第6話

 言霊は人を縛るだけでなく神魂を持つ存在をも縛る。それが世のことわりであり、竜神であっても逃れることはできない。


(本来、言霊を意識する人などいないのに……)


 それなのに千尋はしっかりと理解していた。知っている・・・・・のではなくわかっている・・・・・・のだ。これでは逃れようがない。当初はわたしのほうがその力をもって千尋を嫁にと考えていたが、蓋を開けてみればわたしのほうが脅されているような状況じゃないか。


「竜神を脅すとは……」

「脅すなんて人聞きが悪い。僕は心の底から神様が好きなだけだよ。だから五歳のときから花嫁修業を続けてきたし、男同士のやり方だってしっかり学んできた」

「穢れることなく学ぶなど、できるはずがない」

「いまはインターネットがあるからね。何なら動画で見ることもできるよ? 見る?」

「見るか、たわけが!」


 思わずそう叫ぶと、千尋が「真っ赤な顔もかわいいね」と喜んでいる。


(なぜだ……なぜこうなった)


 わたしはかわいいあの女の子を嫁に迎えようと思っただけだ。そうすれば一人前の竜神として認められ、はな垂れ小僧と嘲られることもなくなる。嫁がいれば着物の心配をする必要もなく楽しい日々が送れるに違いない、そんな期待もした。

 それなのに嫁にと考えていた少女は立派な体躯の男に育ち、毎晩のように竜神であるわたしに夜這いをかけてくる。何をどうすればこんな目に遭わねばならなくなるのか理解できなかった。


「もしかして神様、抱かれるのが怖い? 初めてだから?」

「っ」

「そっか、そうだよね。初めてなら神様でも怖いよね。神様だって怖いものは怖いだろうし」


 千尋の言葉にムッとした。いまの言葉は、まるでわたしを侮る竜神たちのようではないか。


「何を言っている。わたしは竜神だぞ? 竜神が、たかがそんなことを恐れるはずがないだろう」


 そうだ、怖いと思うのは許可なく勝手に行動を起こそうとする心持ちがわからないからだ。決して行為自体が怖いわけではない。そもそも竜神であるわたしが人ごときを恐れるはずがないではないか。


「本当に? 怖くない?」

「怖いはずないだろう」

「そっか、そうだよね。だって神様は神様だもんね。人が怖いはずないよね」

「もちろんだ。竜神が人を怖がるなど、あり得ない」

「そうだよね。ごめん、僕の勘違いだった」


 そうだ、竜神たるわたしに恐れなどない。まだ若輩ではあるがわたしも気高き竜神、人に恐れを抱いたりするはずがないのだ。


「じゃあ、これから神様を抱くけど大丈夫だよね?」

「……は?」

「もし神様を怖がらせてるなら大変だと思ったんだけど、怖くないなら平気だよね? それに、そろそろ見極めもできたんじゃないかなと思ってたところなんだ。僕の料理もいろいろ食べてもらったし、僕が縫った浴衣も気に入ってくれたみたいだし」

「だから、それはいま見極めているところで」

「神様だから、僕のことなんてすぐに見極められるはずでしょ? だってほら、神様なんだし」


 そこまで言われると「まだだ」とは言いづらい。


「もちろん僕の気持ちは変わっていないよ。五歳で初めて見たときから僕の中は神様でいっぱいになったんだ。僕には神様しかいないし、こんなに好きになるのは神様だけだ。僕が好きになる神様は、神様だけだよ」


 そう言って手を取られ、指先に口づけされる。その瞬間びりりとした痺れが体を貫いた。


(これは……まさか信仰心か?)


 神魂を持つ存在は信仰心で存在を保っている。だから多くの神と呼ばれるものたちは社殿などの棲まいを作り、人々の信仰心を集め、それを糧に神通力を育て強い存在になっていく。竜神は主に山や森などを社殿代わりにするが、わたしは都会生まれだからか田舎暮らしに馴染めずいまだに社殿の一つも持っていなかった。

 おかげで存在し続けるのもやっとの状態だった。体も小さいままで神通力も弱い。だからほかの竜神たちはわたしを嘲り「はな垂れ小僧」と笑う。嫁すら取れない未熟者だとからかわれ続けてきた。


「僕は一生涯神様だけを想う。五歳のあの日から僕は神様のことだけを想ってきた。それはこれからも変わらないし、死ぬまで神様のことだけを想い続けるよ」


 吐息が触れる指先が熱い。びりりとした痺れは熱に変わり、腕を伝って体を熱くする。これが信仰心によるものなのかはわからないが、強烈で深い思いがじわじわと体に染みこんできた。


「神様、大好きだよ。だから僕をお嫁さんにして?」


 そうつぶやいた千尋が再び指先に口づけた。途端に熱が膨れ上がり体の隅々まで行き渡る。それはとても熱いもののはずなのに、まるで霊山の清々しい清水に体中が満たされるような感覚だった。


(千尋の気持ちはなんと心地よいのだろう)


 これも稀にみる穢れのない魂魄だからだろうか。そうだとすれば、二十年前のわたしの心眼はますます正しかったことになる。可憐な女ではなく逞しい男に育ったのは予想外だったが、これほど強くわたしだけを思い続ける存在などほかに見つかるとは思えない。

 それなら千尋を嫁にするのが一番よいような気がした。夫婦和合については追々考えるとして、たしかに見極めはもう終わらせてもよいだろう。そう思い、千尋の手をそっと握り返す。


「かみさまではない」

「神様?」

「わたしの名は海那うみなだ」


 海から遠い人の街で誕生した竜神だというのに、わたしを見つけた竜神は何を思ったのか海の文字を名に入れた。その名もこれまで呼ばれたことはない。人に信仰されたことがない竜神の名を呼ぶものなどいないからだ。


「うみな……綺麗な名前だね」


 名を呼ばれて体の芯がぞわりとした。肌が粟立つような感覚と武者震いのような高揚感が一気に体内を駆け巡る。


「うみな、僕をお嫁さんにして?」


 再び指先に口づけた千尋が上目遣いでそう囁いた。わたしは神酒に酔ったような感覚になりながら、小さく一度だけ頷いた。

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