第13話 「一緒に寝よ……?」

 水晶玉の形をした読書灯が、部屋の幽闇ゆうあんを暖かな光で照らし上げる。

 騒々しさから逃れるように、ジンは自室でベッドに横たわり本を読み耽っていた。

 ページをめくっていると、居間の方で皿を割る音や金切り声の悲鳴と怒号が聞こえたりもしたが、疲れていたので素知らぬふりをして読書を続けた。

 

 「……ふぅ」


 ある程度読み終えたあたりで本を閉じ、胸元に置いて天井をぼうっと見上げる。

 その擦り切れた本の表題には、夢天界の文字で“現人史伝”と記されていた。


(どんなところなんだろうな……現人界って)


 ジンの所有する書物の大半は、現人界の文化や歴史が著されたものだった。

 天人は学校で、必修科目として現人界についてのあらましを学ぶ。加えて、監察官ともなれば仕事柄〈星域〉や漂着物を通じて、より詳しい情報を知る機会は多々ある。

 しかし、ジンを含めた多くの天人は、その生涯において一度たりとて本物、つまり生の現人界をお目に掛かれることはない。

〈セブンス・ヘヴン〉の〈儚遠鏡ぼうえんきょう〉を使えば現人界の市井を覗き見ることはできるものの、それは一部の要職に就く者など、限られた人間にしか許されていない行為だ。

 そうした事情もあり、大なり小なりジンのように現人界に関心を寄せる民衆は、書物を始めとした数少ない情報源によって知的好奇心を満たすしかなかった。

 ジンが両手で本を掲げ、表紙に描かれた富士山の絵を鑑賞する。


「いいよな……日本かぁ……」


 中でも、ジンの心を惹き付けてやまなかったのが日本という国だった。

 平和で、食べ物は美味しく、夢天界とは違って四季折々の移ろう景色がある。現人界にはたくさんの国と文化があり、そのどれもが魅力的ではあった。だが、とりわけ日本に関する事柄に、何とはなしに強い興味を抱いた。

 ウィルがメカマニアなら、ジンは日本マニアといったところだ。


「……って、こんなこと考えてる場合じゃないんだけど……」


 頭を振り、身体を起こしてサイドテーブルに本を置く。

 ベッドに腰掛け、左手首に輝く腕輪を見て、小さく溜め息をつき頭を抱えた。

 とりあえずキルシェ関連の急場は切り抜けたとはいえ、どれも一時しのぎに過ぎない。これから彼女をどうするべきか、自分はどう立ち回るべきなのか。ミントとの不仲をどう取り持てばいいものか。それと、この目立つ腕輪はいつまで着いてるのか。

 明日も早くから仕事だというのに、ジンの悩みは尽きない。


(あーダメだ……なんかもう面倒くさくなってきた……)


 そして、堂々巡りの思索を放棄してジンが読書灯を消そうとしたとき、


「……あれ?」


 出入り口のドアがぎしぎしと鳴りながら、少しばかり開いた。


「……誰?」


 返事はない。立ち上がり、半端に開いた扉に近づく。

 ぐっとドアノブを引いて開け放ち、廊下を見回すが誰も居る気配はない。

 夜も深まり、廊下には神妙な静けさと青白い月明かりが満ちていた。


「おかしいな……」


 首を傾げ、扉を閉め直す。ベッドに戻り布団を捲ろうとして、はたとジンは気が付いた。鼻を抜ける、甘くしっとりとした石鹸の香りに。


「ジ~ン!」


 ジンが悪い予感を抱くより早く、キルシェが背後からガバッと抱きついてきた。

 ほぼタックルなハグでベッドへ押し倒され、キルシェに馬乗りされる。


「ちょっ……ヒッ、ヒリングさんっ!?」

「ねぇ、ジン。一緒に寝よ……?」


 そう言って微笑むキルシェの頬には、ほんのりと朱が差していた。彼女は正絹しょうけんで織られた薄桜色の長襦袢ながじゅばんを羽織り、襟元をはだけさせている。

 彼女の艶っぽく繊細な長い指が、ジンの頬を愛おしく包むようにふわりと触れた。

 

「ふふ、あたしさぁ、こういうの夢だったんだよね……なあ、いいだろ?」


 キルシェの蕩けた面差しが、距離を狭めていく。


「……あたし、誰にでもこんなことする女じゃないんだよ? ジンが心を許してくれたから……あたしも、相応のものをジンに許してあげるってだけ」

「ボ、ボク、何もそういうつもりじゃ……」


 二人の、胸の鼓動が早まる。


「結魂した、ってことはそういうコトなの。適格者だろうと、心の扉を開いた相手じゃなきゃマリアンジュはできないんだから。嬉しかった……やっと、あたし……」

「だ、だめだめ、だめですってっ! だからって、そんないきなり……っ!」


 ジンは顔を赤らめて背け、クロスした腕をぶんぶんと振って叫んだ。


「なんだよぉー……あたしとじゃイヤなのか?」

「い、嫌じゃ……ないですけど……こ、こういうのは、ちゃんと段階を踏んで……!」


 ムッと唇を尖らせるキルシェの両肩を押して遠ざけ、ジンが上体を起こす。

 息を整えてキルシェと落ち着いて話し合おうとしたが、膝の上に乗る彼女の豊かな胸元が不意に目へ飛び込み、また慌てて顔を逸らした。

 キルシェが腕組みし、ふくれっ面で愚痴をこぼす。


「むぅ……いいじゃんか、添い寝くらいさー……」

「えっ……?」


 ジンの目が点になり、ぱちぱちとしばたたく。


「添い寝? そ、それだけですか?」

「うぇ? それだけ……って、ふふ。な~に考えてんの、ジン?」


 キルシェが口元を押さえて笑いをこらえ、ニヤニヤとジンを見る。

 ジンは自分の勘違いに顔から火が出そうになり、肩をすぼめてうつむいた。


「ち、違いますよ……! ぼ、ぼかぁ別にっ……むぐっ?」


 もごもごと口ごもり目を泳がせたのち、顔を上げて言い訳を並べ立てようとしたジンの唇を、キルシェが人差し指を当てて塞いだ。

 

「別に……いいんだよ? ジンがどうしてもって言うなら……」


 キルシェは蠱惑的な目つきでジンの首に腕を回し、抱き寄せる。上気して汗ばんだ柔肌の感触と熱っぽさが伝わり、ジンは瞳孔を開きぐるぐると目を回す。

 彼女の指先がさらさらとしたジンの黒髪を啄むように撫でて、隙間から溢れた。


「だっ、だからっ……だめ、だめですよっ、ヒリングさん……っ!」


 喉の奥から絞り出すような声が出る。キルシェの火照る吐息が、耳元を湿らせた。


「やだ……キルシェ、って呼んでよ」


 甘い囁きと匂いに誘い込まれ、脳が沸騰しかけていたジンの両手は行き場を求めてふらふらと空中をさまよい──ぴたりと止まった。

 背中に冷たい汗が流れる。


「……? どうしたの、ジン……」

 

 急に一時停止したジンを怪しみ、キルシェがジンの視線の方向に目を向ける。

 ほどなくして、彼女も顔を引きつらせ凍りついた。


「…………あっ……」


 ミントが居た。

 半開きになった出入り口のドアから、ミントは射殺さんばかりの鋭い眼光をこちらに飛ばしていた。彼女の抱きかかえていた子犬ベルムートが、ぎりぎりと締め上げられ苦しそうに悶えている。


「……泥棒」


 ミントがめちゃくちゃに睨みつけながら、ひっそりと吐き捨て、扉を閉めた。


「…………」


 部屋にしばしの沈黙が流れ、キルシェは照れくさそうに頭を掻いた。


「……どうしよね?」

「どうしよねじゃないですよ!?」


 膝の上のキルシェを力なく押しのけて起き上がり、ジンはがっくりと肩を落とす。


「お……終わった……何もかもが……」


 頭がオーバーヒートして訳が分からなくなっていたとはいえ、一時の気の迷いでとんでもない誤解を生む(?)場面をミントに見られてしまった。

 他人に蔑まれるのは慣れたものだが、妹に軽蔑されるのだけはキツ過ぎる。

 しなしなの抜け殻になっているジンを、キルシェがとってつけたように励ました。


「……ま、まあ、大丈夫じゃない? だってほら、まだ何もしてないし……」

「そういう問題でもないんですって……というか、ミント“泥棒”って言ってましたよ!? ヒリングさん、なんかバレるようなことしたんですか!?」

「ふぇっ? し、してないしてない!」


 疑われたキルシェがぶんぶんと両手と首を振って否定し、


「……食糧庫には、忍び込んだけど」


 両手の指を突き合わせて、伏し目がちに小声で言った。


「してるじゃないですか盗み食い!」

「いや食べてないから。目で楽しんだだけだから! ホント特になんもなくて、そもそも食べようなかったから!!」

「余計なお世話ですよ!!」


 ジンとキルシェが言い争っていると、ドアがもう一度、半分だけ開いた。


「いいから二人とも……早く寝なよ。明日も早いんでしょ?」

「「……ハイ」」


 ミントに光のない目で微笑みかけられ、二人はこくこくと頷いた。

 ──その夜、ジン家の屋根の上にはフテ寝するキルシェの姿があった。


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