奇妙な果実は実らない ②

 チッ、と舌打ちの音がした。窓の外を眺めている短髪の男は、これで何度目になるかわからないほど苛立っていた。右手に流れる連山の峻険な眺めに嫌気がさしたのだろうか。僕はただその姿を見つめていた。バスに揺られ、席の隣に座って、触れない程度に隙間を開けて。

「あぁ、海に行きてえな」

 短髪の男は独り言を呟いた。

「今は山に登っているんですよ。火車さん」

 チッ!と、ひときわ大きい舌打ちが響く。バスはそれを無視して進んでいく。山の斜面に築かれた段々畑が見える。こんな山奥でも人の生活はあるのだと思い知らされる。

 自分たちのような異物が入り込んで良いものか、と逡巡した。繁華街の喧騒の中ではこんな気持ちにはならない。人垣溢れる街の中では、無秩序に変化し続ける場所だからこそ、ドロッとした得体のしれない自分たちのような者が入り込める隙間がある。しかし、田畑に囲まれた山村は結界が張られたような統一感があり、それが自分たちを拒絶しているのではないかと感じてしまう。いけないな。と僕は自嘲しながら仕事の資料を頭の中で反芻して雑念を払った。

 バスが山を登り始める前に、僕たち以外のわずかに残っていた乗客が、一人また一人と降り始めた。仕方ない。これから向かう先は温泉が湧く観光地でもあるのだが、失踪事件の噂が流れている場所であるからだ。日本には観光地はいくらでもある。この噂が僕たちが派遣された理由でもある。しかし、普通の失踪事件ならば警察の領分だ。問題は、事件とはならずに噂だけが広まったことにある。故に調査も兼ねて僕らはやってきたのだが、

「火車さん……」

 と、僕は声をかけると

「話しかけるな」

 低く、しかし力のこもった拒絶の声を返された。火車は舌打ちを繰り返しながら、ついには貧乏ゆすりまで始めてしまうほど苛立っている。

 もうすぐ目的地の終点へと近づいてきた頃、ちらほらと乗車する者が現れ出した。視界に入る限り村など見えないのに、山道のバス停に佇む人々が認められる。彼らは、停留所で僕たちを目にしたときから、完全に無視するかのような態度をとった。それは無関心というよりは、まるで僕たちのことを認識できないかのように、一瞥もせずに席へと座る。

 最初は人見知りをしているものだと思った。誰の目にも苛立っているのがわかる火車が隣にいるのだ。避けられるのは当然のことだとは思う。しかし、乗車する人々は、あたかも座る席が決まっているかのように、僕たちの前後の席にも座る人がいて、定期的に鳴る火車の舌打ちにも反応しない。

「火車さん……」

 と、僕はもう一度声をかけた。

「うるせえよ」

 と、相変わらずの返答が返ってくるだけだった。


 終点に着いた。乗客は無言でバスから降りていく。僕たちもそれに続いた。

 目的の宿に向かう道すがら、妙な視線を感じていた。道を挟む建物の窓に人影がうつり、こちらをぼうっと見つめている。

「火車さん、どうやら今回の事件は当たりかもしれないですね」

 火車はチッとまた舌打ちをして、

「お前は何かわからないのか」

「まさか。火車さんではないので確証はないですよ。火車さんこそ何か臭わないんですか?」

「俺の鼻はそんな便利なもんじゃねえよ」

 と言っては、またそっぽを向く。僕たちは奇妙な視線にさらされながら、とくとくとひたすら歩を進める。相変わらず、火車は苛立っている。

 目的の宿が見えた。古きよき宿といった日本家屋で、山林を背にした風景は絵に描いたような静けさを醸し出していた。

「今夜は泊まります」

 僕は言った。

「個室だろうな」

 火車は言う。

「当然、相部屋です」

 そう答えたら、火車は持っていたアタッシュケースを手放して僕の腰まで伸びた髪をわしづかみにし、振り回した。僕の顔が電柱にぶつかる。痛みを堪えていると、僕の頭を掴む火車の手の感触がした。

 グチャっと鼻が潰れる音が頭に響く。力いっぱい顔を電柱に叩きつけられた。血の臭いが鼻を満たす。錆びた鉄のようなあの臭い。激痛と共にそれは訪れる。

「これでも痛みは感じるのですよ。何度も言っているけど」

 僕は火車に向かって言った。手に絡まった僕の髪をとりながら、チッ!と大きな舌打ちをした。

 鼻血は止まらない。仕方なくポケットティッシュを鼻に詰める。外で着替えるわけにもいかず、宿へと向かった。


 宿に入り受付に声をかける。

「予約していた月神と火車です」

 彼は訝しげな顔を一瞬見せるも、平静を取り戻し部屋へと案内してくれた。仕方ない。鼻血で汚れたワイシャツの男を見て、何も反応するな、という方が無理がある。

「それで、先ずは着替えたいので部屋に案内してくれませんか」

 上手く声は出ているのだろうか。思わず鼻に詰めていたティッシュが落ちて、だらだらと鼻血が垂れて床を汚す。

 僕は血が口に入らないよう注意して、申し訳ありません、と言った。受付の店子は、気にしないで下さい、と身振りを交えて返答した。火車はその間も沈黙を貫き、その目は店子を睨んでいる。

「事前にお聞きしましたが、向かっている部屋に裕子さんは泊まっていたのですか」

「そうです。しかし、裕子さんは未だに見つかっていないのでしょう?ここでなくなったというのも良からぬ噂ですよ。ちゃんと、この宿からは平穏無事に帰られていますから」

「その点は、われわれも存じ上げております」

 と、僕は答えた。しかし、この話には続きがある。この宿から帰りはしたが、失踪した誰もがこの山から下りた形跡もないのだ。

「とりあえず、今夜は泊まってみて、何も無ければ調査に向かいます」

 僕が答えると店子は立ち去った。火車と2人っきりだ。彼の目は激怒の炎を灯し僕を睨んでいた。

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