を何とかなだめて部屋から追い出し、体重をかけて扉を閉めると同時に、史緒はその扉にもたれるようにずるずると床に座り込んだ。

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