9〜雨水に浸されて〜


 急いで荷物をまとめ校舎から飛び出した璃仁は、2年4組の教室の真下にあたる場所まで走る。生憎傘を持って来ていなくて、すぐに全身がずぶ濡れになった。


 けれど、そんなことは気にならないほど、今は投げ出された本を探すのに必死だった。璃仁は先ほど教室から見下ろした辺りの場所を見渡して、すぐにそれを見つけた。


「うわ……」


 手に取った本は村上春樹の『海辺のカフカ』だ。ブックカバーに包まれているけれど、この雨で一気に水浸しになっていた。紙は水に弱い。そんな当たり前の事実を今実感する。恐る恐るページを開いてみると、インクの滲んだページが二枚、三枚、とくっついていた。完全に壊れていた。  


 璃仁にとって、本は友達とも呼べる存在だった。一人きりで想像の世界に羽ばたかせてくれる夢のある書物。現実世界でどれだけ嫌なことがあっても、本を開けば主人公と一体化し、別の人生を体験することができる。時には悲しい結末を迎えることもあるけれど、それもまた一興だった。本は璃仁を決して裏切らない。璃仁の服装や見た目を揶揄うことも、汚いと笑うこともない。SNSのように誰かの人生を羨む必要もない。だってこれは想像なのだから、いくらでも誰かの人生に憑依できるのだ。

 そんなふうに大切にしてきた本が、今璃仁の目の前で容赦なく壊れていた。


「嘘だ」


 生まれて初めて、大切な友達を傷つけられた時のような絶望感に襲われた。

 自分が傷つけられるのではなくとも、本が傷つくことで、璃仁の心は砕けた。


 なすすべもなくその場に立ち尽くしていた。冷たい雨がどんどん激しさを増し、璃仁の頬を、腕を、足を、容赦なく打ち付ける。けれどそれよりも手に持った『海辺のカフカ』が本としての命を削っていくのを見て、自然と涙がこぼれてきた。その涙も、雨に流される。誰にも涙を見られないように俯くと、地面がひたひたに沈んでいく様が目に映った。まるで写真を見ているようだ。SNSで映える写真。雨の日に傘も持たずに大切なものを壊され、絶望に打ちひしがれる俺カッケー。SNSに投稿なんてしたこともないのに、キャプションが頭に浮かんだ。けれど、こんな投稿では誰も「幸せテロ」だなんて思わないだろう。


「……田辺くん?」


 そっと誰かに名前を呼ばれ、璃仁は身体中に打ち付ける雨の感触がなくなったのを感じた。

 雨水で浸される地面に、丸い影がぼんやりと浮かび上がっているのを見た。ゆっくりと顔をあげると、白地に黒い水玉模様の傘をさした紫陽花が、心配そうな表情で璃仁の顔を覗き込んでいた。


「どうして」


 嬉しい、という気持ちより先に、紫陽花がここにいることに対して疑問が湧き上がった。二週間会えなかった彼女に、みっともないところを見られて恥ずかしいとさえ思った。


「今帰ろうとしていたところ。傘もささずにきみがこんなところに佇んでいたからどうしたんだろうって思って」


 紫陽花は当然の疑問を抱きながら璃仁の元にやって来たようだ。やがて璃仁の手の中にある本に、焦点が合わさる。


「それ、どうしたの」


 クラスメイトに窓から投げ落とされたなんて告白するのはあまりにも恥ずかしすぎた。同級生に揶揄われているところなど、女の子に知られたくはない。まして気になっている女性ならなおさら。


「ちょっと、手が滑って落としちゃったんですよ」


 璃仁は紫陽花に泣いていたことを悟らせないように、しっかりと目を開いて校舎の教室の方を指さした。たぶん、目が充血している。真正面を見れば、涙を流していたことぐらいすぐに分かってしまうだろう。

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