第5話

「結婚するには交わらないといけないって言ったの、神様だよね?」

「だからといって襲うやつがあるか!」

「襲うなんて人聞きが悪い。僕は神様とちゃんと結婚したいだけだよ?」

「とにかく一度離れろ! 浴衣をめくるな痴れ者が!」


 千尋の下から慌てて這い出し浴衣の合わせを握り締めた。こんなことならパジャマのほうを選ぶべきだったと後悔する。


(いや、パジャマでもボタンを外されれば同じか)


 つまり千尋の家にいること自体が危ういということだ。


(竜神であるわたしが身の危険を感じるとは何事だ)


 しかも相手は人だ。同じ神魂を持つ神が相手ならまだしも、人ごときに恐れを成すとは竜神としての尊厳に関わる。そう思っていても、大きな体にのし掛かられ浴衣をめくられそうになると自然と体が震えてしまった。


「竜神たるわたしが……人相手に……」


 言語道断の出来事だ。わずかに震えが残る手に力を入れグッと拳を握る。


(最初の六日は何事もなかったのに、最近はこんな夜ばかりではないか)


 六日の間、千尋は甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。それが油断を招いたに違いない。


(これなら嫁にできると思っていたのに、なんということだ)


 千尋は想像以上にできた嫁だった。食べて害のないものなら何でも口にできると知った千尋は、毎日様々な料理をこしらえた。見たことがあるもの、初めて食すもの、味わったことがないもの、すべてが極上で供物のようにわたしを潤した。

 わたしが好んで嗜む大吟醸も肌触りのよい浴衣も、檜の湯船や枕元の白檀香まで至れり尽くせりだった。「なるほど、人の嫁とはよいものだな」と何度感心したことだろう。

 ところが七日目の夜、状況が一変した。前日と同じように湯を使って浴衣に着替え、床に入ってしばらくすると誰かがふすまを開ける音で目が覚めた。部屋は暗かったが、足音で千尋だとすぐにわかった。


(こんな夜更けにどうしたのだ?)


 そう思って目を開けると、千尋が無言で覆い被さっている。何事かと思い「千尋」と名を呼ぶと「しっ」と口に指を当てられた。


「神様は僕と結婚するために来たんだよね?」

「一応そういうことになるな」

「神様と結婚するには交わらないといけなんだよね?」

「そう……だな」


 夕餉のときに、竜神と人の婚姻について聞かれたのでそう答えた。竜神だけでなく、神魂を持つ存在と人が婚姻するには体を交える必要がある。そうして神の力を人の魂魄に与えることで、人は神に近しい存在に変わり嫁になることができるのだ。

 そういえば、この話をしたとき千尋の目がやけに輝いていた気がする。


「僕は早く神様のお嫁さんになりたいんだ。五歳のときからずっとそれだけを願ってきた。むしろそれ以外で僕が生きてる意味はないと思っていたくらいだ」

「待て。嫁にするかは見極めてからだと言っただろう」

「大丈夫。これからも僕は神様しか好きにならないし、神様のお嫁さんとしてしっかり働くから」


 暗いなか、千尋がにこっと笑ったのを感じた。その気配に背筋がぞくっと震える。


(神魂に害を為すような気配は感じないが……)


 竜神を貶めようだとか滅ぼそうだとかいった害意も感じない。それなのに得体の知れないものを感じ、なぜか体が動かなくなった。

 困惑している間に、大きな手が浴衣の隙間からするりと入ってきた。そうして何かを確かめるように膝を撫で始める。そのままするすると動いた手が太ももを撫でたところで「こ……の、痴れ者が!」と腹を蹴り上げた。それが三日前の出来事だ。

 その日以来、何度諭しても怒っても毎晩千尋が床に忍び込むようになった。千尋いわく「お嫁さんが夜這いなんてみっともないかもしれないけど、早く結婚したいから」ということらしいが、これが女なら夜這いでも何でもドンと受け止めただろう。


「しかしおまえは男だ。しかもわたしを、だ……抱こうと、しているだろうっ」

「うん」

「……っ!」


 迷うことなく頷いた男の頭目がけて枕を投げつける。それを片手で受け止めた千尋が「大丈夫、ちゃんと勉強したから」と言って枕元の灯りを点けた。


「あ、もちろん実践はしてないから安心して」

「……何の話をしている」

「だって、神様のお嫁さんになるには穢れがないほうがいいんでしょ? じいさんがそんな話をしてたのを覚えてたから、ちゃんと操を守ってきたんだ」


 あの趣ある家を取り壊しこのマンションを建てた千尋の祖父とやらは、どこぞの大学で教鞭を執っていた学者だと聞いた。主に民俗学や伝承を調べていたそうだが、神話や異類婚姻譚なるものにも傾倒していたらしい。


「人の世の寝物語と我らを一緒にするなっ」

「でも、実際そうなんだよね?」

「それはそうだが……。だからといって、おまえを嫁にすると決めたわけじゃない」

「でも、神様は僕と約束したよね? あのとき僕は五歳だったけど、指切りして約束したのはちゃんと覚えてる。それなのにお嫁さんにしてくれないなんて、言霊を裏切ることにならないかな」

「……っ」


 まさか人の口から言霊という言葉が出てくるとは。おのれ千尋の祖父とやら、余計な知恵を与えおって。思わず鬼籍に入っている顔も名も知らない男を罵りたくなった。

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