第3話 「お兄ぃじゃないとダメなの!」
「それでは皆さん、ごきげんよう。エルドの加護があらんことを」
「さよなら、バーバラせんせー」
「加護あらんことをー」
これから日も傾こうという頃、郊外の一角にある平屋建ての前にて。
バーバラと呼ばれた妙齢の女性と、彼女が引率していた子どもたちは簡単な別れの挨拶を交わす。
ある女の子はバーバラや近くの年長者を真似て、胸元で両手を斜め十字に重ね合わせ瞑目する。その一方で、別の幼い男の子はまだ手つきもおぼつかず、早々に諦めて元気よく手を振った。
子どもたちの年齢はばらばらではあったが、皆一様に純白のケープに身を包み、本が何冊も入った手提げ袋を肩に掛けている。
「またね、バーバー先生」
「その略し方はやめなさい」
軽口を叩いた子に一瞬、バーバラは笑顔を崩さないまでも眉間へ皺を寄せる。聖母が般若に変貌する空気を感じ、口にした当人は「ヒィッ」と足早にその場を離れていった。他の子たちも各々、姉に手を繋がれたり友達同士で談笑をしながら、それぞれの帰路に着く。
「はぁ、まったくもう……逃亡犯のせいで大変よ、早く捕まらないかしら」
やんちゃな子どもたちの見送りを粗かた済ませ、腰に手を当てて溜め息をつく。被っていた頭巾を外し、紺のロングスカートに付いた埃をはらう。
彼女の名はバーバラ・バーディネット。エルドレムダに二種類ある学校の一つ、エルド神学校に勤める教師兼シスターである。
今日は一日の勤務を終え、帰宅ついでに生徒たちの集団下校に臨時で付き添っていた。なにやら上からの話によると凶悪犯が街を逃走中だとかで、道中でも何度か、司法局や監察局の治安部隊が乗る夢素式フロート・バイクとすれ違った。
今も遠く彼方、街の中心部の方で微かにサイレンの音が聞こえる。
嘆くのも一息つき、スカートを翻して玄関の年季が入った戸に手を伸ばそうとした彼女の視界の片隅に、ある郵便物が見えた。
「……あら? いけない、気付かないところだったわ」
***
「ふぁ……んーっ、けっこう寝れたなぁ」
西日を浴びて、ジンは大きく背伸びをした。殺風景な部屋に置かれたお気に入りのふわふわベッドの前に立ち、寝間着姿で軽くストレッチをして念入りに体をほぐす。
朝方にウィルと別れた後は、帰宅してすぐ泥のように夕方まで眠ってしまった。
生活リズムの崩壊も甚だしいが、ジンにとっては数日に及ぶ任務を終えてようやく自室でリラックスして熟睡できたのだから致し方ない。なにより、こんなことは監察局に従事する者には日常茶飯事だ。
なお例によって、夢は見れていない。
「あ、おはよう。おかえりバーバラさん」
私服に着替え、水でも飲もうと廊下に出ると丁度帰って来たバーバラが玄関にいた。バーバラはバーバラ伯母さん、と呼ぶとマイルドに怒るし、下手に略すとハードに怒るのでジンは長いこと“さん”付けで呼んでいる。
彼女曰く20代だからオバサンではない、らしい。
「おはよう……じゃないけど、まあ、いいわ。はい、これ」
バーバラはそう言って、手作りクッキーの入った袋と、ヨレた封筒を手渡してきた。
「なに……これ? ボクに?」
「クッキーはうちの生徒からミントのお見舞いに。手紙はジンくん宛てよ。なんか入ってるみたいだけど」
「わかった。じゃあ様子見がてら渡してくるよ、最近ろくに顔も見れてなかったし」
「そうしてあげて。私は夕ご飯の準備しちゃうから」
荷物をジンに任せ、バーバラが古い木造の床を軋ませて台所に消えていく。
ジンは受け取った縦長の封筒──何か小さい物が封入されている、しかも滲んでてよく分からないが果たし状と表に書いてある気がする──をしげしげと眺める。確かに石か何かが入っているのか、膨らみがある。
なぜか一度水に濡れて乾いたかのように皺が付いていて読みにくいが、宛名はアカリ・ジンで間違いない。差出人の記載がないのを不審に思いつつ、注意深く封筒を開ける。
「……?」
中に入っていたのは、何の変哲もない石ころだった。手紙の方も筆字で書かれていたことは分かるが、文字の汚損が激しく欠けた部分が多すぎる。
「アカリ・ジン様……こ……結……マリ……リン………だめだ」
皮肉ではなく本当に達筆なのも相まって、読み取るのが難しかった。色々と気にはなったが読むのは一旦諦め、手紙の方は丁寧に畳んで、石と一緒にポケットへ収めてから目当ての部屋に足を向けた。
家の奥の一室、浮き彫りの施された木製ネームプレートが吊るしてあるドアを二回ノックし、声をかける。親しき仲にも礼儀あり、である。というか、ウィルがかつて語っていた姉との失敗談が恐かったので、以来ジンも気をつけるようにしている。
「ミント、起きてる? 入るよ」
一呼吸おいて、ガラガラ鳴る音が聴こえてから「いいよー」と返事があった。
恐る恐るドアを開けていくと、隙間から見えたのは本と木切れがいくつも積まれた机。小ぶりなノミや金槌、彫刻刀も何種類かが置いてあった。机の中央には開きっ放しの本と、作りかけと思われる花のレリーフが放置されている。
ベッドの布団は捲れ上がったままで、ほんの少し開いた窓からは隙間風が吹き込んでいた。床を見やると、指先ほどの小さなネコの木彫り人形が転がっている。
「お・か・え・り、お兄ぃ!」
「どわぁっ!?」
人形を拾い上げようと屈みこんだ脇から、つんざくような声が耳を貫く。体が跳ね上がり耳を押さえて振り向くと、木製の車椅子に座った少女──ジンの妹、ミント・バーディネットがケタケタと楽しげに笑っていた。
「なんだよ……心配するだけ損した」
「あははっ、ごめんね。今日は調子よかったからつい」
「それでつい、勉強もしないで木彫りに夢中になってたってわけかな?」
「うぐぅ」
ジンのつまんだネコ人形が顔の前でふるふると振られ、ミントは頬を膨らませて目を背ける。髪を左右で二つに結ったミントグリーン・ヘアを握りしめ、深緑の瞳を潤ませたさまがなんともあざとい。
そのゆるりとしたシルエットの水色のパジャマには、少々木屑が付いていた。
(でもよかった……
〈夢素循環阻害症〉という病がある。
万物の素でありエネルギーでもある夢素は、空間と生命を形作る根幹となる物質だ。人間の体と〈星域〉──肉体と見えない糸で繋がったある種の外部器官とも言える──においても夢素が双方を常に循環することで、その量や質は調節され、個々人に適した均衡を保っている。
まるで海から雲へ、雨から川へ、そして再び海へという地球上の水の循環システムにも似た人間の基礎構造が異常をきたす病、それが〈夢素循環阻害症〉である。
ミントはこの病によって、幼い頃から肉体への適切な夢素の供給が不安定な状態にある。洪水や干ばつといった異常気象が常に起きているようなものなのだ。日々大きく変動する負荷に耐えられず、彼女の身体は虚弱なものとなってしまった。
今では歩くこともままならず、普段はこうして木製の車椅子を使っている。
なおミントはその造形美にどうやらいたく感動したらしく、時々勉強の合間をぬっては彫刻作りに興じているようだった。兄としては気晴らしになるなら良しだし、近頃は贔屓目抜きに、ミントの作品はスキルも上がってプロ顔負けのクオリティだと感心していた。
全くもって、どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹……いや、考えたら辛くなってきた。やめよっか、この話。
「ねぇ、それよりなになに、その手のやつ! おみやげ?」
「ああ、このクッキーはミントの友達から。いつもの子じゃないかな」
ジンからクッキーの袋を受け取り、中身を見てミントは顔を輝かせる。
「わっ、これマカロンだよ、マカロン! ルグスタフ風の! かぁわいいなぁ……」
ちょっと何言ってるかわからないが、ミントが嬉しそうなら何よりだ。友人への感謝を述べてからマカロンをかじり、うっとりとした表情を浮かべるミントにジンも満足する。
「……で、お兄ぃからのおみやげは?」
「え、いや、無いけど……」
完全に失念していた。いつもなら任務帰りにはミントによく木材や道具だったり、ちょっとしたお菓子をプレゼントするのが恒例だったのだが、今回はすっかり頭から抜けてしまっていた。
ミントからジトーッとした目を向けられ、ジンも焦る。思わずポケットをまさぐるが、さっき突っ込んだヨレ手紙とシンプル石という五軍メンバーしかいない。
「……もしかしてそれ、手紙……? ねえ、ちょっと見せてよ」
「え? あ、ああ、いいけど。そっか、ミントなら分かるかな」
ポケットからハミ出ていた手紙がミントの目に留まり、ジンからミントへと手渡される。ジンとしても、こんな何も心当たりがない不気味な手紙を持っていても呪われそうで気が気でなかったので、これ幸いと快諾した。石が同封されていたということは、もしかすると雑な送りつけ商法的な詐欺の可能性も捨てきれない。
「けっこうきれいな字だね。途中から力が入り過ぎてるみたいだけど。……どれどれ」
サッと手紙の内容を流し見し、状態の悪さを理解したミントが手紙に手を乗せる。瞼を閉じ、撫でるように上から下へ手をスライドさせていく。ぼうっと手紙の表面に薄っすら光が宿り、消える。
間を置いて、ミントが薄目を開けて、こちらを睨みボソリと呟いた。
「ふぅ~~ん。お兄ぃって、意外とモテるんだね」
「はい!? なになに、なんて書いてあったのさ……?」
「や~だ、教えてあげないもん」
「そんな……よけい気になるよそれ」
ミントが舌を出し、手紙をジンに突っ返した。なんでかますます不満げになっているが、ジンにはとんと理解できない。
ミントはいわゆる
主治医によると、これも彼女の持病が原因となって、〈
「……でも朗報です! お兄ぃにはなんと、わたしに勉強を教えれる権利をあげよう!」
「なんじゃそりゃ。あのね~……だったらボクよりバーバラさんって適任がいるじゃんか」
ジンは頭を押さえ、呆れ気味に答えた。
監察官への志望や適性のない者が通う、座学中心のエルド神学校は養成校と同じく七年制だ。ミントは体質ゆえにあまりその神学校にも通えていないが、バーバラの家庭教師もあってどうにか留年だけはせずに五年生まで順調に進級できていた。
つまりは今年でもう十二歳になるものの、未だに兄への甘え癖は抜けない。
「お母さんじゃなくて、お兄ぃじゃないとダメなの!」
背筋をグッと伸ばし、上目遣いで見つめられるとどうにも弱い。人に教えられるほど得意ではないと毎度思っているジンだったが、追い打ちで裾を掴まれ、結局いつも通り了承した。
「はぁ……わかったわかった。どこが分からないの? あの読みかけの本でしょ」
「やったぁっ! あのね、歴史のとこなんだけど……」
ミントが自分で動かそうとした車椅子を、ジンが先回りしてグリップを掴んで机の前まで押していく。机の上に散らかった物を整理したミントは、残りのマカロン袋を間食用に脇に置いて、書きかけのノートを書棚から引っ張りだして教科書ともども広げる。
次の試験範囲だと言ってミントが指し示したのは、かつてこの夢天界で起こった未曾有の大災害にして大戦──〈巨蟲星戦〉についての項目であった。
テキストの端に写る、フードを被った男の横顔を目にした途端、ジンの表情が険しくなる。
「あっ……ご、ごめん、そうだよね! 勉強は自分でやんなきゃだよね、ね?」
ジンの微妙な変化に気付き、しまった、という顔でミントが場を取り繕おうとした。ミントとしては勉強は兄と遊ぶ方便のつもりだったのだが、いかんせん内容がまずかった。
気まずい空気を察知し、ジンも慌ててミントに微笑み返した。
「いや、いいんだよ。こっちこそ気遣わせてごめんな」
「お兄ぃ……」
無神経だったと感じたのか、ミントはうつむき黙りこくってしまった。今度は一転してジンの方がフォローに困っていたところ、ドアがコンコンとノックされる音がした。
二人が見向くと、こちらからの返事を待たずにドアが開き、ジンと親しい軟派男が手を振りながら顔を出した。
「やぁっほ~! 呼ばれて飛び出てウィル・タンソンだよォ~ん、ミントちゃんもゴキゲン麗しゅう~」
「ウィル! なんでうちに……?」
「なに、おば……じゃなくてバーさ……バーバラさんに聞いたらミントちゃんの部屋って言うからさ。つ~か、なんでってこたないだろ。せっかく迎えに来たってのにな~」
「迎えに……って、もう行くの? 連絡くれたらよかったのに」
「いやぁ、なンか腕輪の調子が悪くってよ。面倒だし直で来ちゃったわ」
今日の朝、ウィルと大聖殿で別れる際に待ち合わせの約束をしていたことは事実だ。しかし、想定より早かった上にダイレクトに家まで来るとは思っていなかったので面食らってしまった。
ウィルに車椅子ごと向き直ったミントがエルド教式の簡単な挨拶をしている脇で、ジンは苦笑しつつ、彼女の顔をちらりと横目で窺った。
「いいよ、お兄ぃも忙しいもんね。分かんなかったらお母さんに聞いて頑張ってみる!」
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