10〜守れなかった経験〜
「そうなの? めちゃくちゃ不注意じゃん。ふつうそんなもの窓から落とさないって」
「ですよね」
「うん。きみ変わってるよ」
「よく言われます」
璃仁の言葉を信じたのか、紫陽花は「災難だったねー」と軽い口調で話した。そのことになぜかほっとする璃仁。けれど次の瞬間、紫陽花は璃仁の背中にぽんと手を添えて迷子の子猫をなだめるような口調で言った。
「大事なものなんでしょ。水浸しになって、かわいそう」
吐息を漏らすような彼女の声が、璃仁の胸にストンと入ってきた。
別に、本を投げ捨てられたことを誰かに同情して欲しかったわけではない。むしろ格好悪いから誰にも知られたくなかった。けれど、璃仁の気持ちを案じて寄り添ってくれる紫陽花の言葉は、璃仁の胸に切なく響いた。
「……すみません」
「なんで謝るの? それ、悪い癖だって」
紫陽花は呆れたようにため息をついた。でも、心では璃仁のことを心配している。そんな胸のうちが伝わってきて、璃仁は泣きそうになった。
「大切なものを守れないなんて、格好悪いですよね」
本に対して「守る」だなんて大袈裟な言い方で笑われるかもしれない。璃仁はそっと紫陽花の顔色を窺いながら呟いた。
「そんなことないよ。守れないことだって、ある」
紫陽花は驚くほどすぐに璃仁の心配を否定してくれた。しかし紫陽花は璃仁の目を見ていなかった。何かを噛み締めるように、自分に言い聞かせるように肯定した。
「先輩も、大切なものを守れなかった経験があるんですか?」
「……うん。あるよ」
雨の音でかき消されそうなか細い声だった。璃仁は、なんとなくその先を聞いてはいけないような気がして押し黙る。雨雫が、傘からはみ出た紫陽花の肩で万華鏡のように形を変える。その雫の姿を目で追っていると、紫陽花が璃仁の方へ視線を向けた。彼女のまなざしに気づいた璃仁が、雫から目を離す。紫陽花は真剣な表情で、璃仁に何かを訴えかけているような瞳をしていた。
「紫陽花先輩は、好きな人がいるんですか?」
彼女は璃仁の問いかけに、肩を揺らし瞳を瞬かせた。
「いないよ」
はっきりとした答えだった。けれど、紫陽花のその言葉通りに受け取るべきなのか璃仁には分からなかった。紫陽花の心は、口先から出る言葉ではなく、もっと胸の奥の方の、限られた人間しか触れることのできない遠い場所にあるような気がした。璃仁にはまだ、紫陽花の胸のうちに触れる資格はない。
「そうですか」
今はただ、頷くことしかできない。この
降り頻る雨の中、璃仁は彼女の肩越しに見える傘の淵から滴る雨水を、何度も目で追っていた。
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